『chirality,clavis,cincinnoーカイラリティ、鍵、錠前』

 カイラリティ。和訳するなら対掌性たいしょうせい。右のてのひらは左の掌に重ねる事は出来るが、360度回転させた時、重なりあいが不完全になるような性質を指す。鏡像きょうぞうもまた対掌性。

 私が創った『彼』は彼の対掌的存在なのかも。完全に彼に同一化させることは不可能だ。

 単純に。クローニングは遺伝子セットが同一の物をもう一つ創るに過ぎない。

 人の遺伝子の発現過程は常に調節が為されている。同じ発現が続く訳ではない。よって。『彼』はあくまで彼っぽい者に過ぎない。

 t(転移)RNAを始めとする発現系の解明、分子マシンの進歩によって『彼』の精度はそこそこのものだ。一昔前ひとむかしまえのCC、クローンキャットの時のように別の生き物になる可能性は出来るだけはいしたつもりだ。

 しかし。技術には常に限界がある。遺伝子発現を制御し、形と大凡おおよその中身をオリジナルに寄せられても、生きていく過程の中で得ていく『何か』を再現するすべが今は弱い。

 脳の一定の部分は神経ネットワークの技術でなんとか出来る。でも。それもまた、形までは似せられても本質を捉えていない。

 哲学的な話にさえ突っ込んでしまうが、その生き物のユアセルフ、自分自身を規定する本質的な何かを人類は未だつかんでいないのだ。

 私が私であるという、確信。それを物質的な何かに還元出来て居ない。脳という部分に極限して議論を進めてきた弊害に思えなくもないかな。

 だから。

 『彼』には彼が宿ってはいない。段を踏んで考えるとそうなる。

 『彼』は彼たり得ない。彼の代用物で、人形のように感じるのは当然のことなのだ。

 そうなってくると、チューリングテストに合格するAI入りの自動人形オートマタを相手にしているような気分になる。流暢りゅうちょうで人間的な応答をする

 祖父は私が極端な考えをすると思い込んでいるから、そういう造りものでも構わないと考えてると思っているんだろうな。

 確かに、人の形をし、人の思考形態を備えていれば、外向きは人間の仲間になるのかも知れない。でも、そいつには時間と空間という視座しざが欠けているのだ。

 ああ。何でここまで分かっていて、こんな事をしたのだろう?何度問うても答えが出ない。


萌黄もえぎねぇは時と共に失われていく…エントロピーの乱雑さの中に埋もれていく存在を認められない…特に兄貴に関しては」一年前の顕の言葉。


 私達は恋仲だった。恋仲、と言い切るのはそこに愛はなかったからだ。


                   ◆


「俺は萌黄姉の側に居たい」眼の前の幼馴染の弟は、歯の浮くようなセリフをのたまう。

「私…人様を恋愛感情で好きになる、という事が分からないの。ごめん。君の気持ちには答えられない」そう、私には未だに彼の影が付き纏い、離れない。それが他人を愛するというまっとうな気持ちを押し留めていた。

「いい加減兄貴の事は諦めろ…と言っても無理か」細い眉根にシワを寄せて言う。

「無理ね…あの事故の引き金を引いたのは私で…私は彼を忘れることが出来ない」背負った十字架は。彼を取り戻す義務があるのは間違いなく私で。

「脇に置いておくのも無理か?」と優しく問う彼。

「私の存在を貫いてしまっているのね。いつも思い出すわけでなくとも…それを無くす事は出来ないし、それを放置して君を愛するのはもっと無理」と私は言う。割と素直な表現だ。

「―俺はそれでも、貴女の側に居たい」と一息置いて彼は言う。

「それで?何を望んでいるの?」そこまでして私に執着する理由、それが見えてこない。

「萌黄姉の側に居ること、それだけさ」かっこよく言う彼。いつの間にか大人の顔をするようになっている。

「私は顕に何も与えられない…体は許しても心は許さないだろうし。それに」

「それに?」と動揺することなく問う彼。少しは動揺して欲しかった。

「私は君から奪う事になる…精子なりなんなりを」そう、私はその頃、そういう道を歩みはじめていた。知識を手に入れ、道具だけだった。

「兄貴のDNA…古いものだがあるじゃないか…民間のバンクに…そろそろ消えるかも知れないが」彼のDNAのシークエンシングは…私がたまたま持っていた髪で為してる。それを何故知っているのだろう?

