鳩と少女

 彼女との出会いは通報のあった市営集合住宅の一室だった。隣の部屋から聞こえる子供の鳴き声に気づいた奥様からの通報が警察署に、そして私の働く西児童相談所、西児相にしじそうに伝えられた。私はただ所長からの指示でその通報された部屋を訪れたわけだが、彼女のいた部屋は私の十二年というまだまだ短い職業人生のなかでもレアケースであるといえるほど凄惨せいさんな状況であった。

 基本的に、または平均的に見ても、児相が扱う児童や幼児は普通の暮らしよりも身体、精神衛生、両者ともに、とても低いレベルの環境で過ごしている。保護者のパートナーへの暴力、いわゆるドメスティックヴァイオレンスから始まる子どもへの虐待、ネグレクトによる育児放棄などが理由として挙げられる。しかしそれを踏まえたとしても彼女のいた環境はむごかった。


 管理人の立ち合いのもと、マスターキーを使う。ポストから出前のチラシが何枚もはみ出ている。玄関を開けると、西日が部屋に差し込むのと同時に彼女の鳴き声と部屋の異臭が外の廊下に漏れ出した。

 すぐに、同伴した嘱託医しょくたくいの鈴木さんは鳴き声の元をたどり布団が二枚敷かれた寝室の隅で彼女を抱き上げる。二、三歳ほどの彼女は鈴木さんに抱きつきながら泣き続け、緊張の糸が切れたように眠ってしまう。

 寝室には本が乱雑に置かれ、布団は破れ、押し入れのふすまも半開きだった。布団には吐瀉物としゃぶつのようなものが染みている。床を摩ると指には埃がついてくる。リビングには床に落ちた灰皿と散乱した吸い殻、机の上には残骸のような、というか残骸の皿。そこに何かがこびり付いている。見るからに育児放棄や諦めのようなものを感じた。

 襖の隙間からキャラクターのシールが貼られたプラスチックのカラーボックスが見える。中にはこの子のものと思われるおもちゃと母子手帳や保険証の類が散見した。

 開くと八木やぎ御幸みゆきという名前が記してある。この前、四歳になったばかりであることもわかった。娘と同い年の子どもだという事実も僕の心にはひどく鋭利えいりなもののように突き刺さった。

「かわいそうにね」

「そうですね。かわいそうに。」

「この子のためにも早く児相戻って保護者さんの連絡待ちましょう。そんなの来ない気もするけど」

 鈴木さんに変わり彼女を抱くと、彼女の重みを感じ、僕の目は潤んだ。

 戻ると保健室にて鈴木さんは彼女の体調と外傷がないかを診て、入浴を済ませる。私は食事の用意と児童記録票に彼女の現状を記録した。

 鈴木さんが御幸ちゃんを寝かせてすぐに、職員同士で彼女について報告し合った。

 鈴木さんの診断には、栄養失調による痩身そうしんと、殴打おうだもしくは転倒による数カ所の外傷が報告され、心理療法担当の田中さんは、自我の発育と言葉の発達の遅さが見受けられるが、それは個性による可能性もあるとし、特別な問題はないと判断したようだ。

「朝野さんは何か気づくこと、ありましたか」

 僕は田中さんの質問にすぐには答えられなかったが、少しして思うところを呟いた。

「御幸ちゃんの家はとても衛生的とはいえなかったんだ。それに襖が半開きだったのとか、破れた布団とか、あの子がやったわけではなくて、そういう暮らしだったんじゃないかな。」

「僕も明日、御幸ちゃんと話して遊んでみるよ。それでわかったことがあればまた報告するから」


 西児相に併設へいせつされた保護所にて一時保護という形で、保護者からの連絡を待つ。夜間在所を引き受け、娘の日晴を幼稚園に迎えに行き実家に預けた。御幸ちゃんは夜中ずっと泣き喚き、私もあまり経験のない時間であったことを覚えている。今日はただわからないこと、ショッキングなことも多かった。そんな日の夜はとても長く感じた。それでも朝は来る。

