第16話「追走劇。裁判」
早朝の湿原は空気も冷えて、遠目には薄く霧靄がかかっていた。
春先とはいえ未だ凍えそうな寒さを他所に置き。俺たちは馬を走らせ街道を北東に進んでゆく。
休息は十分だが、いつ敵が飛び出してくるのか分からない状況は。非常にうっとおしいものがあり、それが一番のストレスだ。
俺が乗る馬車の天井には見張り台があるので、そこで風景を楽しみながら見張りをしているが、今のところ野生動物くらいしか察知できない。
遠目に見える湿地が、昇り始めた朝日によって薄く照らしだされている。
こんな時でもなければ、しばらく眺めていたい程の風景だったが。それを遮るように影が馬車を襲った。
「その馬車止まれぇ!」
道端の丘から出てきた影は、黒ずくめの男だった。
飛び出しざまに馬へ攻撃を加えて、馬車を止めようとしたようだが。それを兵士に阻まれて落下、着地ざまに矢を打たれているうちにドンドン遠ざかっていく。
「敵襲!武芸者!一騎!」
「総員戦闘配置!一つの脱落も許さん!」
馬車の速度が一気に早くなり、兵士たちが持ち場へ付いて行く。
一団は砂煙を上げて早朝の湿地を疾走する。
俺も屋根から一度室内へ戻り、隊長へ判断を仰ぎに行く。
「隊長、俺は今回どうしますか?」
隊長は難しい顔をしていたが、俺の配置についてはすぐに言葉が出てきた。
「勿論、アロン殿はこの部屋で待機です。お忘れでしょうが、あなたも大切な積荷なんですよ?」
すっかり忘れていた。
俺の顔を見て、隊長は微笑みながら続けてこう言う。
「ですが、必要になればお手をお借りしますので。ごゆっくりお待ちください」
「今必要ではないんですか?」
俺が言った言葉は隊長には全く響かなかったようだ。それどころか少し心外だとでも言うように、隊長はにっこりと笑みを浮かべてこう言った。
「当然です」
黒衣の一味である男が独断で馬車の一団へ襲撃を仕掛けようと決意したのは、上役の男が当てにならないと判断したからだ。
武を究める為、日々非道外道を貫く男にとって、帯刀しているだけの優男は敬意の抱きようがなく、その指示も自分が動きたくないだけの物にしか感じられなかった。
唯一褒める所があるとすれば、審美眼は確かなようで。奴の刀は結構な業物という事は認めていた。
「任務遂行の暁には、幹部昇進も確実。俺もそれなりの物を差すべきだろうな」
どうせなら褒美に優男の刀を頂こうか。あれほど気に入っているのであれば、相当な一品だろう。ならば、それは鑑定士ではなく優れた使い手に渡るべきだ。
お気に入りを取り上げられた優男が、あの締まりのない顔がむせび泣きわめく姿を想像した男は。口の端をゆがめながら己に与えられた力を開放する。
「おおおおおぉっ!魔獣紋「
体に刻まれた刺青に頸力を込めて呪文を唱える。
男の身体が紫の光に包み込まれ、その影が変質していく。
「があああぁぁぁるるるるっっ……」
光を飲み込むまで肥大化した男は、その姿を大きく変化させていた。
男の身体を中心に、刺青から湧き出てきた肉塊が男と混ざり合い、合体し、一つの生き物のように整えられた。
それは一見すると犬の獣人族に見えるかもしれない。しかし、もう一息つく頃にはそれが似ても似つかないどころか、比べることも非礼に当たると考えるようになるだろう。
四つの目、四つの耳、二つの口と、犬と人それぞれの部位が入り混じるその姿は。妖魔にすら似通う物が無いおぞましき存在だった。
「くふふふふ……やはり素晴らしい……この力こそ俺の求めていた物!」
変態が完了した男は、己の中で蠢く頸力の奔流に酔いしれていた。その力は先ほどの男とは別人のように強化されており。今の男ならば、撃ち出された矢を足場に射手を食い殺せるだろうと考えていた。
「おっと。このままでは逃げられてしまうな?仕方がない、本気で追いかけねば」
わざとらしい言い訳を独り言ちて。怪物は地を蹴り出し、道路を破壊しながら追走を開始した。
「再び敵接近!妖魔に酷似していますが正体不明!早いぞ、気を付けろ!」
大人しく馬車で待機してから数分。勢いよく流れる風景を一人で眺めていると、大声でそんなことが聞こえてくるではないか。
すかさず窓から後方を確認する。
先頭から並ぶ車列の最奥から更に後方。一歩踏み出すたびに地表を爆砕し、急加速しながら追いかけてくる、異形の怪物が走り寄ってきていた。
「なんじゃありゃ、新種の妖魔か?」
