ちくわぶ

増田朋美

ちくわぶ

ある日、蘭の家に一組の男女が訪ねてきた。その顔は蘭にも見覚えがあった。確か、半年前に蘭のところに背中を預けにやってきた女性、朝倉茉衣さんというかわった名前の女性だった。確か、ご両親が、株式会社朝倉という会社をやっていて、家に一人ぼっちで寂しいと訴えてきた、軽い精神疾患がある女性であった。まあそれは、薬を飲んでいれば、問題ないレベルであるが、それよりも、彼女の家に日頃から誰もいないと言うのが問題だった。その寂しさを訴えた彼女に、蘭は観音様を彫って、これでもう寂しくないと納得させた覚えがあった。

「朝倉茉衣さんじゃないですか。どうしたんですか。こんなところへ訪ねてきて。」

蘭が、二人を居間に招いてそういうと、

「はい。半年前に結婚いたしました。主人の、寿人です。」

と、彼女は、隣りにいた男性を、蘭に紹介した。

「初めまして、茉衣の夫の、朝倉寿人です。」

それを聞いて蘭は思わず、

「ご主人が朝倉のせいを名乗っているのですか?」

と聞いてしまった。

「ええ、しがない次男坊ですから、なにを名乗っても構わない気がしたんです。」

寿人さんはにこやかに言った。

「そうですか、つまり入婿というわけですか。それは珍しいですね。」

もしかしたら現代であるからこそ、そういう男性がいるのかなと思いながら蘭は言った。

「それで、結婚生活は順調なんですか?」

と、蘭が聞くと、 

「ええ先生。とても嬉しいご報告がありまして、それで今日はこさせてもらいました。私達、これからお父さんと、お母さんに。」

と、茉衣さんはにこやかにいった。

「お父さんとお母さん?あ、そうですか、それはおめでとうございます。みなさんもさぞかし喜ばれたことでしょう。」

蘭がそういうと、玄関のドアががちゃんと開く音がした。

「なあに、蘭が、喜んでるなんて珍しいわねえ。」 

そう言いながらはいってきたのは蘭の妻アリスだった。もうすっかり着物姿も馴染んでしまって、髪も黒く染め直しているし、日本人らしくしているが、顔つきからやっぱりヨーロッパ人何だなと言うことがわかる。

「いやあね。こちらのご夫婦が、これから赤ちゃんが生まれるそうで、今日はその報告に来てくれたんだ。以前、彼女の背中に観音様を彫ったことが縁で。」

と、蘭が言うと、

「ああ、奥様ですか?朝倉茉衣と、夫の朝倉寿人です。先生には茉衣がお世話になりました。その節はありがとうございました。」

と、寿人さんが、アリスに、茉衣さんを紹介した。

「そうなのね。それで、あなた達、これからパパとママに。いつ生まれるの?」

「えーと、3月の31日だそうで。」

茉衣さんがそう言うと、

「ああ、予定日なんて、当てにしないほうがいいわよ。10日近く早かったり、その逆もあるから。そういうのは当てにしないで、気長に待ちましょ。それは、助産師していればわかるわ。もう、医者の言うことなんて当てにしすぎないほうが絶対にいい。日本人は、医者の言うことに弱いけど。」

と、アリスはにこやかに言った。蘭が、お前ちょっといいすぎなのではないかと言ったが、茉衣さんも、寿人さんも何も言わなかった。

「で、まだ赤ちゃんの性別は決まってないの?」

アリスは、冗談ぽく言った。茉衣さんがええまだというと、

「そうなんだ。そのへんが分かれば一緒にバースデープランを立てたり、もし、希望すればお産の立会もするから、遠慮なく使ってね。私、そういう仕事してるから、何でも相談してくれていいわ。失礼だけど、その年で赤ちゃん出産ってなると、かなりリスクの高い妊娠ということになるのかしら。気をつけないと、色々な障害も出ちゃうから、特に注意して生活してね。お仕事は何をされているのかしら?」

と、茉衣さんより、興奮してまくし立てるのだった。

「お前、ちょっと色んな事いいすぎじゃないか?株式会社朝倉という企業の社長さんのお嬢さんだよ。そのくらい、ちゃんと管理してくれているさ。」

蘭がそう注意すると、

「あらごめんなさい。こういう仕事をしていると、危険な目に合う人も多いから、それで結構心配しちゃうのよ。」

アリスは申し訳無さそうに言った。

「いえ、いいんです。確かに産婦人科の先生にも言われました。39歳で赤ちゃんというのはかなりの高齢出産になるから、気をつけた方が良いって。私、大変なことがあっても元気な赤ちゃん生みますから、心配しないでくださいね。」

