第9話 森田家の妖怪(札返し)(3)

さて、話を戻そう。「怪談の『牡丹灯籠ぼたんどうろう』って知ってますか!?」という森田さんの質問に私は仰天した。


『牡丹灯籠』は有名な怪談だ。毎夜牡丹灯籠を持った女、お露が下駄を鳴らして恋仲になった男の元へ通う。やがて男はお露が幽霊であると知り、家にお札を貼ってお露が入れないようにする。しかしお露は別の男に金と引き換えにお札を剥がしてもらい、翌朝恋仲の男が死亡しているのが発見されるというくだりが有名だ。


「ぼ、ぼ、牡丹灯籠は知ってるけど、それが何?」


「その中に幽霊が家に入らないようお札を貼るって話があるんですが、そのお札を剥がすと幽霊が入って来て死んじゃうんですよね」


「そ、そういうお話よね」


「そのお札みたいなのが剥がされて、うちのポストに入っていたんです」


「ええっ?」


「さっき図書室で調べたら、お札を剥がすよう人を惑わす妖怪がいて、その妖怪を『札返し』と呼ぶんだそうです。その妖怪が出たのかもしれないので、妖怪ハンターと呼ばれているお義姉ねえさんに退治していただきたいんです」と森田さんが一気にしゃべった。


「ちょ、ちょっと待ってね。・・・まず確認するけど、そのお札みたいなのってのは、森田さんの家に貼ってあったものなの?」


「いいえ、見たことありません。家族も知らないって言ってます」


「じゃあ、森田さんの家族が幽霊に祟られるってことはなさそうね」


「ですが、ひょっとして近所の家から剥がされたものかも。・・・近所で誰かが死んだら怖いですよ〜」


「そのお札はどんなの?」と聞くと、森田さんがポケットから折り畳んだ紙を二枚出した。


一枚は縦長で、三つの記号のようなものが墨で描かれていた。もう一枚は横長で、上の行に七つ、下の行に三つの同じような記号が描かれていた。


「これって、梵字かしら?」梵字とはインドから仏教とともに中国を経て日本に渡来した文字だ。密教でよく使われているはずだ。


「お兄さんには見せたの?」


「一応見せましたけど、子どものいたずらじゃないかって言って、相手にしてくれませんでした。兄が何か知ってると思うの?」


「いえ、大学生だからこんなのの知識もあるのかと思って聞いただけよ」


私に梵字の知識があるわけないので、森田さんと一緒に図書室に行った。図書室には図書係の空井さんがいた。


「ねえ、空井さん、ここに梵字の解説書ってある?」


「ぼ、梵字?さ、さあ・・・見たことないけど」


図書室にいた他の女子生徒も知らないようだった。一応書架を探してみたが、やはりなかった。


「蔵書リストにもなさそうね」と空井さんに言われたので、お礼を言って図書室を出た。


「どうするの、お義姉ねえさん?」と聞く森田さん。


「ここにないなら、市内の図書館に行ってみましょう」


すぐに帰り支度をして、森田さんと一緒に昇降口を出る。図書館に着くと、書架の仏教コーナーに『梵字入門』という本を見つけ、閲覧用の机に持って行って広げてみた。


「梵字には種子しゅじまたは種字しゅじと呼ばれる字があって、一文字でいろいろな仏様を示しているみたい」


私はまず梵字らしきものが三つ書かれている縦長のお札?を取り出した。


「やっぱりこれは梵字のようね。最初の字は・・・キリークかしら?二文字目がややこしいけどウウーンね。三文字目はシリーか。・・・それぞれの意味は?」


キリーク:千手観音の種子。災難、延命、病気治癒などあらゆる現世利益にご利益があり、難産や夫婦円満、恋愛成就にも功徳がある。子年の守り本尊で、子年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助ける。


