2 五つの凶器

私は兵頭部長に断って部室を出た。行き先は医学部の法医学研究室だ。ちなみに昨年末に私は、事件の捜査に関与していた時に犯人から殺されそうになったことがある(第3章参照)。兵頭部長はそのことを心配して「気をつけてね」と言ってくれたのだ。


医学部と附属病院は少し離れた敷地にある。私は通い慣れた道を通って医学部の基礎研究棟に入り、薄暗い廊下の奥にある法医学研究室の前まで行ってドアをノックした。


「どうぞ」と立花先生の声がした。ドアを開けて中に入ると島本刑事も来ていて木の丸椅子に座っていた。


「やあ、一色さん、先週はどうも。気になってるだろうから、例の事件の説明をするよ。いつもの店に行こうか」と島本刑事が言った。


三人で医学部棟を出て、島本刑事にいつも誘われる一軒の小料理屋に入る。その個室で向かい合わせに座ると、島本刑事が仲居さんに料理と飲み物を注文してくれた。


ここでいつものように島本刑事が事件の説明を始めてくれた。なお、普通は刑事が一般人に捜査情報を漏らすことはないのだけど、司法解剖を担当する立花先生のような法医学者には説明することがある。私は非公式にだけど、法医学教室の関係者という名目で島本刑事に協力していることになっている。


「まず、被害者だけど、本名は村山二郎むらやまじろう、五十四歳、倉庫業者に勤務し、大手の商社などから預かっている物品の管理をする作業員だ」


「苗字は村山ですか?アパートの表札には山田と書いてありましたが」


「会社に問い合わせたら現住所の最後に『山田方』と記入されていた。アパートを管理する不動産屋には山田三郎と名乗って契約したらしい。契約時に身分証明書を持っていないということで、未確認のままだったようだ」


「名前を騙っていた?警察や暴力団などから逃げていたのかな?」と立花先生。


「何か秘密を持っていた人だったのでしょうか?私は一度見たきりですが、無口だけど変な人とは思いませんでした」と私は言った。


「調べたけど前科はないし、指名手配もされていない。名前を偽ったとすればその手の筋から身を隠すためかな?もっとも勤務先では本名を名乗らざるを得なかったようだ。本籍地の方で何かの事件に巻き込まれてなかったか、調べているところだ」と島本刑事。


「勤務先ではおとなしく、人付き合いは悪かったけど、勤務態度はまじめだったようだ。死亡時は仕事場から帰って行った時の服装と同じ薄手のセーター姿で、上着とコートは脱いで部屋にかけてあった。そして手ぬぐいの猿ぐつわを噛まされ、同じく手ぬぐいで両手首をきつく縛られていた」


「最初に抵抗できない状態にされたんですか?」


「みぞおちが赤くなっていたから、出会い頭に腹を殴られ、息ができずにうずくまったところを突き倒され、素早く縛られたんだろうな。・・・そして死因だけど、ここは立花先生に説明してもらおうか」


「被害者の死亡推定時刻は午後九時から十一時頃。右胸に一か所、背中の左右に二か所ずつ刺創しそう、つまり刺し傷があって、この五つの刺創のそれぞれに異なる凶器が刺さったままだった」と立花先生が言った。


「え?五種類の凶器が遺体に刺さっていたのですか?」


「そう。右胸には柄付きの切り出しナイフ、背中の左側には大工道具のノミと千枚通し、右側には一般的な文化包丁と簡易折りたたみナイフの肥後守ひごのかみが刺さっていた。いずれも体内で左右の肺を傷害していた。自分で自分の背中は刺せないから、明らかに他殺だね」


