『arm―腕』


 ないはずの肢体したいに感覚を感じることがある。それは幻肢げんしと呼ばれる。アメリカ南北戦争の戦後、大砲なんかで腕や脚を吹き飛ばされた人間がそういうことを訴えたから人類に知れ渡ったのだという。

 この病院は―補綴ほてつ科、人間の身体の欠損部を補う器機を作る科が歴史的に強い。

 何故なら、第2次世界大戦の戦後のおりにそういう相手を数多くてきたからだ。


 んまあ。そんなお陰で。俺は全身用の外骨格がいこっかく型アシストスーツを使って院内を散歩しているのだった。ロの字型の病棟の真ん中はぽっかり空いて中庭になってる。入院患者の憩いの場でもある。

 さんさんと注ぐ太陽光。地球の最大のエネルギー源は今日も元気に人類に恵みを与える。ありがたいこっちゃ。

 顔を太陽に向けると―くしゃみが出るのは何なんだろうな?俺はそれに対する有力な説明を聞いた事がない。

 アシストスーツ―X字の真ん中に一本筋を通して曲線的なデザインに仕上げたもの―の腕を天に向ければ、容赦なくかれる。それが心地よい…はずだった。


 右の腕の上腕部の真ん中あたりが妙にかゆいのだ。

 虫にでも刺されたかと思うが、季節は冬。ダニがいるわけでもなさそうなんだが。

 この事が妙に引っかかるのだが―何故だっけ。それが思い出せない。

 記憶を引き出しにたとえる事がよくあるが、ラベルを貼った引き出しがいつまにか見当たらなくなった感じ。

 こういう違和感を大事にせよ、と俺の一方は言うが…妙に面倒なのも事実だ。

 モヤモヤした気持ちの中に長時間いるのは健康によろしくない。

 さっさと売店にでも寄って帰りますかね…確か週刊漫画の発売日だ。


 俺は売店でハードグミと週間漫画を買って病室に戻ってきた。

 暇になると妙に口寂しくなるものなのだ。輪ゴム並みに固い甘い塊を噛みながら週間漫画をめくる。

 この週刊漫画は妙に連載の新陳代謝が悪いから、10年経とうが案外読めてしまう。この連載、まだやってんのか。みな飽きないねえ。

 ショートギャグなんかを流し読みしながら、俺はさっきの違和感に立ち戻る。

 この右腕の妙な痒さだ。

 ちなみに痒みもまた、免疫反応の一種、というかシンプルに言うなら炎症。

 炎症を起こすきっかけは―ないはず。と言うか、腕をじっくりとっくり見たが肌色そのものだ。昔よりハリが無くなった気がせんでもないが。

 それでは何でか?別に医者じゃないが、少し考えてみる。

 考えに考えた結果、気の所為ではないかと思えてくる。主治医や看護婦に相談するほどでもないからそれはそれでも良いのかも知れんが―ここであの主治医の『の事を思い出してるか?』というといが妙に利いてくるのだ。


 あの不穏な言葉はたちの悪い雨雲みたいに俺の頭上に張り付いていた。

 あの言葉を鵜呑みにするなれば。俺は…他の人間の記憶を植え付けられてるのか?でも何の為にそんな事をするのかイマイチ掴めない。

 俺は別にやんごとなき生まれでもなく、資産家の家の息子でもない。利用価値などゼロに等しい。俺に執着する他人なんて五本の指の中に収まる上に―両親は亡くなっていた…はずだ。数年前の新型ウィルスの感染爆発の折に。

 じゃあ。弟かと言われればアイツは海外に出稼ぎに行ったっきりで消息が掴めずじまいらしい。

 ったく。面倒ではある。俺は曖昧なまま呼び戻され。状況は変わりすぎ。その上妙に引っかかる点が多すぎる。

 調べようにも大概はあの主治医に繋がっちまう。人はアテにならない。

 ではではでは?

