左目

尾八原ジュージ

左目

 愛香のことがいい加減重たくなっていた。二ヵ月にわたる長期出張が決まったとき、おれが最初に考えたのは(この間にフェードアウトできないだろうか)ということだった。普通に切り出した別れ話じゃ、彼女はどうしたって離れてくれそうになかった。

 出張先はベトナムで、近いといえば近いけど、頻繁に来られるようなところでもない。「仕事が忙しいし、滞在先は会社が借り上げてる建物で実質社員寮みたいなところだから、こっちに来ても遊んだり泊めたりできないよ」と伝えると、愛香は「わかってる」と言ってさびしそうに笑った。ちょっと悪いな、と思ったけれど、そういうどうしようもない不在期間に彼女の心が離れて、よその男のところにでも移ってしまえばいいのに、とすぐに思い直した。

 おれが日本を発った翌週あたりから、意外なことに愛香からの連絡がぱったりと途絶えた。本当に好きな男ができたのかもしれない。だとしたら助かる。おれがそうやってほくそ笑んでいた頃、愛香はおれの部屋でゆっくりと自殺していたのである。

 餓死だった。

 外に出ればすぐそこにコンビニがあるというのに、あいつだって金がないわけじゃないんだからいくらでも食料なんか手に入るのに、二十四時間いつでも手を伸ばせる食料庫を窓の外に見ながら愛香は餓死した。誰かに拘束されていたとか、怪我をして動けなかったなんてこともない。ただただ自分の意志で飢えて死んだのだ。

 ベッドの上に遺書があった。

『沖くん、わたしのこと前みたいに好きじゃないでしょ。

 わたしは死ぬほど好き』

 その二行だけの遺書。それは見慣れた几帳面な筆跡で、おれと愛香のツーショット写真の裏に書かれていた。

 出張二ヵ月目のある日、日本から緊急連絡を受けたおれは泡を食って帰国した。えらいことになったと思った。

 迷ったが、葬儀には一応出た。愛香の両親はすでに亡く、身内といえば姉がひとりいるだけだった。妹によく似た顔の姉さんは、おれを見ると「ご愁傷様」と感情のこもっていない声で呟いた。遺族である彼女よりもおれが言うべき言葉なのだがと心の中でツッコんだが、後になってあれは適切な一言だったと知ることになる。

 ともかく、おれは引っ越した。激重女が自殺した部屋なんて、いつまでも住めたもんじゃない。実際帰国してからというもの、おれはホテルで寝泊まりし、あの部屋で夜を明かしたことは一度もなかった。家具も全部取り替えて、愛香の痕跡のない部屋で、おれは新しい生活を始めた。


 愛香の夢を見るようになったのは、引っ越してから何日か後からだった。

 夢の中でおれは現実と同じようにベッドに横たわっている。体が動かない。金縛りと戦っていると、ベッドサイドに愛香が現れておれの顔を覗き込む。そして、骸骨のように痩せた右手を伸ばしてくる。

 細い指が、瞼を閉じることのできないおれの左の視界を覆う。異物感、続いて激痛に襲われる。愛香の指が眼窩に侵入してくる。おれは悲鳴を上げ、そして実際に声を上げながら、現実のベッドの上に起き上がる。

 毎晩同じ夢を見た。

「沖くん、ひどい顔色だよ」

 あちこちで指摘されるようになった。毎晩おちおち眠っていられないのだから、当然といえば当然のことだった。幸い周囲は「恋人が亡くなったんだから辛いのは当然でしょう」と、おれに同情的だった。有給休暇も残っていたので、おれは一日会社を休んで、繁華街のビジネスホテルに泊まることにした。むろん、部屋に籠もって休息をとるためだ。今更場所を変えたところで夜になったら同じ夢を見るのだろうとは思ったが、それでも日中は休むことができる。それに、なるべく賑やかなところにいたかった。


 はたしてどこで寝るとかは関係なく、愛香はおれの夢に現れた。

 今度の夢は長かった。どんなに悲鳴を上げてもなぜか目が覚めなかった。彼女はとうとうおれの左目をほじくり出し、それを愛おしそうに口に含んで転がした。それから、空になった眼窩になおも指をねじ込んだ。五本の指がパキパキと音を立てながらおれの眼窩に入ってきた。

 おれは絶叫する。

 夢はまだ覚めない。

 愛香は骸骨のような体をくねらせ、やせ細って体積の減った体をさらに小さく圧縮させながら、眼窩へ、そしてさらにその奥へと侵入を続ける。右手全体、そして腕が、小さな穴にぎちぎちと押し込まれる。ぱさついた頭髪に覆われた丸い頭がおれの目元に押し当てられた。それは卵の殻のようにくしゃくしゃとひび割れ、形を崩しながら頭蓋骨の内側に流れ込んできた。

 おれは喉が破れるほど叫び、必死で動かない体を動かそうとした。愛香の細い体が、長い髪が、ずるずると頭の中に入ってきた。やがて何かにつんつんと脳みそをつつかれる感触があった。

 夢の中だというのに、おれは失神した。


 目覚めると朝になっていた。

 夢見は最悪だったが、ひさしぶりに一晩ぶっ続けで眠ったおかげか、普段よりも体調がよかった。欠伸をして目を擦ったとき、左目に痛みを覚えた。

 洗面所に駆け込んで鏡を覗き込んだ。あんな夢の後だ、何が起きたのだろうと肝を冷やしたが、大したことではなかった。睫毛が抜けて目に入っただけだ。よかった。沖くんのお顔が変わらなくてよかった。独り言ちてはっとした。鏡を見ているのは確かにおれだ。昨日までのおれと地続きの、そして今あなたの顔を鏡越しにあなたと見ているわたしはあなた自身だ。何かがおれの頭の中にいる。

 おれは目を閉じ、両手で顔を覆った。真っ暗な瞼の裏に、愛香の顔がくっきりと浮かび上がった。

「好き」

 愛香の声が頭の内側に響く。愛香はおれの脳に、わたしはあなたの脳に、その皺に染み込ませるみたいに直接語りかける。わたし、ずっとここにいるからね。ずっとずっとずっとずっと、死ぬまでずっと死ぬほど好きだからね、沖くん。

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