第8話 森田家の妖怪(札返し)(2)

私は森田さんの母親の絵を描くために、座っていた座布団から腰を動かすと、失礼かと思ったがそれを母親の方にさし出した。


「どうか座布団の上で、楽な姿勢でお座りください」


母親が座りなおしている間に私は手提げカバンからスケッチブックと筆箱と水彩絵の具などを取り出した。家族四人とも私の一挙手一投足を見守っているので、ものすごく緊張する。


私は楽な姿勢で座ると、すぐにスケッチブックを開いて鉛筆で母親のデッサンを始めた。四十歳くらいなのでまだ十分に若々しい顔をしているし、全体に上品な雰囲気を宿している。しわは多くないが、それでも目尻辺りに小じわが増えているので、そのあたりははっきり描かないように注意した。


同級生だと何割増しで描く、という表現になるが、年配の女性の場合は十歳くらい若く描くことを目指す。


全員に見られて緊張しながらも二十分後にはおおよそ描きあげたので、


「森田さん、お水をいただけるかしら?」と言って水彩絵の具用の水入れをさし出した。


「入れてきます」と言って受け取る森田さん。その間にパレットに絵の具を出しておく。


森田さんから水入れを受け取り、デッサンに淡く色を重ねていった。厚塗りはしないので、十分くらいで塗り終わった。


「こんな感じでいかがでしょうか?」スケッチブックごとおずおずと母親にさし出す。


「まあ、素敵」と母親は言ってくれた。「しかもこんなに早く描いてもらえるなんて」


父親が絵をのぞき込んで、「母さんの若い頃だ」と言って母親にはたかれていた。


「すばらしい」と森田さんのお兄さんがうらやましそうに見ていたので、


「お兄さんの絵も描いてあげましょうか?」と、つい言ってしまった。


「是非!」と満面の笑顔を浮かべるお兄さん。それを聞いて父親も私をじっと見つめてきたので、結局父親の絵も描いてしまった。


男性の絵は難しい。・・・というか、盛る方向がわからない。女性っぽい美男子に描けばいいのか、野性味を出した方が喜ばれるのか。それでも適当に描いた絵を二人ともとても喜んでくれた。


「今日はどうぞ夕飯を食べていってください」と母親に懇願されたので、私は了承し、電話を借りて家に連絡しておいた。


電話をかけ終わって八畳間に戻ると、長方形の座卓が置かれていた。ふすまが開けられ、奥にある台所で母親が五人分の夕飯の準備をしていた。


私はあわてて「お手伝いします」と声をかけた。


「そんな、お客さまに悪いわ」と最初は固辞されたが、他人の家でじっと待っているのも気まずいので、繰り返し懇願して手伝わせてもらった。


「茂子、あなたも手伝いなさい」


「え〜?」と、森田さん。迷惑をかけたのかもしれない。


夕飯のおかずはアジの刺身、イカの煮つけ、焼きナス、キュウリの塩もみ、豆腐のみそ汁などだった。私は煮つけとキュウリの塩もみを担当し、焼きナスの作り方などを教えてもらった。


森田さんは食卓の準備を主にしていた。


「生徒会長さんは絵がお上手なだけでなく、家事もなされるのね?」


「家では普通に手伝っていますから」


「茂子にも見習わせたいわ」と言われて森田さんが頬を膨らませていた。


その森田さんが手伝って食卓の準備ができた。母親がご飯をよそい、それを森田さんが手渡していた。


全員で合掌して「いただきます」と言い、夕飯が始まった。初対面の人たちなので、お行儀よく食事をしなければならず気を遣ってしまう。


「生徒会長さんは将来は絵描きさんになられるの?」と母親が聞いてきた。


「いえ、絵を描くのはただの趣味ですから、短大に進学して、普通に勤め先を探そうと考えています」


「絵がお上手なのにもったいないですね」とお兄さんが言ってくれた。


ちなみにこのお兄さんは現在大学一年生で、自宅から大学に通っているそうだ。顔が森田さんに似ていて、チャラそうな見た目だったが(もちろん金髪やピアスの男性はこの時代にはいない)、話してみると常識人のように思えた。