茉衣さんがそう言うと、寿人さんも、

「僕も頑張って彼女を支えます。」

とにこやかに言った。

「それは良かった。パパがママに協力的であれば、尚更いいわ。じゃあ、今からお祝いしましょうよ。あなた達ご飯まだでしょ。寿司の出前でも取るから、それでお祝いしましょう。」

アリスがスマートフォンを取ると、蘭が、おい、彼女に考慮してあげろといった。

「ああそうか。確かに食べつわりとかあるもんねえ。それなら、寿司はやめたほうがいいかしら?」

「いいえ大丈夫です。こう見えても、つわりとかは全く平気で。何故かわからないけど、ご飯はよく食べられます。」

茉衣さんがそう言うので、アリスは電話をして、寿司を注文してしまった。数分後に寿司が届いたが確かに彼女の言うとおりで、寿司を開けても、茉衣さんは吐き気も何も催さずに食べてしまった。それくらい強かったら、産んだときの痛みも平気かなとアリスが冗談で言ったくらい、彼女は寿司をよく食べるのだった。二人は、蘭たちに見送られて、自宅へ帰っていった。アリスは、その背中を眺めて、やっぱり若い人は違うわねと言った。それを見て、蘭は、彼女の様に明るくはどうしてもなれないと思った。そのあたりはやっぱり、男と女の違いなのだろうか?

それから、半年がたったある日のことであった。その日は、とても寒くて、本当に冬という言葉がピッタリの日だった。なんでこんなに冬は寒いのだろう。厳寒というが、なかなか外へ出るのが難しい日でもある。その日は、曇っていて、これは雨でも降るかなと蘭たちは予想していたが、予想は外れて雪が降ってきた。この静岡では、雪が積もるということはほとんど無いが、それでも雪が降るというのは、珍しいものである。そういうわけだから、蘭は外へ出ないで家で新規で刺青を依頼した客の、下絵を描いて一日終わるかなと考えていたのであるが、玄関のインターフォンが音を立ててなった。

「はい、どなたでしょうか?」

蘭が、車椅子を動かして、玄関先へ行くと、目の前に、髪を雪で濡らした、朝倉寿人が立っている。

「朝倉さんどうしたんですか。こんな雪の日に傘もささずにいたら、風邪を引きますよ。今、タオル持ってきますから、そこで待っていてくれますか?」

蘭がそう言うと、寿人さんは、

「先生、奥様はいらっしゃいますか?」

と、聞いた。

「あいにく、アリスは、今でかけておりまして。30分ほどしたら帰ってくると思いますよ。それまでお茶でも飲んで待っていてくれますか?」

蘭は、もしかしたら、茉衣の赤ちゃんのバースプランのこととか、赤ちゃん用品のことかなと思ったが、寿人さんの表情は喜んでいるようなかおではなかった。

「とりあえずはいってください。ここで長時間立たせていたら、風邪を引きます。」

そう言って寿人さんを、家の中に入らせた。そして、食堂に連れていき、椅子に座ってもらって、自分はお茶を入れた。蘭が、お茶を入れて彼に渡すと、もう我慢できなくなってしまったのだろうか。寿人さんは涙をこぼして泣き出したのであった。

「どうしたんですか。なにかありましたか?」

蘭は寿人さんに優しく言った。

「実は、茉衣が、ヘルプなんとかというもので長らく、入院していましたが、一週間前に、帝王切開で男の子が生まれました。予定より、3ヶ月近く早く生まれたので、いま、保育器の中にいるのですが。」

寿人さんは、下を向いたまま言った。下を向いたまま喋っているのが、そのことに嘘はない証拠なのだろう。ちなみにヘルプなんとかというのは、おそらくHELLP症候群のことだと思う。アリスから少し聞いたことがあるが、妊娠中毒症を放置したことでかかりやすいとか言われているらしい。

「そうなんですね。とりあえず、赤ちゃんは無事に生まれたんですか?」

蘭は、そう言ってみた。

「ええ。それはなんとか、無事に生まれてくれたので、一応、出生届は出してきました。名前は、一応、朝倉由紀夫とつけました。予想外の出来事でしたので、何をつけていいかわからず、尊敬する作家の名前をつけました。」

寿人さんは、そう言っている。

「そうですか。で、茉衣さんは、どうしていらっしゃいますか?」

蘭が聞くと、

「ええ、今の所、病院で過ごしていますが、偉い鬱になってしまいまして、高血圧が回復した次第、精神の治療を受けるそうです。」

と、寿人さんは答えた。

「そうなんですね。子癇発作とか、そういうものには至らなくて良かったじゃないですか。何よりも、由紀夫くんが無事に生まれてくれた事を、喜んであげてください。」

そう蘭は言ったのであるが、寿人さんは、それどころじゃないんですと言った。

「でも、朝倉のお父様やお母様には、僕が管理不行き届きであると見られてしまったようで、茉衣がああなった責任を取って、もうこの家から出ていってもらう、そんなふうに妻の管理もできないのなら、子育てできるはずがないと言われてしまって。今は、住む家もないから朝倉の家にいますけど、もう朝倉のお父さんとお母さんからは、出ていってくれと言われっぱなしで。」

