第21話 田舎の妖怪(天狐)(1)
去年(昭和四十三年)の八月中旬に話を戻す。その日は家族みんな(両親と弟と私)で父方の祖父母の家へ行った。
「家族旅行なんて久しぶりだね」と私は駅まで歩きながら母に言った。
「そうね」と母が答える。
「もう少し景気が良くなったら、田舎だけじゃなく、みんなでどこかへ旅行に行きたいわね」
母は戦争で天涯孤独になったそうだ。戦後、知人の紹介で就職し、事務員として働いている時に父を紹介されて結婚した。まもなく私と弟が生まれて、念願の家族を手に入れたと母は言っていた。
「私が働くようになったら余裕ができるから、一緒に旅行に行こうね」・・・母がまだ若いうちに親孝行がしたい。
「美知子には早く結婚して、孫の顔を見せてほしいけどね」・・・おっと、変な方に話が向かってしまった。
駅に着くと窓口で硬券を買って改札口を抜け、ホームで電車が来るのを待った。気温は高いが、心地よい風が吹いていて気持ちがいい。
やがて電車がホームに入って来て停車した。私たちはボックス席に向かい合わせで座った。すぐに電車が発車する。母が窓際に座り、車窓の風景が流れて行くのを眺めて楽しそうにしていた。
祖父母の家は西に行く電車に乗って一時間ほどの農村にある。目的地の駅に着き、改札口を出ると、祖父がオート三輪の軽トラックで迎えに来ていた。
「よう来たのう、みんな」と声をかけてくる祖父。
「これで全員乗れるの?」と私は二人乗りの軽トラックを見て思わず聞いてしまった。
「大丈夫じゃ。
「やれやれ」と父が言って、あまり広くない荷台に父と私と弟の三人が乗り込んだ。道路交通法に違反しているだろうなと思う。
ちなみに父の名は
私たちが乗った軽トラックは田んぼ脇の道をがたがたと揺れながら進んだ。私より体が大きい父は必死になって荷台の柵にしがみついていた。
十分ほどで祖父の家に着く。農家だが、田んぼはなく野菜を中心に育てている。
木造の古い家に入るとまず広い土間が広がり、そこに農具などが置いてあった。部屋に上がると天井の黒い大きな梁が目につく。時代を感じるが、室内は清潔に保たれている。
「ようこそ、いらっしゃい」と祖母が出迎えてくれた。
「さあ、居間に上がりなさい」
私たちが座卓の前に座ると祖母がお茶を出してくれた。
「みんな、元気そうで何よりだね」と祖母。
「武は小学何年生になったんかね?」
「今年から中学生だよ」と武が言い返す。
「美知子は高校生になったんじゃろ?」
「私は高校三年生で、あと半年で卒業よ」
「もうそんなになるか。・・・美知子は小さい頃はどこでも走り回って、よく田んぼに落ちていたのに」
そのことは毎年祖父母から言われる。しかし私は去年父から、このあたりで田んぼに落ちたとか、ここの用水路ですっぽんをつかまえたことがあるとか、たあいのない思い出話を聞いたことを思い出した。
「田んぼに落ちたのは私じゃなくてお父さんでしょう?おばあちゃんたちは私とお父さんを間違えてるんじゃないの?」
「いいえ、美知子は確かによく田んぼに落ちてたわよ。あぜ道を走って、土に足を取られてころんだの。泥だらけになってよく泣いてたわよ」と母が言って笑った。事実だったのか・・・。
「運動神経が悪かったからな」と父からの追撃の一言。
私は何も言い返せなかった。
一息つくと武は「遊びに行く」と言って、祖父からたもとバケツを借りていた。
私は座ったまま家の外をながめた。居間の外側に縁側があり、縁側のガラス戸はすべて開けられていた。開放感が半端ない。遠くには田園や山が広がっている。扇風機をつけなくても、心地よい風が感じられた。
田舎の景色に魅了され、「私もちょっと散歩して来るわ」と言って祖父母宅を出た。のどかな雰囲気をしばらく味わい、昼過ぎに祖父母の家に戻った。
居間の座卓に昼食の用意がしてあったが、武、両親、祖父母と一緒に小さな女の子が座って昼食を食べているのに気づいた。
女の子は小学校低学年くらいだ。髪が肩まで伸びているが、なぜか男の子用のランニングシャツを着、サルマタ(トランクスのような下着)をはいていた。
私は座卓の前に座りながら、「誰なの、この子?」と家族に聞いた。
「武が拾って来たの」と母。
「ええっ?」と驚いて武を見る。
「俺がザリガニ釣りをしていたら、いつの間にかそばにいて、一緒にザリガニを釣って遊んだんだ。そして昼飯を食べるためにここに帰ったら、この子がついて来ちゃって・・・」
「その格好は?」
「全身泥だらけで、着ていた服も汚れていたからね、とりあえず脱がせて、お風呂の残り湯で体を洗い、服は洗濯して干してるの。今着せているのはお父さんの子どもの頃の下着よ」と母。
「どこの子か知らないけど、服が乾いたら家まで送って行くわ」
「そうなんだ。・・・なんて名前の子?」と私が聞いたら、
「てんこ」とその子が答えた。
「てんこ?」
私は小学生の頃に読んだことがあるエーリッヒ・ケストナーの児童文学『点子ちゃんとアントン』を思い出した。ドイツのお金持ちのひとり娘のルイーゼは、小さくかわいくてみんなから点子と呼ばれていた。母子家庭の貧しい少年のアントンとは友だちだが、点子とアントンはやがて事件に巻き込まれていく・・・という内容だった。この子の名前も「点子」と書くのだろうか?