「ご結婚の予定とかはないの?」と聞かれたので、


「まったくありません」と答えると、その後家族構成をひととおり尋ねられた。進学希望だと言ってあるので、結婚相手の紹介などはされないと思うが。


食後、絵の代金と封筒を渡されかけたので、「素人絵ですので、お金なんてとてもいただけません」と固辞して帰宅した。家族四人に玄関先で見送られたので、ちょっと恥ずかしかった。


翌日の朝、さっそく森田さんが教室に来た。


「生徒会長、昨日はありがとうございました。兄や父の絵まで描いていただいて」


「男性の絵は慣れてないから、あまり出来が良くなかったと思うの。気にしないで」


「いえ、素晴らしい絵でした。家族全員の絵を額に入れて飾ることになりました」


「そこまでするほどの絵じゃありませんが・・・」


「それでお礼として、母が日曜日の午前中にでも生徒会長の家に行って、生徒会長とご両親にあいさつがしたいと言ってるんです。あ、私も同行しますので、よろしく」


「ええっ!?日曜日の午前中?」


「はい、二十一日の午前十時頃になると思いますので、どうぞよろしくお願いします」


森田さんが私にぺこりと頭を下げた。そして私の返事を待たず、走り去って行った。どうする?


その日の休み時間に何度か一年四組を尋ねて森田さんを捜したが、沢辺さんにじろりとにらまれるだけで、森田さんを捕まえることはできなかった。


放課後にようやく森田さんを捕まえて、朝聞いた話を再確認することにした。


「ですから、母と私が生徒会長の家に行って、ご両親にお礼がしたいということです」


「私の家を知ってるの?」


「じゃあ、住所を教えてください」・・・知らずに来るつもりだったのか?