舌を二枚口からはみ出させ、よだれを垂らして接近する怪物の姿に、兵士たちは最初面食らっていた物の、すぐに対処を始める。
「羽無し!二足!腕二本!斉射はじめ!」
弓持ちの武芸者が放つ強弓の一斉射撃。それは怪物と周囲を巻き込みながら着弾していく。
「命中!損傷無し!さらに接近!」
「近寄らせるな!足を狙え!」
しかし、それでも怪物は倒れない。
間違いなく命中している筈が、それを意に介さない捨て身の突撃により、着々と彼我の距離を詰めてゆく怪物。
既に馬車馬は限界速度で疾走しており。これ以上は速度を期待できず、寧ろ無理をさせれば今の速さも失いかねない。
脚部に刺さる矢を抜きながら走る怪物の姿は、射手に威圧を与える目的があるとすれば、それは見当違いだろう。
俺と共に戦った戦友はこの程度では諦めないのだ。
「最後尾に接近!追い付かれます!」
「各員、再配置!接近戦用意!」
輸送用の馬車は相応の強度を持つため、武芸者が軽く戦闘を行う事は可能だ。
今回は厳重に運ばれる積み荷があるので。好きなようにとはいかないが、それでも相手が追い付けなくなる程度に傷をつけることは十分可能だ。
「貴様らの屍で積み荷を彩ってやろう!」
「発声確認!道術の恐れあり!注意しろ!」
「「おうっ!」」
最後尾に取りつかれてしまい、流石にもうここからは見えなくなった。
荷台に乗り込んだ怪物を出迎えたのは、幾重にもなって迫る白刃の輝きだった。
車内での戦闘は至近距離でのものになる。
怪物も幾度かの鉄火場を乗り越えた経験がある。しかし、神将に数えられる流派の使い手との戦いは、機会が無かったので経験しておらず。それが怪物の油断を抑える形で役立った。
「ぐおぉっ!があぁ!」
「しっ」「はっ」「せいっ」
刃物相手に怪物は怯むことは無い。己が今、世界で一番強いと錯覚している怪物は。その蛮勇で、技量と数が勝る相手に互角以上の戦いを繰り広げていた。
「ぐっ」
「ははははあぁ!どうした!それが精一杯か!」
怪物も強奪する品が何なのかは理解できている。それがどの馬車に乗せられているのか探す予定だったが、兵士を締め上げればすぐにわかると考えを改めた。
「では、そろそろ減らすか」
その為にはまず、この車両の兵士を無力化する必要がある。怪物は咆哮を上げて更に早く鋭く踏み込んで行く。
「そらそらそらぁ!どんどん追いつめられているぞぉ!」
「ぐおぉっ!」
「まだまだっ……!」
苦しい声を上げる兵士を鎧越しに肉体を痛めつける怪物。一人が集中して狙われている事に気づき、それを補う兵士たち。
一進一退の攻防は、攻めあぐねた怪物がすぐに攻め方を変えたことで変わった。
「もういい!馬車ごと死ねぃ!」
思い切り足を振りかぶる。かかとを落として馬車を破壊しようと試みる怪物に、兵士が一人阻止に動いた。
「かかったなぁ!」
それを狙っていた怪物は、足の爪を兵士に向け振り下ろす。
「はぁっ!」
「ぎゃぁ!」
当然、敵のいう事を真に受ける者はこの場にいない。
必殺を狙って振り下ろした脚、その勢いを利用した兵士の一閃は、怪物の脚を斬り飛ばした。
「今だ、落とせぇっ!」
「「おおっ!」」
その一瞬をついて他の兵士が怪物を突き飛ばし、馬車から追い出した。
「出て来たぞ!撃て!撃て!」
転がり落ちる怪物を目ざとく見つけた射手たちは、次々に矢を放ち怪物を地面に縫い留めてゆく。
「あああああぁっ!」
身体を動かすことも難しくなった怪物を置き去り、馬車は一台も欠けることなく襲撃をしのぎ切った。
怪物は道路に貼り付けになり、走り去る一団を見送ることしかできなかった。
歓声が聞こえたことで、最低でも勝ったことは分かった。
戻ってきた隊長に顛末を聞いてみれば、何のことは無い完全勝利だった。
あれは確かに驚異的な力を持つ怪物だったが。中途半端に知恵を付けたのが悪かったな。手練れの武芸者がアレになったら間違いなく犠牲者が出ていただろう。
さっきの襲撃で馬の消耗が激しく。このまま速度を落として走らせて、次の町で休息をとる事になった。
アンプロスの町にはそれから四時間ほどで到着した。
この地方から皇都のある中央へ繋がる街道で、この町は一番の流入経路がある事で有名だ。
陸路だけでなく河からも町に入れるこの町は、この地域では二つの流通経路が混じる交差拠点として重要視されている。
ここから河を遡上して皇都へ戻る計画もあったが、船が用意できずに流れたと隊長が言っていた。