ウウーン:愛染明王の種子。恋愛・縁結び・家庭円満のご利益がある。


シリー:吉祥天の種子。美、幸運、繁栄、豊穣をもたらす神とされる。


「恋愛と美に関係するみたいね。修学旅行で行った下鴨神社で買ったお守りみたい・・・」


二枚目の横長のお札?を出す。上の行に七つ、下の行に三つの梵字が書かれている。


「上の行は左から、ガ、マ、ベイ、ア、ウーン、キリーク、最後がウンね。そのまま読んでも意味は通じないわ」


それぞれの意味を調べていくが、一つの種子に複数の仏様が割り当てられていたりして、どの仏様を指しているのかなかなかわからなかった。


しかしいくつかの仏様の名前とご利益をメモしていくと、共通の意味があることに気がついた。


ガは迦楼羅天かるらてん、つまりガルーダで、衆生の煩悩を喰らう霊鳥とされ、降魔、病除、延命、防蛇毒に効果がある。


マは大黒天だいこくてん摩利支天まりしてんの種子だ。大黒天とは米俵の上に座った大黒様のことだが、本来は軍神や戦闘神であったらしい。そして摩利支天は勝利、開運をもたらす仏で、戦国時代に武将の信仰を集めていた。


ベイは毘沙門天びしゃもんてんで、戦勝祈願の信仰対象だ。


アは大元帥明王だいげんすいみょうおうで、国土を護り敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮する。


ウーンは金剛夜叉明王こんごうやしゃみょうおうで、息災健康、怨敵退散のご利益がある。


キリークは大威徳明王だいいとくみょうおうの種子でもあって、邪悪な存在を降伏させる破邪の明王だ。


ウンは降三世明王ごうざんぜみょうおうの種子で、過去・現在・未来の三世の敵を征服する。


「この七つの梵字は、いずれも敵に勝つ、悪を滅するという意味があるみたい」


「下の三文字は?」


「これがわからないのよ。この三文字はどれも仏様の種子ではないみたいなの」


私は『梵字入門』のページをめくり続けた。すると、日本語の五十音を表す梵字があることに気づいた。その表に合わせてお札?の三文字を読んでみる。


「えーと、左からコ、チ、ミね。・・・え?」右から読むとミチコになる。まさか私のこと?


ミチコを踏みつけるように上段に戦いに特化した仏様が並ぶ。私一人に七、八人がかりなのか?


私はぞくっとした。誰かに恨まれている?でも、心当たりはなかった。第一なぜ、私の家でなく森田さんの家のポストに入っていたのか?


「恋愛成就のお札と私を呪うお札が森田さんの家に投函されていた。・・・素直に考えると、ねずみ年生まれの二十歳の女性がお兄さんのことを好きで、私のことを邪魔に思ったということだけど・・・」


「えー、じゃあ、兄が女をたらし込んでいたってこと!?」


森田さんが大声を上げたので、周囲の人に注目されてしまった。


「そうとは限らないから!」と私は言って、あわてて森田さんを黙らせた。


「どうして?」


「だって私はまだお兄さんと交際しているわけでも、まして婚約しているわけでもないわ。お兄さんが別に彼女を作れば、その時点で私とお兄さんの関係は自動的に切れるのよ。恋敵としてここまで恨まれるのはおかしいと思うの」


「じゃあ、兄とは必ずしも関係なく、お義姉ねえさんに個人的な恨みを持つ人ってこと?」


「・・・そうだとしたら、森田さんの家にこの紙を投函することはないはずよ。私の家に入れればいいんだから」


「そうね。・・・とにかく、お義姉ねえさん、これからうちに来ない?夕飯も食べていってよ」


「え〜?どうしようかな・・・」私は躊躇ちゅうちょしたが、森田さんがしつこく誘って来た。


「来てよ、来てよ〜」


根負けして図書館を出ると、そのまま森田家に向かった。お札の真相はまだわからないが、卓郎さんに話を聞けば何かわかるのかもしれない。ただ、卓郎さんに会うのは気が引けた。


「お義姉ねえさんは何年?」


「私は寅年よ」


「私は辰年だから、私たちが姉妹きょうだいげんかをしたら、竜虎相搏りゅうこあいうつような大げんかになるわね」と森田さんが冗談を言ったので、私たちは笑った。


森田家の玄関前に着く。すると物陰から長身の男が現れた。コートで身を包み、帽子を深々とかぶり、顔にはマスクをしている。突然の出現に私たちが驚いていると、その男はマスク越しにくぐもった声で話しかけて来た。


