第4章 東京大阪連鎖殺人事件

1 隣家の死体

昭和四十五年二月二十四日火曜日の朝六時頃、私、一色千代子は眠い目を擦りながら起き上がり、顔を洗うと朝食の準備を始めた。


同居している兄が奥の部屋から出て来る。パジャマの上にどてらを羽織っている姿だ。ちなみに私も同じ格好をしている。


「おはよう、兄ちゃん」と私は兄に言った。


「おう、おはよう」そのまま台所の流しで顔を洗い歯を磨く兄。私はこれから焼こうとしている塩鮭に水がかからないよう食卓の上に移すと、焼き網の準備を始めた。


その時、部屋の外から「うわあああ」という呻くような叫び声が聞こえた。


「なんだ?」兄は口を急いですすぐと、歯ブラシを置いてどてらを着た格好でサンダルを履き、玄関のドアを開けて外をのぞいた。


「おい、どうした!?」兄はそう叫びながら玄関の外に出て行った。私もすぐ後からドアの外に顔を出す。


私たち兄妹が住んでいるのは二階建てのアパートの二階で、隣の部屋の玄関の前で新聞配達をしている少年が尻もちをついて震えているのが目に入った。


隣の家の玄関ドアが少し開いている。私はこんな格好なので外に出たくなかったが、兄が新聞配達の少年のそばに駆け寄って、隣の部屋の玄関の中に目をやると、


「うおおおおっ」と同じような呻き声を上げた。


こうなると自分の格好にかまってなんかいられない。私もサンダルを足にひっかけて外に出て、半開きになっている隣家のドアの中を見た。・・・男性があお向けで倒れている。胸にはナイフのようなものが刺さっているようだ。


「に、兄ちゃん、警察と救急に電話を!」と私は叫んだ。


私の声にはっとした兄は、すぐに走り出してアパートの外階段を駆け下りて行った。アパートの自宅には電話がないので、どこかで電話を借りるか、公衆電話を探しに行ったのだ。


「ねえ、君」と私は尻もちをついたまま動けないでいる少年に声をかけた。中学生か高校生ぐらいのようだ。


「警察が来るからここで待っていて」私がそう言うと、少年は震えながら私の顔を見上げた。


「発見時の状況を聞かれるからね」


「で、でも、新聞を配らないと・・・」少年はまだかなりの量の新聞をたすきがけした袋の中に持っていた。


「それに配り終わったら学校に行かないと・・・」


「わかった。じゃあ、あなたの名前と連絡先・・・自宅の住所と、電話があれば電話番号を教えて。後で刑事さんが話を聞きに行くと思うけど、容疑者としてでなく、第一発見者として話を聞くだけだから安心して」


「わかった」と答える少年。


私はすぐに自分の部屋に戻ると鉛筆とメモ帳を持って来た。少年は隣家の玄関から少し離れたところで、玄関の中を見ないようにして立っていた。


私が少年の名前と連絡先を聞いてメモしている間に、少年は落ち着いてきたようだった。


「君は中学生なのにしっかりしているね」と私をほめたつもりの少年。


「私はこう見えて大学生です!」とはっきり言い返しておいた。


そう、私は去年の四月に明応大学の文学部に入学したれっきとした女子大生だ。背が低くやせぎみなので、中学生に間違えられることがしばしばあるけれど。


連絡先を聞き取ると少年は新聞を抱えて去って行き、入れ替わりに兄が戻って来た。ちなみに兄は都内の有名中華料理屋で修行中だ。将来は郊外の町にある私の実家の小さな中華料理屋を継ぐ予定だ。


「あいつ、帰ったのか?」と私に聞く兄。


「配達と学校があるって言うから、名前と連絡先だけ聞いておいた」と私が答えた時にパトカーと救急車のサイレンが聞こえてきた。私はまだパジャマ姿だったことに気がついて、兄と一緒に着替えに部屋の中に入った。


急いで着替えて玄関の外に出たら、ちょうど数人の警察官と救急隊員がアパートの外階段を上って来るところだった。私はその中に顔なじみの人がいるのに気がついた。


「やあ、一色さん、おはよう。で、事件現場は隣かな?」と私に声をかける恰幅のいい中年男性。


「はい、そうです、島本刑事」と私は答えた。


この刑事さんとは顔なじみで、よく事件の話を聞かされる間柄だった。昔から探偵小説が好きだった私は大学に進学してからミステリ研究会というサークルに所属し、部長の兵頭先輩(経済学部三年生)に従兄の立花先生という明応大学医学部法医学教室に勤務するお医者さん(法医学者)を紹介してもらった。


