10 クリスマスの準備

「親子関係の結果に矛盾がなかったのに、白神本人と断定できないとはどう言うことですか?」と私は立花先生に聞いた。


「順に説明するよ。ABO式血液型で白神の両親はO型とA型。この二人からA型の子どもが生まれても矛盾はない。遺体はA型だったけど、日本人の五人に二人はA型だから、たまたま矛盾がなかっただけかもしれない」と立花先生が説明を始めた。


「MN式血液型では両親はM型とMN型。遺体はM型で親子関係に矛盾がないけど、日本人の四人に一人はM型なんだ。Rh式血液型では両親も遺体もRhプラス型で親子関係に矛盾がないけど、日本人の九十九パーセントはRhプラス型なんだ。P式血液型では両親はP2型とP1型。遺体はP1型で親子関係に矛盾がないけど、日本人の三人に一人はP1型なんだ。PGM1式血液型では両親は1A−2A型と1A型。遺体は1A型で親子関係に矛盾がないけど、日本人の半分は1A型なんだ。どの血液型も日本人には多い血液型だから、両親の子として偶然矛盾がなかっただけかもしれない」


「親子鑑定を行った法医学教室ではこれらの結果から肯定確率を計算しているよ」と島本刑事が言った。


「肯定確率?それはどのようなものですか?」


「それぞれの血液型の日本人における出現頻度から、真の親子である確率を計算して鑑定の参考にするんだ。どんな値になったのかい?」と立花先生が聞いた。


「まず、白神の母親と遺体が真の母子である確率。これを計算する際に父親はいないものとして計算したそうだ。父親が遺体の父親か不明だからね」


「で、真の母と子である確率は?」


「八十二・六パーセントだったそうだ」


「八十パーセントを超えていたんですね?それなら、遺体は白神の母親の子と考えていいんじゃないですか?」


「いや。フンメルという人が作った基準では、肯定確率が九十九・八パーセント以上でないと親子であると判定できないんだ。肯定確率が九十パーセント未満の場合は、『真の親子かどうかわからない』という結論になる」との立花先生の説明に私は気落ちした。


「次に白神の父親と遺体が真の父子である確率。白神の母親が遺体の母親と判定できなかったから、こちらも計算する際に母親はいないものとした。そして肯定確率はわずか三十六・七パーセントだった」


「これも『真の親子かどうかわからない』という結論だね」


「そうなのですか。・・・それでどうなるんですか?」


「身元の捜査は継続するけど、これ以上調べようがないから、しばらくしても何も情報が得られなかったら、親子関係に矛盾がないことから白神本人として死亡届が出されるんじゃないかな。一連の事件は被疑者死亡ということで、書類送検されて捜査は終わりになるだろう」と島本刑事が言った。


しかしその言葉では私たちは納得できなかった。そんな私たちの顔を見て、


「もし白神が生きているとして、一色さんはどこに隠れていると思う?」と島本刑事が聞いてきた。


「両親がいる実家は、警察が見張っていると考えて戻らないでしょうね」と私は答えた。


「チェスタトンが書いた探偵小説の中で『木の葉を隠すなら森の中』という名言が出てきます。人が隠れるなら人ごみの中でしょう。先日白神が法医学教室を訪れて来たのには驚きましたが、人ごみに隠れるために東京にいたままだと考えるとおかしくありません」


「確かに人気のない田舎に行けば、かえって目立つだろう。しかし東京と言っても広いからなあ・・・」


「警察から逃げているのなら、きちんとした下宿やホテルには泊まれないでしょう。そうなると、寄せ場に近い安宿に泊まっている可能性が高いと思います」


寄せ場とは日雇い労働者が集まる地域を指す。今に至る高度経済成長期に道路工事などの働き手を求めて業者が寄せ場にトラックで訪れる。働きたい人たちはその場で雇われてトラックの荷台に乗り込み、工事現場に向かうそうだ。