「そんなに多くの凶器を使って人を殺すことってよくあるのですか?」


「いや、そんな事件は今までなかったな」と島本刑事。


「ナイフマニアの犯人が何本も刃物を持って犯行に及ぶことはたまにあるけど、実際に使われるのは一種類か、せいぜい二種類の刃物だよ」


「僕もそんな遺体を解剖したことはないし、学会でも報告されたことはないと思う」


私はクリスティの『オリエント急行の殺人』という探偵小説を思い出した。あの小説では被害者の体に刺創が十二個も見つかるが、使われた凶器は一種類だったはずだ。


「それは謎ですね」


「そうだね。凶器に犯人の指紋はついていなかった。ドアノブや室内にもなかった。だから一色さんの意見を聞きたくてね」と島本刑事が言った。


「ちなみに死因は左右の肺の刺創で生じた外傷性両側血気胸がいしょうせいりょうそくけつききょうによる呼吸障害と鑑定された」と立花先生。


「『けつききょう』って何ですか?」


「肺は胸腔と呼ばれる体腔の中に納まっている。胸腔の外壁は肋骨と肋間筋で構成されている。肋間筋や横隔膜などの呼吸筋の作用で胸腔の容積が広がると、胸腔内圧が陰圧になって肺が膨らみ、膨らんだ肺胞に口や鼻、気道を通って空気が入って来る。次いで呼吸筋の作用で胸腔の容積が縮まると、肺が圧迫されて肺胞内の空気が口や鼻を通って体外に排出される。これが呼吸運動なんだけど、肺に穴が開くと肺の中の血液や空気が漏れ出て胸腔の中に溜まってくる。すると呼吸運動を行っても胸腔内の空気や血液のため肺が膨らまず、呼吸ができなくなる。胸腔に血が溜まることを血胸けっきょう、空気が溜まることを気胸ききょうと言い、同時に起こると血気胸けつききょうと呼ぶんだ」


「肺が刺されて漏れた血液や空気が肺を圧迫して窒息するんですね?」


「そういうこと。ただし、左右どちらか一方だけの肺が傷ついても、もう片方の肺が無傷なら何とか呼吸ができるから、左右両方の肺が刺されたので死亡したんだ」


「出血多量で死ぬわけではないんですか?」


「左右の胸腔内出血量を合わせて約六百ミリリットルだったから、出血多量というほどの出血量じゃないね」


「即死ですか?それとも・・・?」


「徐々に呼吸が苦しくなっていくから、即死ではなく死亡するまでに多少の時間がかかったろう。いずれの刺創も出血していて、生前の傷だった。死後の傷なら心臓が止まっているから、刺創内に出血が生じないからね。だから五か所刺されてもしばらくは生きていたことになる。お兄さんが見た女性が犯人なら、死亡までに二時間から四時間かかったことになるね。」


私は以前に首を絞められた時の苦しさを思い出した(第3章参照)。


「一色さん、大丈夫かい?」心配そうに聞く立花先生。私の顔が青ざめていたのだろうか。


「だ、大丈夫です。・・・凶器を刺したままにしておくと、死ぬまでの時間が長引きますか?」


「凶器を抜いた方が傷口がより開いて出血や空気の漏れが多くなり、死期が早まる可能性はある」と立花先生。


「苦痛を長引かせるためにわざと凶器を抜かず、次々と凶器を替えて刺していったと言いたいのかい?」と聞く島本刑事。


「犯人に医学的な知識があれば、わざと複数の凶器を使って苦痛を長引かせようとしたのかもしれない。でも、普通は犯行後すぐに現場から逃げることを考えるから、なるべく時間のかからない殺害方法をりそうなものだけど」


「そうだな。時間をかけて殺すなんて、普通は快楽殺人犯でもないと考えつかないだろうな。ほかにはどんな理由が考えられるのかな?」


「犯人が五人いて、それぞれが別々の凶器を持っていて、順に刺したとか?」


「現場には血痕がたくさん散っていたから、犯人が五人もいたら複数の下足痕げそこん、つまり足跡が残るはずだけど、犯人らしき足跡はかすかな痕跡以外ほとんどなかった。だから単独犯だと思う」と島本刑事が否定した。


「だとすると犯人はこれらの凶器に思い入れがあって、どうしても五種類全部を使わないといけなかったのかもしれません」


「どんな思い入れだい?」


「それはわかりませんけど、被害者がそれぞれの凶器に関係がある五人の恨みを買っていて、犯人が代わりに彼らの恨みを晴らしたつもりだったのかも。だとしたら、ノミがあるからひとりは大工さんですね」


「そうかもしれないけど、それだけだと雲をつかむような話だな。・・・文化包丁で刺された人は全国にたくさんいる。ノミ、千枚通し、切り出しナイフで刺された人もいるかもしれない。・・・だけど肥後守ひごのかみはどうかな?可能性がないとは言えないけど、しょせん鉛筆削りだからな」と言って島本刑事が頭を抱えた。


肥後守ひごのかみは広く普及し、竹とんぼ作りや鉛筆削りに使われた文房具の折りたたみナイフで、親指で押さえない限り、柄の中から取り出した刃を固定する仕組みはない。無理に刺そうとするとすぐに曲がって、持っている本人の手を傷つけかねない。


肥後守ひごのかみで人を刺そうとするなら、しっかり構えて人体にゆっくり刺さなきゃうまく刺さらないだろうね。殺人用の凶器には向かないよ」と立花先生も言った。


ちなみに昭和三十五年十月に日本社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼活動家の少年に脇差わきざしで刺殺された。この事件をきっかけに「刃物追放運動」が広がり、今では肥後守ひごのかみを鉛筆削りとして使う生徒は滅多に見かけなくなった。