法医学の解剖や検査の話を聞いているうちに、よく解剖に立会に来る島本刑事を紹介された。島本刑事から娘の行動について相談され、私の考えを述べたらたいそう感謝された。それ以来、徐々に犯罪事件についてまで相談されるようになった。


「現場をのぞいて来るから、少し待っててもらえるかな?お兄さんは仕事があるのかい?」


「通報した後に職場へ少し遅れると電話しておいたから大丈夫です」と兄。


「それじゃあ部屋の中で待っててもらえるかな。外は寒いからね」


そう言って島本刑事は隣の部屋に入って行った。


私たちは部屋の中で朝食を作って食べていたが、部屋の外では鑑識の人も来たようで、ひっきりなしに人が行ったり来たりしていた。


しばらく待っていると玄関ドアがノックされた。私はすぐに立ってドアを開けた。


「発見時の状況を聞きたいんだが、中に入っていいかい?僕ともうひとりの刑事の二人で」と島本刑事が聞いた。


「かまいません。狭くて散らかっていますが、どうぞ中にお入りください。


私は玄関に入ってすぐのところの、居間兼食堂兼私の寝室である和室に二人の刑事さんを通した。ちゃぶ台が広げてあるので、そこに向かい合わせに兄と刑事さんたちに座ってもらった。


「あ、お茶とかはいらないから」と台所に向かおうとする私を制す島本刑事。


そこで私もちゃぶ台の向かいに座ると、さっそく島本刑事が私と兄に話し始めた。


「隣の男性は死亡していて、死後硬直が出現していたから救急車で搬送されなかった」


「やはり亡くなられていたんですね。事件ですか、事故ですか?」


「それはまだ捜査中だよ。それより発見時の状況を教えてくれるかな?」島本刑事に言われて私は兄を見た。


「今朝の六時頃に俺・・・僕と妹の千代子は起床し、朝食の準備をしていました」と話し始める兄。


準備していたのは私だけど、と思ったが、話の腰を折らないよう何も言わなかった。


「その時外から悲鳴が聞こえたので、僕があわてて外に出ると、隣家の玄関の前で新聞配達の少年が腰を抜かしていました。そこで『どうした?』と言ってその少年に近寄ると、隣家のドアが半開きになっていて、中に人が倒れているのが目に入りました。千代子も出て来たけど、僕はすぐに近くの公衆電話まで行って通報したんです」


「その少年は?ここにはいないようだけど」


「その少年は配達と学校があると言っていたので、名前と連絡先を聞いておきました」と私は言ってメモを島本刑事に手渡した。


「君たちは二人とも隣の家の中には入らなかったんだね?」


「はい。現場を荒らしてはいけないと思いまして、ドアノブに手をかけたり、中に入ったりはしていません」


「その少年はどうかな?後で聞くけど」


「少なくとも玄関には入っていなかったように見えました」と兄が答えた。


「隣の人はよく知っている人かい?」


「ここに引っ越して来た時、つまり去年の四月に千代子とあいさつに行きましたが、顔を合わせた時にもごもごと返事されただけで、その後はほとんど会ってません。安普請のアパートですが、隣からは普段ほとんど物音が聞こえてきませんね」と兄。私も同意してうなずいた。


「じゃあ、隣の人の仕事や生活習慣は知らないんだね?」


「はい」と兄。


「名前も、表札に書かれている山田さんとしか知りません」と私も答えた。


「まだ死亡推定時刻はわからないけど、昨日から今朝にかけて、隣から物音や悲鳴などは聞かなかったかい?」


私は兄と顔を見合わせた。


「昨日は朝から大学にいて、午後八時頃に帰って来ましたが、何も気づきませんでした。兄はお店が定休日で家にいたはずだけど・・・」


「僕は昼過ぎにパチンコに行って、千代子より早く、午後七時頃に帰って来ました。・・・そう言えば」と兄が言った。


「このアパートに帰って来て階段を上がる途中で、女性とすれ違いました。茶色のコートを来た髪の長い人で、大きなサングラスをかけていました。このアパートで今まで見たことがない人です」


