6話 望み叶わば(2)

 太陽がまだ低いことに加え、空模様のせいもあって、山道は薄暗い。すでに松明がいるほどではないにしろ、現人神様をお抱えしていると足元が見えないのが何より気掛かりだった。前を行く父たちが比較的安全な道を示してくれているとはいえ、一向に気は抜けない。


 顔を上げた先にそそり立つ峠の向こうは、いよいよ目的の地。イェンダを潤す源、氷河湖だ。蛇神とディヤの見立てでは、しき神はウルバール湖から動いていないらしい。「待っている」と言ったのは本当だったようだ。薄気味悪い律儀さの裏に、一体何を秘めているのだろう。


 隊は途中でさらに二手に分かれる。別行動の二人は川への流出口近くで陽動する手筈となっていた。その間に、こちらは岩陰から密かに接触を試みる。ラケたちは川音を背に、南へと回り込むように進んでいく。


 夜営を河原に張ったのは、あくまで現人神様を下ろせるところが他に無かったからで、なるべく離れるに越したことはない。また、そのまま遡上すれば山津波が来た時真っ先に呑まれる上、仮に無傷で辿り着けても、東側にある流出口から臨むのはやはり危ないはず。そう夜のうちに話し合っていた。南側も、流出口ほどではないが峰が低い箇所もあって、それなりに湖へ抜けやすい。


「上手くいくでしょうか? 一応シェカル隊きっての偉丈夫たちではありますが……」


 残った男が、災い除けの旗を携えた二人を振り返りながらつぶやいた。


「できなきゃ困る。だが、こちらが手早く済ませるに越したことはない。私だって確かなことを言ってやれないのがもどかしいさ」


 父も言葉尻に不安を滲ませた。たとえ目論みどおり誘い出せても、無事でいられるかは請け合えない。


「我の力も少し分け与えてある。今の彼らは、神の御脚に次ぐほどの打たれ強さを持っているはずだ。やるべきことは全てやった。あとは祈るとしようじゃないか」


 曇り空に薄められた淡い光の中を、休みを挟みつつ必要最低限の声掛けのみで進んでいく。やたら響く牛鈴はすでに外してある。調子の軽い蛇神でさえ、唇を固く引き結んでラケたちの隣をするすると飛んでいた。一足ごとに、みんなの緊張は傍からでもわかるほどに高まっている。きっと自分も、周りからそう見えているに違いない。


 登るにつれて、風が一層冷ややかに首元をすり抜ける。それもそのはず。湖の向こう岸は、一年を通して白く染まったまま。降り注いだ雪は何百年分も積み重なってゆっくり山肌を滑り、水辺まで来てやっと溶け出すのだ。集落でさえ、ここに比べればまだ過ごしやすい。


 尾根伝いに歩き詰めて、峠を越える一歩手前で足を止めた。二つの峰の間、広く抉れた谷間に青白い氷河が輝いている。首を伸ばすと、その手前に鈍色の湖面がちらと見えた。いつも乾季であれば水面は青や緑にきらきらと眩しいのに、今は全てを飲み込むような仄暗い色をしている。よく目を凝らせば、水自体はさほど澱んでいない。かわり黒い何かが、水底をぐねぐねと渦巻いていた。


 あまりの光景に、誰もがしばし声を失った。息を、まばたきを、そして考えることすら忘れて、弱々しく身をすくませる。ウルバール湖の中には、みっちりと巨大な蛇が収まっていた。


 時折水面の下で鱗型の妖しい光を照り返しながら、ゆっくりと滑らかに蠢いている。言い伝えに違わぬ形とはいえ、あまりに大きい。奴は胴を波打たせるばかりで頭は見当たらない。こちらの姿は蛇神の雲で隠れているはずだが、いつ気付かれるともわからぬ恐ろしさが背をなぞった。


「あれこそ我の魂があるべき所。しき神は内に居座っている」


 ディヤがわずかに身じろぐ。怯えているのかと思えば、憂いなど露ほども感じさせぬ凛々しい眼差しで、真っ直ぐに湖を見ていた。その瞳は、礎となった人々や守るべき者へ想いを馳せているのか。それとも目の前の畏き神へ、決して屈しはしないと、気持ちを新たにしているのか。


 ぴたりと預けられた体が温かい。マヤ様からの記憶を受け継ぎ、あまりにも幼く軽い身で、彼女は成すべきことを為すために生きている。吹き抜ける風が、今度は力強く背を押した。


「……何があっても、必ずあなたをお支えします」


 応えるように、肩に回された手がひしとラケの襟を握った。今こそ、パスチム山に足を踏み入れてから抱き続ける、切なる望みを叶える時。イェンダの行く末を大きく左右する分かれ道に、ラケたちは立っていた。定めを引き寄せるのは、この小さな手。それが明日へと伸びるのを、何者にも妨げさせはしない。


 峠の裏で荷を積んだヤクたちをイサニに預けると、峰を越え用心深く湖のそばまで降りる。溢れた胴体が湖岸の岩に乗り上げているのは、良い巡り合わせと喜ぶべきか、それとも罠と憂うべきか。


「この際どちらでも構わん。我をあそこへ」


「……本当に触れれば良いんだな?」


「ああ、これで終わりにできる。走れるか?」


 うんと頷いてみせる。別に、過去を知って蛇神を信じようと思ったわけではなく、イェンダをここで途切れさせたくないだけ。ともかく、未だ邪しき神はこちらに気付いていない。大きな岩陰に身を潜めて、その時を待った。


 右手に白い塔が見える。正しくは塔だったもの、湖の祭祀場だ。川のものよりも、激しく打ち壊されていて、完全に瓦礫の山と化していた。しばらくすると、そのさらに向こうに先ほど別れた隊員たちが姿を現して、何やら大声で呼びかけ始める。天に祈りが通じたのか、ややあって水面がぐんと膨らむと、中から小山ほどの頭が覗いた。


 まどらかな赤い瞳が、囮たちをじっと捉えている。ラケは左肩に現人神様を担ぐと、鞘からククリを抜き放った。こんなものではとても及ばないだろうが、何も無いよりは気が晴れる。


「今だ、行くぞ!」


 父の号令で駆け出した。緩やかな斜面を砂埃を上げて突き進む。頼んだぞと告げた蛇神の形がぼやけて雲となり、現人神様へ吸い込まれていく。湖面まであと数十歩というところで、ディヤが諸手を前へ掲げると、彼女の手のひらから眩い光が溢れた。湧き起こる風に髪を攫われながらも、足は止めない。


(まだ大丈夫。このまま――)


 あと一歩。そう歯を食いしばったのと同時、しき神がこちらを振り返って、裂けた口の端をニタリと持ち上げた気がした。だがその後の沙汰を見ること叶わず、迸るきらめきに耐えきれなくなったラケは固く目を閉じた。

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