「私も森田さんのお母さんに確認したいから、電話番号を教えてくれる?」


ということで、住所と電話番号を交換した。


家にすっ飛んで帰ると母親にそのことを説明した。


「あらあら、大ごとじゃない?私だけじゃなくお父さんにも?」


「一応電話番号を聞いてきたけど、電話かけて聞いてみようか?それともお母さんがかける?」


「話がややこしそうだから、私からかけてみるわ」


母親はそう言って電話機に向かった。電話のダイヤルをじーこじーこと回した後で、先方の誰かが電話に出たようだ。


「突然お電話を差し上げてすみません。私は藤野美知子の母ですが・・・」


「・・・」相手の声は聞こえない。


「ええ、娘は生徒会長をしております」


「・・・」


「え?そこまでしていただかなくても・・・」


「・・・」


「日曜日の午前中なら主人もいると思います。・・・そうですか、はい・・・わかりました」


母親が受話器をがちゃんと置いた。


「どうだった、お母さん?」


「絵のお礼をどうしてもしたいからって、遠慮しても聞いてもらえず、結局来てもらうことになったわ。お父さんにも言っておかなきゃ」


「お母さんでも断れないなら、私が森田さんに言っても無理ね」と、私も観念した。


その日の夜、父親が帰って来るとさっそく母親が事情を説明した。


「似顔絵のお礼にうちにわざわざ来てあいさつするって!?」と父親も驚いていた。


「そこまでしてもらうことでもないだろう。断れなかったのか?」


「ええ、どうしても、どうしてもって。・・・強い言い方じゃなかったけど、こちらの言い分は聞いてもらえなくて、とうとうお待ちしていますって言ってしまったわ」


「日曜日の朝か。・・・着物姿じゃだめだな?背広を着るか?」


「ワイシャツとズボンだけで、ネクタイはなくていいと思うけど」と、両親の相談はしばらく続いた。


翌日の木曜日に森田さんを捜して話しかけた。


「日曜日の件だけど、お母さんと歩いて来られるの?」


「そのつもり」


「じゃあ、森田さんの家に私が迎えに行くから。家まで案内するわ」


「ありがとう、生徒会長。よろしくね」


そして日曜日の朝になった。九時半頃に私は家を出て、先日行ったばかりの森田家へ記憶を頼りに歩いて行った。


森田家に着くと、着物を着た母親とセーラー服姿の森田さんが出てきた。母親はふろしき包みを抱えていた。


「お迎えに来ていただいてありがとう」と森田さん。


私の家に着いて、玄関を開け、「狭い家ですが、どうぞお入りください」と言って二人を招いた。


「お邪魔します」と言って玄関に入る森田母子。


すぐに母親が出てきた。今日はいつもよりおめかししている。


「美知子の母でございます。本日はわざわざお越しいただきありがとうございました」


「いえ、無理を言ってお邪魔させていただき、申し訳ありません。こちらは娘の茂子で、美知子さんには日頃からお世話になっております」


「立ち話も何ですから、どうぞお上がりください」


母親がお茶の間に二人を招き入れ、うちの両親と森田母子が向かい合うように座る。


森田母は持参したふろしき包みを開き、高級そうな羊羹の箱をさし出した。


私はその間にお茶の準備をし、「粗茶ですが」と言って二人の前に出した。


そこからは森田母が私をほめ続けるターンだった。とても素敵な似顔絵を家族全員に描いてもらったこと、学校では生徒会長をしていて、人望があるし、勉強も熱心なことなど、はたで聞いていて恥ずかしくなるくらいだった。


私の両親ははいはいとうなずくばかりで、なかなか口をはさめずにいた。


「それに先日、うちで夕飯にお招きしましたら、美知子さんが私の料理を手伝ってくれまして、それはもう楽しい時間を過ごしました。そのとき私は、美知子さんにお嫁に来ていただけたらこの上ない喜びだと思いましたの」


「は?」「え?」「へ?」


最初は何を言ったのかぴんと来なかった。お嫁?誰が?私は進学するつもりだぞ。


「いえいえ、娘をおほめいただいたことは嬉しく思いますが、これから短大に進学して、就職すると言っておりますので、今すぐ嫁がせるわけには・・・」


父親がしどろもどろに話した。


「もちろんですわ」と森田母が言い返した。


「うちの息子もまだ大学一年生で、結婚など早すぎます。しかし息子が大学を卒業して就職した頃なら、美知子さんも結婚するのにちょうどいい時期かと思います。そのときにまだお輿入れ先がお決まりでなかったなら、うちの息子と優先的にお見合いをしていただきたく、どうぞよろしくお願いいたします」


そう言って頭を下げると、ふろしき包みの中から釣書つりがきと卓郎さんの写真を出してこちらに出してきた。


「どうぞ、四、五年後まで預かっていただけたら幸いです。そのときが来たら正式に仲人さんを通してお願いしますので」


私と両親はまだぽかんとしていた。


「四、五年後のお見合いの予約をされるとは、正直驚きました」と父親がやっとの思いで声を絞り出した。


「要するに、つばをつけておくってことだね」と森田さんが言い、


「はしたない言い方はおやめなさい」と森田さんの母親がたしなめていた。


「まだまだ先の話ですので確約はできませんが、お気持ちはありがたく受け取らせていただきます」


そう言って出された釣書と写真を父親が受け取った。


「どうぞ、よろしくお願いいたします」森田母子が二人で深々と頭を下げた。


二人が帰るときに、私は玄関先まで見送りに出た。


「ねえ、生徒会長、今日は驚いた?」と森田さんが小声で聞いてきた。


「そりゃもう、突然のお話だったから」と私が答えると、森田さんがふふっと笑った。


「お兄さんは知ってるの、この話?」


「これからお母さんがことあるごとに生徒会長の話をして、その気にさせていくんじゃないの?」・・・洗脳ですか?


五年後なら、この見合い話は立ち消えになっている可能性が高いな、と思った。森田さんの母親の行動力には驚かされたが、あまり深く考える必要はないだろう。


「これからもよろしくね、お義姉ねえさん」と森田さんが言って、私は硬直してしまった。


森田さんは笑いながら私を残して母親のもとへ去って行った。

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