「年齢や身長は?」


「顔はよく見えなかったけど、全体的な雰囲気からは若い感じでした。身長は僕と同じくらいですが、ハイヒールを履いていたのかも」


「一色さんもそんな人を見かけたことはないんだね?」と島本刑事が私に聞いた。


「はい。少なくともこのアパートにはいないと思います」


「他の部屋の住人にも聞いてみるよ。・・・二人は昼間は大学と店のほうにいるのかい?」


「私は後期試験がほとんど終わりましたけど、すぐには帰省せず、しばらくはミステリ研に顔を出すつもりです。兄は定休日以外は朝から夜まで勤務先にいます」


「立花先生を介して連絡するかもしれないから、その時はよろしく頼むよ」と言って二人の刑事さんは外に出て行った。


普通なら遺体の状況などを教えてもらうのだが、今はほかの刑事さんがいたためか、ほとんど教えてもらえなかった。しかしいずれいつものように、現場の状況や司法解剖の結果を教えてくれるだろう。そういう間柄だったから。


警察の現場捜査はまだしばらく続くようで、兄は着替えて勤務先の中華料理屋に出かけて行った。私はお昼過ぎまで読書などをして、外からあまり物音が聞こえなくなってから、家を出て大学に向かった。


いつものようにミステリ研の部室に入ると、部員の山城先輩と神田君が来ていた。山城先輩は理学部の二年生、神田君は商学部の一年生だ。


「やあ、一色さん」「こんにちは」と私に声をかける二人。


「こんにちは。お二人ですか?」


「うん。もうすぐ春休みだからか、今日はほかの人は来てないみたいだね。遊びに行く準備でもしているのかな」と山城先輩。


「一色さんは万博を観に行くのかい?」と神田君が私に聞いた。万博とは大阪万国博覧会、エキスポ70のことだ。


「会場は大阪ですよね?遠いから、今のところ行く予定はないです。お二人は行かれるんですか?」


「友だちで関西出身のやつはいないからな。安いホテルに泊まるとしても、けっこう金がかかりそうだな」と山城先輩。


「同じく。気軽に行けないよ」と神田君も言った。「SF好きとしては科学の祭典に興味があるけど、雑誌の記事やニュースあたりで我慢するかな」


神田君は乱読家で、ミステリーだけでなくSFもよく読んでいる人だ。


「サンヨー館の人間洗濯機の紹介写真を見たけど、服を着たまま体と一緒に洗えるかな?」


「ずぼらな独身男性には便利そうだけど、市販されたら高そうだな」と山城先輩も言って笑った。


「一色さんはしばらくここへ来るのかい?」


「はい。・・・実は今朝、アパートの隣室で人が死んでいるのを発見したんです。警察の聞き込みがまだあるかもしれないので、しばらくは帰省しません」


「えっ、また殺人事件かい!?」と興味を示す山城先輩と神田君。


「まだ、殺人事件かどうか聞いていません。でも、胸にナイフのようなものが刺さっていました」


「また女子大生探偵、一色千代子の活躍が見られるのかな?・・・もっとも、第一発見者なら最初は容疑者として取り調べられるだろうけど」とちゃかされる。


「正確には第三発見者ですけどね。でも、すぐに犯人がわかるようなら、私が出る幕はないですよ」


ちなみに私は本職の探偵ではない。あこがれてはいるけれど。島本刑事から事件捜査の相談を受けているうちに、みんなにそう持ち上げられるようになっただけだ。


「立花先生のところで司法解剖されるのかな?話を聞いておいてね」


「わかりました」と答えておいた。


それから一週間、島本刑事から追加で取り調べを受けることはなかったが、いつものようにミステリ研に行くと兵頭部長が来ていた。


「やあ、一色さん、会えて良かった。一樹兄さんから法医学研究室に来てくれって伝言を受けたよ」一樹兄さんとは法医学教室の立花一樹先生のことだ。


「わかりました。これから寄ってみます」


「また事件に遭遇したのかい?今度は殺されかけないように気をつけてね」と兵頭部長からのありがたいお言葉をいただいた。

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