「点子ちゃんね。私は美知子よ。よろしく」自己紹介をしながら祖母からご飯茶碗を受け取る。
「おじいさんやおばあさんもどこの子か知らないの?」
「ああ、このあたりじゃ見かけんの」
「点子ちゃんはどこから来たの?」と私が聞くと、
「あっちの方」と答えた。
「お父さんやお母さんが心配してるんじゃない?」
「大丈夫。それより、ザリガニ、いっぱい取ったよ」と点子ちゃんが私に嬉しそうに言った。
「あそこ」と、点子ちゃんが私の背後の土間に置いてあるバケツを指さした。
何かがバケツの中でごそごそ
昼食が終わると母が洗った点子ちゃんの服を持って来た。既に乾いているが、茶色い長袖のTシャツっぽいのと長ズボンで、かなり表面がすれていた。それ以外は洗っても黄ばんだままのパンツだけだった。
「夏に着るような服じゃないわね」と私は言ったが、母はその服を点子ちゃんに着せ、袖と裾を折ってあげた。
「お兄ちゃん、また遊ぼうよ」武の手を引く点子ちゃん。
「あ?・・・ああ、うん」
点子ちゃんは来た時にはいていた泥だらけのズック靴をはくと、ザリガニを入れたバケツのところに駆け寄った。中をのぞいて嬉しそうにしている。
「武、あのバケツは家の外に置いてよ。見たくないから」と私は武に言った。
「何を怖がってるんだよ」と武は文句を言ったが、それでもバケツを家の前の道路脇に移してくれた。
「お兄ちゃん、またザリガニ釣ろうよ」と点子ちゃん。
「ザリガニはいっぱい取ったからな、今度は魚をすくいに行こうか?」
武の言葉に喜んで、点子ちゃんがたもを持ち、武が別のバケツを持って遊びに出た。
「その子をちゃんと見ていなさいよ!」と母が叫んだが、聞こえていたかどうか。
夕飯どきになると、武が一人で帰ってきた。
「点子ちゃんは?」家に入ってすぐに母に尋ねられる武。
「こっちに帰ってないの?」と聞き返す武。
「どういうこと?」
「さっきフナをすくったら『ちょうだい』って言われてさ、『いいよ』って言ったらフナをつかんでこっちの方に走って行っちゃった。俺は置きっぱなしのたもとバケツを持って、今帰ってきたとこなんだ」
「もう、あんたって子は!ちゃんと見てなきゃだめじゃない!」と母が怒ったが、
「自分の家に帰ったんじゃないか」と父が言って母をなだめた。
その夜、武が余分にすくってきたフナを味噌で煮たものが夕飯のおかずに出た。半身ずつ四人分あったが、私は食べたくなかったので、武と父と祖父が食べることになった。武は二人分食べた。
「どんな味?」と武に聞いてみる。
「泥臭いということはない」と答える武。「ほとんど味噌の味で、魚の味はあまりわかんないや」
「あのザリガニも食べるの?」と私はからかうつもりで武に聞いた。
「ザリガニなんて食わねえよ!」
「じゃあ、表のザリガニはどうする気?用水路に戻すの?」
「ん〜、考えてなかった。明日、戻して来るよ」
夕飯が終わって、お風呂にも入って、さて寝ようかと思ったら、家の外からがたっという音が聞こえた。
土間でサンダルを引っ掛けて、玄関の引き戸をそっと開けてみると、道路脇のザリガニを入れたバケツの横に小さな黒い影が見えた。
犬よりも小さい四つ足の動物だ。そしてその動物の光る二つの目が私の方を向いた。
「きゃっ」と私は叫んでしまった。
その声に反応して、その獣は音もなく走り去って行った。
翌朝、武が表に出たら、ひっくり返っていたバケツの中にザリガニのハサミや尾っぽが散乱していて、動物に食べられたみたいだと言ってきた。
私が夜見た動物のことを話したら、
「狐か狸かもしれんな」と祖母が教えてくれた。この辺に数は少ないがときどき出て来るらしい。
そのすぐ後、畑の隅に狐が死んでいるのを祖母が見つけて私と武を呼んだ。
一メートル近くある大人の狐で、顔のそばに食べた痕跡のないフナやザリガニが置かれていた。
「ひょっとしたらあの子は、この親狐の子どもだったかもしれんな」と祖母がぽつりと言った。
「あの子って、点子ちゃんのこと?」
うなずく祖母を見て、何を言ってるんだと思った。
しかしその後、家に帰る日まで点子ちゃんに会うことはなかった。祖父母も一度も見かけなかったらしい。
点子ちゃんは私たちの前から姿を消した。元の狐の姿に戻って、近くの山林に帰って行ったかのように。
後日、本で調べたら、狐が年を取ると霊力を身につけて
しかし私は高校三年生。受験を控えているし、生徒会長をしていたので何かと多忙だった。私はやがて点子ちゃんのことを忘れてしまい、一年が経った。
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