「おはよう。朝野鳩馨あさのあつよしといいます、御幸ちゃんは何歳?」

 しゃがみ込んで、話しかけてみる。

 彼女は受け答えできないにしても必死に指で返事をする。その様子から心を閉ざされている気はしない。

「四才なんだね、おねえさんだね」

「僕の名前にははとが入っているんだ。鳩って分かる?」

 首を傾げている彼女には不思議と、可愛さではなく可哀想な印象を抱いた。なぜ鳩を知らない。どこにでもいる鳥だ。

「鳥は分かるかな?じゃあ今日はお出かけしようか、公園に行ってみよう」

 公園に着くと彼女は目を輝かせてありきたりな鳥を追っていた。御幸ちゃんの楽しそうな顔が尊いと、あの劣悪な環境が記憶に新しいお陰で思える。ハトさんだよ、と教えるとハトさあ、ハトさあと、繰り返し鳩を呼び続けた。散って濡れた梅の花を拾っていたのも覚えている。

 遊具にも興味を示し、楽しそうな顔を見せる。ブランコは前後する動きが苦手だったみたいだが、滑り台では楽しそうに遊んでいた。しかし夜になると昼間の笑顔を忘れたように彼女は保護室で喚き、時に静かに泣いていた。

 彼女には時間をかけてでも、色々なものや言葉を経験させることがいいと思った。

 動物園や水族館、図書館やもっと大きな公園。彼女をさまざまな場所と出会わせた。小学校に上がる前に、彼女が他の子と差を感じてしまわないように。

 御幸ちゃんが西児相に来てからもうすぐ半年というところで、僕は御幸ちゃんの部屋に四歳でも分かるくらいの絵本を数冊用意した。中には娘の好みかられていると思う絵本もあった。

 日晴ひばりが生まれる前に自分も好きだった絵本を何冊も買って、日晴が大きくなったら読み聞かせをしてあげるのが僕の小さな夢だった。しかし日晴はどちらかというと幼稚園でも外で遊ぶことがほとんどで、家でもあまりこの絵本に興味を持ってくれなかった。

 だけど御幸ちゃんは違かった。比べることでもないし、どちらが良いという話でもないが、御幸ちゃんが僕の持ってきた絵本に興味を示し、読んでくれとせがんで来た時はかなり嬉しかった。彼女は外で遊ぶ時よりも目を輝かせて読み聞かせを聞き、絵本を眺めた。知らなかった彼女の個性に触れた感覚があった。

「はとさん、これよんで」

 鳩馨は彼女に何冊も絵本を読んだ。御幸はある一冊を何度も繰り返し、毎晩、持ってきた。持ってきてはその絵本を後ろから読んでくれと頼んできた。よほど気に入ったらしい。だから僕はそれを彼女の五歳の誕生日に贈った。御幸ちゃんはなぜ二冊目が増えたのかわからない様子だったが、僕はそれでもよかった。


 御幸は西児童相談所の中でもかなり稀有けうな存在だった。両親の行方、生存など状況が全くわからない上、それ以外に保護者になる親族がいないことも部屋の物品からの調査で分かったと警察から報告された。

 そして保護者からの連絡もないまま、彼女を保護して二年が経っていた。

「御幸ちゃんの処遇しょぐうはどうしますか、一時保護という名目も限界がありますよね。」

 確かに田中さんのいう通り御幸ちゃんの保護は、一時保護という言葉の範疇はんちゅうを超える期間に達していた。そしてただでさえ珍しい孤児の中でも、小学生に上がると、より里親が見つかりづらくなる。それを僕たちは危惧きぐしていた。

