『dubitatio―迷い』


『彼』の右腕上腕を再生したのは失敗だったかも知れない。

 彼の右腕は―幼少期のあの事故から義肢ぎしだった。最初のうちはメカニカルな義肢だったけど、亡くなった時は分子マシン由来のバイオ義肢を使っていた。

 自己細胞をベースにした超巨大な分子マシン。見た目はオリジナルの腕っそっくりではあったが、メンテナンス出来るよう接続が甘くなってた。取り外し可能だったのだ。

 何故そんな事になってるのかと言えば分子マシン自体には再生能がないからだ。傷がつけばそのままになる。下手をすれば壊死えしさえする。

 彼はよくふざけて義肢を外して幽霊ごっことかしてたっけ。懐かしい。

 彼の右腕が無くなったのは、私のせいだ。あの日。私があんな風に振る舞ってなければ。トラックとトラックに押しつぶされてなかったのかも知れないのだから。

 そんな引け目があって『彼』の右腕は再生しておいた。まあ、意図的に欠損させるのが手間で厄介だったという側面もあるけど。

 だがしかし。

 それは記憶とは違う結果ではある。だから、幼少期の記憶は再生しないようにしておいたはずだが…物事に絶対はない。

 もし、『彼』が彼の幼少期を思い出したら―どうなるのだろうか?

 過去を擬似的にあれ共有することになるので『哲学ゾンビ』問題の時間面が片付くことになるのだろうか?いや、空間問題はそのままか。その時『彼』は存在すらしてない訳で。


 『彼』のカルテを書きながら飲むコーヒーは妙な苦味がある。

 コーヒー好きなら酸化がどうこう言い出すだろうが、そうではなく。

 何か分からないが悪いことをしている、という引け目を感じているのだ。

 『彼』は彼ではなく、『彼』で。私のエゴで彼の人生を書き込み、同じものとして仕立て上げようとしている。

 人を創るというごうは背負う覚悟が出来ていた。そういう倫理的な部分はクリアにしてしまってきた。修羅の道を進むと決めた時に。


 しかし、この再生が、彼をないがしろにしているようなそんな気がしてきた。


 こういう感情、予期はしておくべきだったけど、私は目的に気を取られすぎ、根本的な問題を見逃していた…の?

 この世界に一度きりの奇跡で現れた彼という存在。彼を彼として生きる代わりが絶対に居ないという奇跡、それを忘れていたんじゃない?


 ―私は…自身が許せないという理由だけで彼を黄泉よみがえらせた?

 自分自身の利益だけ考えて彼という存在をエントロピーの乱雑さから引き上げた?

「…違う」

 なんて言いきって逃げてしまうには大きすぎる迷い。

 

                   ◆


「俺の右腕…『』なかったんじゃないか?」

―なんて空につぶやく冬の午後。鼻の奥がツンと痛むような乾燥した灰色のアフタヌーン。病院の中庭。

 俺はこの事実を主治医の彼女に確認する勇気が湧いてこなかった。何故か?単純に怖くなったのだ。

 この右腕の事を彼女にいたらパンドラの箱を開けてしまうような予感。それが俺を押し止める。その箱の奥に希望があるとしても。そこに至るまでに力尽きそうな気がしてならない。

 俺は一体。誰なんだろう?本当にくれ 一生いちおなのだろうか?

 もし。俺が…呉一生くれいちおじゃないとしたら。そもどういう存在なのだろう?どこかの記憶喪失の他人だったら嫌だなあ、と思わずにはいられない。背乗はいのりじみた人生ジャック。オリジナルは―死んでるのだろうか?

 萌黄もえぎあきら継史けいしのじっちゃん…彼女たちは一体、『俺』の何なんだろう?下手したら他人、なのだ。

 人生を彩るのは常に他人だ。自ら独りで生きられる人間はそう居ない。そう思えば思うほど切ない気持ちにならざるを得ない。だって『俺』は一人ぼっちなのかも知れないんだから。

 ああ。知りたくない真実。価値は重い、だがその中身が『俺』を幸せにするのか?

 これからの人生。俺は何者として生きていくのだろう? 

 呉一生?しかし、本物の呉一生は…右腕がないんだ。

 借り物の人生で借り物の他人と共に生きて…それは幸せなのか?

 今更、思春期と青年期でカタをつけるようなアイデンティティ問題にぶち当たるとは。

 

 こういう場合。

 すべてを棚上げにして、眼の前の問題だけに集中して生きて時間を稼ぐってのが楽な解決ではある。呉一生としてなんとなく生きてしまう…そうしてしまえば結果は後からついてくるのかも知れない。

 そうするのが最もイージーに思えてくる。そういう風に周りから期待されているのだから、そうしていけない理由はないのだ。


 何故。そこに一抹いちまつの居心地の悪さを感じるんだ、『俺』?

 大体。今こうやって考えて居るのも呉一生がベースの思考システムだ。『俺』は呉一生としてしか考えれないはずなのだ。

 ガサつく感情。心なんてものがどこにあるか知らないが、妙な手触りの悪さを感じる感情。


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