 自分の頭の中の引き出しを片っ端から開けてまわり、ヒントを探すしかないのだ…


                    ◆


 俺の引き出しの最下層。

 幼少期の記憶…ぼーっとしたガキだったのは覚えてる。

 飛んでる蝶をぼんやり眺めて30分は潰せたし、言葉の始まりも遅かった。お陰で地域のことばの教室なんてとこに連れて行かれてたっけ。

 俺はそこで何らかの脳機能と引き換えに喋れるようになった。というのは喋れるようにはなったが、べらぼうに運動神経が悪くなったのだ。そこに科学的な因果関係はないかも知れない。しかし。俺の運動神経は本当に悪かった。

 よく弟と萌黄もえぎにからかわれたもんである。お前は飛んでくるボールひとつ避けれんのか、と。ドッチボールの玉をキャッチすることも出来なかったしな。

 そんな訳で何かと危なかっかしいガキだった。その上注意力散漫気味であらぬ事に囚われ脚を止めるガキだった。


 何だっけ、そのせいで危ない目に遭った気がするのだが。

 たしか…公園でボール遊びをしていた時の事だ―


「ほら、いくよ?」俺の対面といめんの萌黄は危なかっかしいフォームで玉を投げる。

「ちょ。ちょっと待って」なんて俺は言ってたな。待てと言われて待つバカが居るかと今は思うが。

 飛んでくる玉は山なり。ゆるい放物線を描きながら俺に向かってくる。

「兄ちゃん!キャッチ!!」なんて隣のあきらは言う。無茶言いなさんな。

 俺の視界の大方を玉が占めだす。このままだと直撃コースだ。女にやられるのはなんとも情けないぞ?とは言え。俺の運動神経でなんとか出来るわけでもなく。

「ええいままよ」なんて。どっかで覚えたセリフと共に無理やり体をひねる。

 すると。

 体の脇をぬるい玉が通り過ぎていった。そう、初めてボールを避けれたのだ。

「あ」と萌黄は漏らす。ボールが俺の脇を抜け、そのまま公園の出口の先の道路に転がっていったからだ。

「…拾ってきてよ」なんて言う萌黄。昔から厳しい奴だった。

「えーお前がいけよ」なんて俺は言ったと思う。面倒だったからな。

「にいちゃん…行けよ」こいつは常に萌黄の味方だ。昔っからジェントルマン気取って萌黄の株を稼いでた。

「行けば良いんだろ…ったく」なんて零しながら俺は道路に歩いていった。


 ボールは路駐されたトラックの後ろに転がっていて。俺はそれを拾い上げ片手で抱えて公園に戻ろうとする。もう片方の手はなんとなくブラブラさせながら。

 公園にいる萌黄と顕を見ながら歩いてトラックの裏を抜けようとしていた。物陰から出る時は左右確認を怠らないのが事故に遭わないコツの1つなのだが。俺をニヤニヤしながら見ている萌黄と顕に気を取られていて。まっすぐ道に抜けようとした―のがまずかったのだ。

 そう。この時。トラックの反対側の方から、自動運転の、しかし自動運転機能が一時的にバグったトラックが住宅街の真ん中では考えられないスピードで突っ込んできたんだ。

 そして。トラックの後部、コンテナに突っ込んだ。その時、運悪く俺の腕も巻き込んで―


                  ◆


「右腕上腕部の半分を切断するハメに―なった?」と俺はベットの上でつぶやく。

 だが。現に俺の右腕は綺麗に繋がっている。手で触れば皮膚の感覚もある。

 じゃあ。この記憶は一体なんなのか?妙にディティールはあった。記憶と言っても差し支えなさそうだが。幼少期の記憶にしては妙に鮮明な事を除けば疑いは少ない。

 現実と記憶のズレ。これは一体どういう事だ?

 映画じゃあるまいし。こんな事、思い違いで片付けてしまいたい。

 現実にある右腕と曖昧な記憶、どちらを信用するべきか?簡単な結論は現実にある右腕。しかし、今のこの現実の妙なズレ感を信じるならこの記憶について、周りを問いただすべきか?

 いや。待て。

 そう、幻肢の症状の中にかつて無くした腕や脚に痒みを感じる事例、なかったっけか?

 そう考えるとどうなる?俺はかつて右腕上腕部を欠損した、だが、何らかの方法で再生した?

 しかし切断に至った腕を再生するのは現在の技術でも難しい。

 そういう場合は―超巨大分子マシン、自己由来細胞をベースにした義肢をつけるのがメジャーになってたはずだ…俺が意識を失う何年か前に。

 この病院の補綴科に強みがある技術の1つ。

 

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