「僕は可能ならここで保護を続けてあげたいです。自分が保護の瞬間に立ち合っているというのもありますが、最近やっと心を開いてくれている気がするんです。」

「それに日晴と会わせることも何かいい変化を促せる気がします。」

 時間はかかったが最近は特に意思疎通いしそつうを実感している。それも踏まえて報告とした。

「私も朝野さんと同じ意味で賛成です。可能なら今少しずつできている人間関係をよりはぐくむ方が御幸ちゃんには合っていると思います。」

 田中さんと僕の意見を聞き所長は頭をきながら、口を開いた。

「まあ、僕よりも二人の方が御幸ちゃんと接しているわけだし、二人が言うならそうしようか。今は保護所で保護しているのは二人しかいないわけだし」

「申請とか厚労省の連中、面倒くさいんだよねえ」

 そんな事をぼやきながら、所長は会議室を後にする。

「ちょっと、所長。渡九郎わたりきゅうろうくんのこともまだ報告終わってないから」

「あ、ごめん、ごめん」

 鈴木さんの一喝で所長は会議室に戻る。


「あさのさーん、これうごかなくなっちゃったよ」

 渡九郎の父親は育児に関わらなかった。

 それは妻に向けた絶対的な信頼によるものではなく、彼は息子に興味を持ってなかった。

 旦那の恒常的こうじょうてきなDVに耐えかね、西児童相談所に訪れた彼女は頬がこけ、あざを隠す前髪はパサパサになっていた。その様子は、旦那のDVが精神的、身体的そして、経済的なものでもあると推測するには十分なものだった。

「九郎くん、この前もこわしてなかったっけ?どこを外したか覚えとかないと」

 しかし九郎はそれが異常であることを知らなかった。

 自我が発育する前から家で行われていることにはどうしてもおかしいとは思えない。だから、なぜ母親が泣いているのか、なぜ自分が児相に預けられたのか、まだ彼は理解していなかった。

 それに九郎はそれなりに幸せだった。だから父親というものの存在が希薄きはくであっても、それが異常であることは知らなかったし、普通よりも安価な食事でも母親と一緒なら楽しく食べることができた。

 昨日の残りのおかずを耐熱容器たいねつようきから口に運び、美味しそうに食べる。一人で楽しそうに遊ぶ。それがむしろ母親を苦しめた。

「九郎くんの保護期間は現時点では定めていませんが、ご両親の関係整理または、お母さんの精神的な回復を待つ形での保護になります。」

「かなり珍しいタイプだねえ、話してみたらとても賢そうだしかなり明るい子でびっくりしたよ」

 所長のこの雰囲気が彼をより、そうさせたのかもしれない。しかし確かに僕が話した時も、はっきりと喋ることができて賢そうな子、という印象を受けた。

「朝野くんのとこの日晴ちゃんと御幸ちゃんと九郎くんはおなどしなんだね、小学校も一緒になるだろうし、ある意味いい幼馴染になれるね」

「そのことなんですが、所長。日晴の小学校からの下校先をここにしてもよろしいですか。」

 所長は二つ返事でいいよ、と承諾しょうだくしてくれた。日晴と九郎くんと御幸ちゃん三人が一緒に生活して、彼女たちの小さな社会を形成するのはいい経験になると思えたし、小学校入学はちょうどいいタイミングだった。


 小学校に通い始めた三人の学校生活は把握こそできないが、三年生になるまでは毎日一緒に下校して楽しそうに生活していた。高学年になるにつれて一緒に帰ってくる頻度ひんどは徐々に減っていったが、心配して日晴に聞くと、クラブ活動や委員会が違うからと説明された。

 中学校に上がると同じ学校にいても生活のリズムも変わるようだ。いつも早くに帰ってくるのは御幸ちゃんで自分の部屋にこもってずっと本を読んでいた。中学三年生になった頃から遅くまで帰ってこない日が増えた。でも彼女は図書館で勉強していると言っていた。

 九郎くんはいつも遅くに帰ってきた。最初は僕も心配して訳を聞いたが、誰にも迷惑かけてないよ、と説明もされて、確かにいつもちゃんと帰ってくるのでそこまで気にならなくなった。

 そして日晴は西児童相談所に行かずに家にまっすぐ帰るようになった。

 中学三年生になって数ヶ月経って、西児相に九郎くんのお母さんから電話が来た。九郎くんの保護期間が終了し、彼は児相を去った。

 御幸ちゃんが高校に進学する前に私が西児童相談所を離れる日が来た。同市内の中での異動だったため僕も日晴もほとんど生活は変わらなかったが御幸ちゃんに悪い気がした。少し経って彼女たちの進学が決まり、またもう少し経って、少し、とても嫌なことが起きる。それを僕は遅くに知った。


「いろんなことがあった」

 少し暗い記憶は頭の隅に隠すように、楽しい記憶を懐かしむ。

 日晴が食べこぼしたバゲットのくずを集め空いた皿に落とす。シンクに溜まった食器に重ねる。主役の割に仕事が多い。

「お父さん何か言った?」

「いや、なんでもない。」

 彼女がくれたプレゼントを見つめる。

「懐かしいな、新品だ」

 また呟いてしまう。

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