「藤野、美知子さん?」


「は、はい・・・」名前を呼ばれて反射的に答えてしまった。するとその人物は突然私に襲いかかって来た。


森田さんが叫び声をあげる中、私はその人物に両肩をつかまれ押し倒されそうになった。


「や、やめてください!柿崎さん!!」


私がその人物の名前を呼ぶと、私の肩から手を離してあわてて逃げて行った。その様子を遠くから目撃した卓郎さんが急いで駆けつけて来た。


「藤野さん、大丈夫かい!?」


「え、ええ・・・」私は卓郎さんに抱き起こされてほっと息をついた。




私は森田家の和室で淹れてもらったお茶をすすっていた。周りには森田さんと両親と卓郎さんが座って私を見つめていた。座卓の上には例の二枚のお札が置いてある。


「じゃあ、このお札をポストに入れ、あなたを襲ったのは柿崎さんって人なの?」と森田さんの母親が聞いた。


「長身で、最初は男と思いましたが、私の名前を呼んだのは女の声でした。長身の女性で思い当たるのは、これまで会ったことはありませんが、秋花しゅうか女子大学の郷土史研究会の部員である柿崎塔子さんだけです」(第5章第6話参照)


そこで私は秋花しゅうか女子大学の英研のお金が一時紛失した事件のあらましを説明した。


「柿崎さんは、後でこっそりお金の入った缶を戻して知らんぷりをするつもりだったのかもしれません。しかし私が早々に高いところからお金を発見したので、柿崎さんが犯人だとすぐにばれてしまいました」


「その後のことは僕が話そう」と卓郎さんが言った。


「今週の月曜日のことなんだが、僕が半分足を突っ込んでいる明応大学の歴史研究部に柿崎さんがやって来たんだ。よく他大学の同様のサークルと交流しているからね。


 柿崎さんはいきなり、『森田君には彼女がいるの?』と聞いてきたんだ。僕は、


 『彼女はいないけど、母と妹に気に入られている女性と知り合いになったよ。・・・そうそう、四月から秋花しゅうか女子短大に入学するんだ。名前は藤野さん』と何気なく言ってしまったんだ。」


卓郎さんに見合いの話が知られたのかと思って私の顔が熱くなった。卓郎さんは話を続けた。


「すると柿崎さんは、『その子の名前ってもしかして藤野美知子じゃないの?』と聞いてきた。僕がそうだと答えると、


 『私、大学を辞めるかもしれない』と突然言ったんだ。


 僕が理由を聞いても答えず、泣きそうな顔で帰って行った。まさか、彼女がこんなことをするなんて・・・」


「どういうことなの?」と森田さんが私に聞いた。


「多分、柿崎さんはお兄さんのことが前から好きで、私のせいで大学を辞めなければならないと思ってお兄さんを頼って来たんでしょうね。でも、好きだと告白する前にお兄さんの口から私の名前を聞いてしまった。・・・秋花女子大学で誰かから私が柿崎さんのしたことを暴いたと教えた人がいたのかもしれません。


 そのため柿崎さんは、私が柿崎さんから大学と好きな人の両方を奪ったように思ったのでしょう。そして私を呪うお札と自分の恋が実るお札を作って、わざわざこの家に投函しに来たのだと思います。さすがに私の家は知らなかったでしょうから」


「その、柿崎さんって人は梵字を知ってたの?」と森田さんが聞いた。


「各地のお寺に仏様を表す種子しゅじとして梵字が記されていることがありますから、郷土史研究会の柿崎さんはもともと多少の知識があったのでしょうね」


「藤野さんには迷惑をかけたね」と卓郎さんが謝った。


「柿崎さんには僕から言っておくよ。大学を辞める必要はない、謝れば許してもらえるって。・・・そして藤野さんと僕はまだ何の関係もないって」


「お兄さん、それは!」と森田さんが文句を言いかけたが、私が森田さんの反論を制した。


「それでいいと思います。よろしくお願いします・・・」


私は森田家を辞して帰ることにした。柿崎さんがまだいるかもしれないので、卓郎さんが途中まで送ってくれた。


「藤野さん、君は頭がいい。・・・いや、勘がいいと言った方が適切かな?」


「は、はあ・・・」


「でも、世の中にはあまり明らかにせず、ほっておいた方がいいことも多いと思うんだ」


「はい・・・」


「特に将来結婚するかもしれない相手には、あまりそういう面を見せない方がいいと思うよ」


「はい。・・・肝に銘じておきます」


その後すぐに卓郎さんと別れた。卓郎さんの言葉には、私が結婚相手としてはふさわしくないという意味がこもっていたように思う。


私はいつの間にか涙を流していた。何の涙かわからなかったけど・・・。

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