寄せ場の近くには安宿が多く、身元が不確かな日雇い労働者が安い料金で泊まっているはずだ。


「それもそうだな。白神のような男が泊まっていなかったか、安宿を回って調べさせよう」と島本刑事が言ってくれた。


「もちろん東京でなく、他の大都市に移動しているのかもしれませんが」


「そこは各県警に調べてもらおう」


「ついでに、白神と同じくらいの背丈の若い男で、最近いなくなった人がいないかも聞いてもらってください」


「身代わり殺人だとしたら、身代わりになった男もいたのかもしれないってことか。わかった、その点も重点的に調べよう」


このように白神が死んだのか断定できない状況だったが、仮に焼死したのが別人だったとしても、それは白神が自分を死んだことにして警察の手から逃れるためだったろう。そうであれば、私たちのような白神のことを知る人の前には二度と現れようとしないはずだ。・・・そう思うと少しは気が楽になった。


それからの日々も立花先生たちが代わる代わる送り迎えしてくれたが、徐々に私ひとりだけで登校し下校する日々が増えていった。それでも不審人物を目にすることはなく、私の緊張は緩んでいった。


そして年内の講義が終わり、クリスマスが近づいた。商店街にはクリスマスの飾り付けがなされ、どこからかクリスマス・ソングが流れてくる。日本人であれば、キリスト教徒でなくても何となく心がうきうきとしてくる期間だ。


「私の家でクリスマスパーティーをしましょう」と私は立花先生に提案した。


「と言っても料理を少しだけ作るだけなんですけど」


「その日はお兄さんは仕事が休みなのかい?」


「いいえ。クリスマスも中華料理屋にとっては稼ぎ時みたいです。その日は特別メニューとして中華風のローストターキー、つまり七面鳥の丸焼きや、ケーキ代わりの大きな月餅を作るみたいですよ。ますますキリスト教からは離れてしまいますけどね」


「それはおいしそうだね」と立花先生が言ったので私は焦った。そんな高そうな料理を用意できるわけではないからだ。


「あ、・・・うちでは普通のローストチキンと、クリームシチューと、不二家のケーキぐらいしか用意できませんけどね」


「それでも十分ご馳走だよ。ワインは僕が買って来よう。お兄さんも飲むだろ?」


「兄は夜十時過ぎに帰って来ると思います。そんな遅くまでは待てませんから、私たちは九時頃に始めませんか?」


「わかった。楽しみだね」


私も立花先生と一緒のクリスマスに(途中から兄が合流するが)うきうきしてしまい、数日前から食材を買い集めた。


さらにクリスマスプレゼントを用意する必要があることに気がついた。立花先生に贈るには何がいいんだろう?


あれこれと頭をひねってみたものの、男性にプレゼントしたことはなかったし、お金もたいして持っているわけではない。そこで月並みだけど、ネクタイを買ってプレゼントすることにした。


もちろん高いものは買えない。クリスマス前の月曜日に安い五百円程度のネクタイを、紳士服売り場で散々見て回ったあげく、最終的にダークレッドのストライプ柄のネクタイに決めた。若干色合いの違う二種類の暗赤色の縞模様で、先生が普段扱っている遺体の血液の色に近いからだった。


・・・こんな理由だと普通の人は嫌がるけど、先生は喜んでくれるだろう。


先生は普段からネクタイを締めているわけではない。学会などの出張時に使ってもらえれば嬉しい。


私は買ったネクタイを包装してもらい、プレゼント用にリボンも付けてもらった。これで準備は万端だ。後は当日料理を頑張るだけだ。


うかれながら下宿に戻り、私たちの部屋の前にたどり着いた。


「タンタンタタタン」とリズミカルにドアをノックしてから開け、「ただいま」と声をかけるが、部屋には誰もいなかった。


この日は兄が勤めている中華料理屋の定休日で、兄は朝から部屋でのんびりしていた。しかし買い物に出かける前に、「パチンコに行っているかもしれん」と兄が断っていたので、外出しているのだろう。