「はあ、そ、そうですか、、、。」

蘭は、怒るよりも呆然としてしまった。それと同時に、アリスが、用事から戻ってきた。

「ただいま。帰ってきたわよ。どうしたの?」

そういいながらアリスは部屋にはいってきた。すぐに寿人さんの存在に気が付き、

「もしかして、出産の計画とかそういう事で来たのかな?」

と言ったが、

「お前も明るすぎるなあ。少しは空気読めよ。なんでも、茉衣さんが、HELLP症候群にかかってしまったそうで、一週間前に赤ちゃんが生まれたそうだ。名前は、由紀夫くんだそうだよ。今、保育器の中にいるんだって。まあ、予定より、3ヶ月近く早かったらしい。」

蘭がそう説明すると、アリスも、心配そうな顔になって、

「それで、奥さんは大丈夫なの?赤ちゃんは?」

と、すぐに聞いた。でも、寿人さんは答えない。

「何グラムだった?」

アリスがもう一度聞くと、寿人さんは、

「一キロもありませんでした。」

と小さい声で言った。つまりそれだけ、発育が悪かったということだと思われる。

「まあそんな事!そうなるんだったら、高血圧とか、そういう症状があったと思うけど。基本的にそれが出たら、仕事はお休みして、絶対安静にするものだけどな。それもしなかったの?」

アリスが聞くと、

「はい。確かに、そういう事は言われましたし、塩分のとりすぎなども注意されましたけど、ちょうど、家の会社の工場が忙しすぎて、茉衣にも手伝ってもらわないと、納品に間に合わなかったんですよ!」

寿人さんは男泣きに泣いた。

「それで、茉衣さんに仕事を手伝わせたわけ?全くひどいことしてくれたものね。そういうね、高血圧とか、そうなったらもう仕事は辞めるくらいの気持ちでいてもらわないと。もし、茉衣さんが自分は大丈夫だって言っても、力づくで止めるべきだったのよ!それはもしかしたら、お父さんとしての初仕事だったかもしれない。それなのに、あなたはそれを放棄したってわけ?工場が忙しすぎてるのにかまけて?は!無責任すぎるわ。そういうことなら、もちろん管理不行き届きね。それなら、そうなってもしょうがないわよ!」

「ごめんなさい。そんなに怖い異常だなんて、茉衣も僕も知らなかったのです!」

アリスがそう言うと寿人さんは力なく言い返した。

「そうだけど、他の人から聞くなりして、HELLP症候群とは本当に怖いんだって事を知る機会はなかったの?病院から説明もあったと思うけど。それなのに、あなたは工場を手伝わせたわけ?そんなの、父親って呼べるのかしらね。お母さんに全部任せきりで、仕事さえしていればそれでいいっていう時代じゃないのよ!日本の社会で一番遅れていることはそれなのよ!」

アリスは激して言い続けた。

「お前、仕方ないじゃないか。寿人さんだって悪気があってそうなったわけじゃない。決して茉衣さんのことをバカにしていたとか、そういう事は無いと思うよ。だから、許してあげればいいじゃないか。」

蘭が、穏やかにそう言うと、

「いいえ、あたしは、何人も妊婦さんを見てるからわかるけど、HELLP症候群とか、子癇発作みたいなものは、ひどい人は死んでしまう可能性だってあるの。だから、それを放置しておいたなんて、本当に間が抜けすぎているというか、父親失格よ!」

アリスは、そう蘭を怒鳴りつけた。その表情からみて、たしかにHELLP症候群は、危険なものなんだとわかる。アリスが言うように、そういう異常を男性に伝授する機関が日本には少なすぎることも事実だ。

「だけど、そういう事は、知らなかったのも紛れもない事実じゃないか。寿人さんばかりを責めるのはおかしいと思う。それに、一キロもなかったかもしれないけど、赤ちゃんも、茉衣さんも助かったんだし、それで良かったということにしてあげようよ。今回の事は、大地震があったのと同じことだと思おうよ。誰々のせいだと責任のなすり合いをしても解決しないと思うよ。」