もちろんのこと、ここへ集まる人の数は多く。そこへ戦闘痕を持つ馬車の一団が来訪すれば大騒ぎになるのは、至極当然の話だった。
ここまでくる途中、カラエテール方面へ向かう旅人や馬車に。忠告として切り落とされた怪物の脚を見せてこの道は行かない方がいいと説明した所、共にこの町まで戻る事になった。
話を信じてくれるか賭けだったが。皇都から来た皇帝直々の部隊である事がわかると、次々に追従してきた。その様は皇帝の威光ここにありといったところだ。
町は一時混乱に陥ったが、隊長が町長と武林所の顔役と共に説明の布告を行う事でその影響は最小限に抑えられた。
その後、皇都行の船に連絡員を乗せ。途中報告と斬り落とした怪物の脚を、一足先に送ってもらった。
追跡者がいる以上、俺たちがこの町に入っている事は知られたと言って良い。その対応を話し合うべく、隊長は町の上層部との会談に向かった。
隊長が出てしまい、俺は護衛と共に宿で待機となった。あくまで俺も護衛対象なのはよくわかっている。わかっているが。ここまでの道中でも缶詰めにされ、ここでも缶詰めでは息が詰まりそうだ。何か暇をごまかせるものが欲しい。
そういうわけで本を持ってきてもらった。
流石にわがままで脱走するほど幼くないし、護衛の人に迷惑をかけて遊んでも、絶対に心の隅に嫌なものを残すので大人しくすることに決めた。
早速、ふかふかの座椅子で本を読むことにした。
用意された題名は「ほら吹きカザシナの一生」。どうやら娯楽小説の様だ。
怪物となり狙いの馬車を発見した男は、独断専行の末まんまと対象に逃げられた。
左足をひざ下から斬り落とされ、多数の矢で地面に磔にされた男は噂を聞きつけた仲間に回収され、上役の男の前に突き出されていた。
「説明してもらって良いですか?どうして一人で突出したのか」
ぐうの音も出ない失態と、優男と内心で蔑んだ相手に詰められた事で男は人生で最も焦っていることが自覚できた。
「……早急に、目的の物を回収し、あなた様に献上するためです」
「へぇっ!あなたが私に。それは驚いた。てっきり見下されているものとばかり」
「お戯れを……我々は幹部の方々を敬愛しております」
普段の態度が見透かされていた事に心胆が冷える感触がしたが。男は何とか口を動かし、この失態を挽回する機会を得る必要があった。
「恐れながら申し上げます」
「……言ってみなさい」
「わたくしめがアンプロスへ潜入することをお許しください」
跪き、土下座をしながら望みを述べた男に。座って話を聞く上役ではなく、男の周囲に控える同僚たちから殺気が放たれる。
命令違反をしながら、その上それを挽回する機会を寄越せという男を、同僚たちは完全に見限っていた。
「チェスターヴ様、このような戯言を聞く必要はありません」
「こ奴は処分して我々で回収に当たればよろしいかと……」
ごく当然のように上役へ媚びを売る同僚達を、男は糾弾する為に叫んだ。
「この知れ者どもが!自分の責任を果たさんとする武芸者へ何を言う!」
「黙れ!貴様はどれだけ面の皮が厚いのだ!」
「貴様がおめおめと脚を落としたせいで、われわれ武王衆が積み上げてきた情報が漏れ出たのだぞ!」
彼らの言う事が正しいと、男も承知している。しかし、それを認めれば自分の命運は尽きるので、男も必死に自分を弁護する。
「その身を差し出して威力偵察を行った者に、ねぎらい所か罵声しか出せんのか!」
「回収すると言っておいて威力偵察とは……随分、おめでたい頭だな」
「次善の策というやつだ!確実に成功する作戦しか出来ない臆病者共には行えない類のなっ!」
男の煽りに周囲の同僚は。最早、爆発寸前にまで怒りがこみあげていた。
「言わせておけばこの下種が……」
「野良犬程度の誇りも無いのか」
「チェスターヴ殿、どうされますか、この……阿保を」
静かに考え込んでいた上役は、ポンと手を叩いて周囲にこう告げた。
「本人が行きたいなら行かせてあげましょう」
その言葉に男は自分は賭けに勝ったと確信し、同僚達へ勝ち誇った。
「っですが……」
「もちろん我々も行きます。これ以上はあっちも本腰で守りに動くでしょうから、出来るだけ素早く動く必要があります」
そう言って上役は周りの部下へ一つの指示を出した。
「とりあえず頑丈な棒持ってきてください。あと縄」
その後、密会の会場になっていた廃屋周辺に、途轍もない悲鳴と叫び声が聞こえた。
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