「最初に刺すのに使った凶器はわかりますか?」


「うつ伏せの状態で背中に刺しやすいのは先端に刃が付いているノミか文化包丁かな?千枚通しなら傷が小さいから、死ぬまでに時間をかけさせるという意図があったのなら最初に刺したのかもしれない。四番目に肥後守ひごのかみをゆっくり刺して、あお向けにしてから最後に切り出しナイフを右胸に刺したんだろう」と立花先生が説明した。


「村山の過去を洗って、肥後守ひごのかみを使った傷害事件が見つからなかったら困るな。さすがに今の段階では根拠が薄いから、全国の警察に大々的に調べてもらうわけにはいかない。・・・知り合いの刑事に聞いてみることはできるけど」と島本刑事が言った。


島本刑事は全国の県警の刑事たちから名刑事と慕われており、しばしば事件捜査の相談を受けている。その相談の解決を私と立花先生が手伝っているのである。


「兄が見た女性の行方はわかりましたか?犯人とは限りませんが」


「近隣の聞き込みを続けているが、帰宅や買い物やらで人通りが多い時間帯だからな。今のところ確たる目撃情報は出てないんだ」


「そうですか・・・」


「二月だから茶色っぽいコートを着ている男女は大勢いた。サングラスをかけた人を見た人はいないが、すぐに外したのかもしれない」


「そうですね。変装のつもりなら、アパートを離れたら、早めに変装を解いた方が足取りをつかまれにくくなりますからね」


「そうだな。だからやっぱり被害者の過去を洗って、人に恨まれるような事情の有無を調べて犯人にたどり着かなくては。今日は五つの凶器についていろいろと示唆に富む意見をありがとう」


「いえ、お役に立てなくて」


「そんなことはないよ。それにまだ捜査は始まったばかりだからね、今日は情報共有のつもりで来てもらったんだ。捜査が進展すればまた意見を聞かせてほしい」と島本刑事。私たちに頼り過ぎでは、とも思うが、捜査に間接的にでも関わらせてもらうのは願ったりだ。


「追加の情報をお待ちしています」と言っておこう。


「とりあえず今日は食事を楽しんでくれ。乾杯!」と言ってビールを飲む島本刑事。つられて私と立花先生も乾杯した(ちなみに私はジュース)。


食事をしながらの会話は世間話になった。


「一色さんは大阪万博を観に行くのかい?」と聞く島本刑事。


「私はお金もないし、今のところは行く予定はありません」


「立花先生は?」


「僕も今のところ行く予定はないよ」


「実はうちは娘にせがまれて春休みに行くことになったんだ」


「そうですか。みちるちゃんは喜んでいることでしょうね」みちるとは島本刑事の中学生の娘さんの名だ。


「ホテルがどこもいっぱいでね、なかなか予約が取れなかったんだが、ようやくツインの部屋を三人仕様で二泊ほど予約できたんだよ」


「三人仕様?」


「もともとベッド二台の客室に簡易ベッドを一台入れて三人で泊まれるようにするんだそうだ」


「なるほど。三人家族向けですね」


「ただ、大事件が入ると捜査をしなければならないから休みが取れなくなる」


「それは・・・大変ですね。この事件がそれまでに解決するといいですね」


「すぐに犯人がわかって逮捕できればなあ。しかし旅行まで半月ほどしかないから、どうなることやら」と半ばあきらめ顔の島本刑事。


「もし島本刑事が行けなくなったら、奥さんとみちるちゃんが二人で行くことになるんですか?」


「それが、妻も娘も方向オンチだし、新幹線の乗り方もわからないんだ」


「え?切符は買ってあるんですよね?」


「ああ。混んだらいけないから、指定席の切符を取ってあるんだ」


「そしたら後は東京駅の新幹線乗り場の改札を通って、乗る列車の指定席に座るだけじゃないですか?」


「二人ともそれができないから問題なんだ。長野の田舎へ行き来する時は、特急が一列車しか来ないから迷わず乗れるんだが、新幹線は次から次へと発車するので、どれに乗ればいいのかわからなくなるようなんだ」


「それは・・・どうするんですか?」


「誰か連れて行ってくれる親戚でもいればいいんだがなあ」


「なら、一色さんに行ってもらえばいいんじゃないか?」と立花先生が口をはさんだ。


「えっ!?」と驚く私。


「大阪では奥さんと娘さんとホテルの同じ客室に泊まらなきゃならないだろ?なら、女性でないと困るから、一色さんに春休みの予定が特になければ、一緒に行ってもらえるんじゃないか?」


立花先生の言葉に私はあせった。「わ、私も新幹線に乗ったことがないんですが・・・」


「一色さんなら頭がいいから大丈夫だな。その時は頼むよ」と乗り気になる島本刑事。


私は「家族水入らずで行けることを祈ってます」としか言えなかった。

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