「私は―彼を呼び戻す。それが役目なのよ」と私は簡潔なステートメントを出す。そのためには人の感情さえ利用するだろう。

「で?俺の精子をベースにするつもり?」

「そういうことも出来なくはない…って事。そういう女で好きになる価値はない」と私は言う。これが顕との最後の会話になるかも知れない。ここまで言ってしまったのだから。

「それでも―」と彼は言いよどむ。多分、勢いで否定しているんだろうけど。よくよく意味を考えて、まともな選択をするべき。私に関わって人生を台無しにすることはないのだ。

「貴方の憧れた萌黄お姉ちゃんはもう居ない…彼と同じように」かつての私は過去に置き去りにされたままだ。

「俺が愛したのはそんな一瞬の萌黄姉じゃない…はずだ」と絞り出すように言う彼。

「そうかしら?君はこれからも私を愛していけるのかな?過去にとらわれ死者を掘り起こそうとしている私を」そう、墓場荒らしさえしかねない。

「やってみる、ってのは上手くない答えなんだろうか?」と言う彼。諦めが悪いのは嫌いではない。しかし、場合が場合であるとも思う。

「君に出来る事は―彼に成り代わることだけど。それを認める私でもない」と先手を打って置く。甲斐甲斐かいがいしい顕ならやりかねないが、鬱陶しい。そんなウエットな関係に巻き込まれたくない。そんな事に関わったら、私の時間は消えてなくなる。私がやろうとしている事はそういう、修羅の道めいたもので。

「俺として貴女の側に居てみるから」と言う顕。

「それはいいや」

「そうかい…認められないのか」と静かに言う顕。

「そう。認めない」


 こんな会話を交わした後で、私たちは結ばれた。全く持って回りくどい生き物なのだ、私は。

 そして素直な顕を利用する形になってしまった、予言通り。

 

 

                  ◆


 鍵と鍵穴のたとえは細胞の受容体と酵素の関係を語る時によく使われるが、その喩えを言い出したエーミール・フィッシャーは19世紀頃の人間で。不正鍵バンプキーの事は考慮してなかっただろうな、と思う。

 細胞の中に取り込まれる可能性のある物質を選り分けるのが受容体。個々の物質向けの形状になっていて、形が合わなければ受け入れない。それが生体シグナルを司るホルモンであったり、病原物質を防ぐ抗原の役にたっている。

 バンプキー。バンピングと呼ばれるピッキング道具で正しい鍵にまったく似ていなくても、シリンダーの中に入れ、衝撃を与えると解錠出来てしまう―

 この喩えを出して何が言いたいかと言えば。


 『彼』はバンプキーみたいなものなのだ。私と言う錠前に関して。


 『彼』の形状は一応似ている。だから受容体ライクに似ているからヨシの精神で受け入れるかと言えばノー。鍵の歯の一部が微妙に、でも確実に違ってしまっているのだ。

 しかし。ここでバンプキーの喩えが利いてくる。

 何らかの衝撃が伴えば、私は案外コロッと落ちてしまうのかも知れない訳だ。

 よって。ジレンマに悩まされて煩悶はんもんしていて良い時間は残り少ない。

 とは言え。簡単に答えがでる話でもない。


 私はこの問題に直面してから、ずっと『哲学ゾンビ』の事が頭から離れない。それはざっとこんなお話に出来る―



                ◆


 クローンキャット、CCに関しては以下のサイトを参照したことを明記します。

『CC (猫)-wikipedia』https://ja.wikipedia.org/wiki/CC(猫)

『クローン猫、外見も性格もオリジナルとは「別の猫」-WIRED』https://wired.jp/2003/01/23/クローン猫、外見も性格もオリジナルとは「別の猫」

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