蘭がアリスにそういうが、アリスは絶対に寿人の管理不行き届きだと怒鳴り散らした。そのくらい、激怒しなければ、HELLP症候群というものの怖さも伝えられないといった。蘭は、でも、寿人さんには、そういう情報はまったくなかったと彼を擁護したが、倫理的に言ってもアリスのほうが、同情票は得やすいと思われた。二人の主張はいつまで経っても解決へ行かない、平行線のままだった。蘭とアリスが口論を繰り返していると、

「ごめんなさい。」

と、小さな声がしたので、蘭たちは、その方を見る。

「僕のために、先生と奥さんがそこまで話をしてくださって、ありがとうございました。これでもう思い残すことはありません。」

寿人さんは、椅子から立ち上がり、フラフラとあるき始めた。蘭が、ちょっと、待て!と言ったのであるが、もう耳が聞こえなくなってしまったようで、後ろを振り向かなかった。アリスは、これで日本人ももう少し責任感を持ってくれるかな、なんて言っていた。そのまま寿人さんは、蘭の家の玄関から靴も履かずに出ていってしまう。蘭は、車椅子で追いかけようと思ったが、アリスがいい気味だわというので、追いかけられなかった。確かにアリスの言うとおりでもあるだろう。だけど、寿人さんばかりを責め続けるわけには行かないのである。そして、もし、これで寿人さんが朝倉の家から追い出されるようなことにでもなれば、本当に寿人さんは消えてしまうかもしれない。

「よう、朝倉の入婿。」

道路を歩いていた寿人さんは、そう言われて、思わず立ち止まった。

「こんな雪の中で靴も履かないで何をしているんだ。」

そう声をかけてきたのは、杉ちゃんだった。杉ちゃんも、車椅子に乗って、この寒いのに、黒大島の着物を着ているところがなにかおかしかった。

「蘭の家から出てきたのを見たんだよ。僕はただ、蘭をいつもどおりに、買い物に誘おうとしただけで。それで、何があっただよ。僕、答えを聞くまで、お前さんに質問し続ける性分だからさ。まあ、屋台のおでん屋でも言って話そうぜ。」

杉ちゃんは、そう言って、寿人さんを、近くの公園に案内した。確かに公園には、屋台が一つ設置されている。杉ちゃんは、寿人さんをそこへ座らせて、

「なんでもいいから、まず、話してみな。」

と言った。寿人さんは、もう杉ちゃんに話す他ないと思ったのか、あったことを全部話してしまった。

「そうか、まあそういうことなら、結局よ、人間、事実というものがあって、それに対してどうするのかを考えることしかできねんだよな。それだって実行できるかもわからないじゃないか。大事な事はさ、すぐにどうすればいいか行動を起こすことじゃないかな。それに対して、いつまでもうじじしてたり、酒に走ったりするのが一番良くない。」

杉ちゃんは、屋台のおじさんからちくわぶを受け取って、それを食べながら言った。

「そうですが、離縁を申し渡されたときの悲しい気持ちはどうするんです?」

寿人さんは、涙をこぼしてそうきくと、

「いやあ、それはねえ。もちろん人に聞いてもらうとか、そういう事したっていいと思うけど、結局の所、お前さんがどうしたいかなんだと思うんだよな。離縁されないで、奥さんや息子さんのところにいたかったらそうすればいいだけの話だよ。もうさ、苦しいときはさ、もちろんそのつらい気持ちを聞いてくれる人が居ることも大事なんだけど、それよりもそれが解決するのには、どうしたらいいかを考えることが一番大事だと思うんだ。そのために色んな人の意見を聞くことだってしてもいいし、誰か専門家に話を聞いてもらうのだっていいよ。だけど、最終的にはお前さんがどうしたいかだからね。それは、お前さんがすることじゃないのかな?」

と、杉ちゃんは、またちくわぶをたべながら言った。

「そうですか、、、。」

寿人さんは、小さな声でそういうのだった。

「今は落ち込むしかできないかもしれないけどさ。でも、奥さんの方はもっと落ち込んでいるだろう。鬱になって医療の世話になるくらいだったらね。だから自分では、できないわけだ。でも、お前さんはそうじゃないじゃないか。」

杉ちゃんは、そう言って、寿人さんのさらに、ちくわぶとがんもを乗せてあげた。

「ほら食べろ。食べないことには何も始まらんよ。」

「はい、ありがとうございます。」

寿人さんは自棄食いするつもりでそれを受け取った。

「ここにいたのか。靴も履かないで、うちを飛び出していったから、どうしたのかとおもいましたよ。ほら、ちゃんと靴を履いて、奥さんと由紀夫くんのところに帰ってあげてください。」

蘭が、寿人さんの靴を持って、屋台の近くにやってきた。寿人さんは、また涙をこぼしながら、

「どうもすみません。」

と言って靴を受け取った。




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ちくわぶ 増田朋美 @masubuchi4996

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