私は部屋に入ると、ドアに鍵をかけてから買ってきた食材を冷蔵庫にしまい、立花先生へのプレゼントを引き出しに隠した。


その時、玄関のドアをノックする音が聞こえた。「タンタンタタタン」リズミカルな音が聞こえる。


「兄ちゃん?」と私が聞くと、「おう」と兄の声が返ってきた。


このノックの仕方は他人、特に白神と兄や立花先生とを識別するための合図だった。もちろん声を聞いてからドアを開けるように注意はしている。


私はドアの鍵を開けてドアを開いた。「おかえり」


ちなみに私が家にいる時は兄は自分で鍵を開けようとしない。世帯主とはそういうものだからだそうだ。理屈がよくわからないけれど。


「・・・パチンコでボロ負けした」と兄。


「あんまり無駄遣いしないでよ」と私は小言を言って兄を招き入れた。


その瞬間、私は大変なことを忘れていたのに気がついた。・・・兄へのプレゼントを買ってなかった。


今まで、兄にクリスマスプレゼントなど買ってあげたことはなかった。去年まで高校生で、しかも受験生だったし。


しかし今年のクリスマスは立花先生も一緒で、プレゼントをあげる予定だ。兄へのプレゼントがないと、立花先生も兄も何となく気まずくなるのではないか?


部屋に戻ると私は財布を手に取って、「買い忘れたものがあったから、もう一度出かけてくるね」と兄に言った。


「おう。気をつけろよ」と言って兄は私を送り出してくれた。


そろそろ夕方だ。早く帰らないと暗くなってしまう。


私は焦りながら近所の洋装店に入ると、安いネクタイを見繕った。考えている時間がなかったので、立花先生に合わせて兄もネクタイでいいだろうと思ったからだ。


兄のネクタイは紺とシルバーのストライプ柄にした。色と柄を選んだ理由は特になく、無難なものにした。兄も普段はネクタイを締めないけど、それでもたまには背広を着る機会があるだろう。


ネクタイをプレゼント用に包んでもらい、店を出ると既にあたりは薄暗くなっていた。冬の日暮れは早い。私は不審者を警戒しつつも帰路を急いだ。


下宿に着くと例のノックをしてからドアの鍵を開ける。しかし部屋の中は真っ暗で、兄はいなかった。


「また外出したのかな?」と思ってドアの鍵を閉め、室内の電気をつける。


兄のプレゼントも、立花先生のと同様に引き出しにしまう。包装が違うので見分けはつくだろうが、当日間違えないようにしなければ。


そんなことを考えている時にドアをノックする音が聞こえた。「タンタンタタタン」いつもの合図だ。


「兄ちゃん?」と聞くと、「ん」と返事がした。そこでドアを解錠して開けると、そこには兄でなく白神が立っていた。


「!」私は叫ぼうとしたが、白神は手に持っていたタオルで私の口を押さえ、そのまま玄関の床に押し倒された。


小柄といえども男だ。白神よりさらに小柄な私の体は白神の体で押しつけられ、必死で両腕を動かして抵抗しようとしたが、相手の体を振り払うことができなかった。


白神は私の体を自分の体で押さえ続けながら、私の口元に当てたタオルの両端を私の頭の後に回してあっという間に結んでしまった。


鼻の孔は覆われていないので呼吸はできる。しかし声を出すことは叶わなかった。


「おとなしくしろ。そうすれば痛いことはしない」と白神の言葉が響く。


私の頭に回したタオルを結んだ両手で、今度は私の服の襟に手をかけた。


脱がされる?と一瞬思ったが、そうではなく、逆に私の服の襟を立てた。


「俺の実験に気づいたのが警察官や法医学者ではなく、文学部の女子大生とはな。・・・お前に最初に会った時には想像もできなかった」と話し出す白神。


「だからと言ってお前に恨みを持ったわけではないが、実験を中断させられたのは残念だ。まだ考えていた実験の半分もしてなかったからな」


実験の半分・・・。おそらく最初に考えていた十五種類の実験のうち、六件しかできなかったことを言っているのだろう。いや、松江と山梨の事件を加えたら八件か?


「勝沼町で日雇い人夫を俺の身代わりに放火して殺したことには気づいたか?」と私に聞く白神。


もちろん私は返答できなかったが、かまわずに白神は話し続けた。


「寄せ場の近くで、俺と背丈が同じくらいの、血液型が俺と同じA型の男を見つけた時は天が俺に味方したと思った。荷物運びの仕事を手伝ってほしいと偽って勝沼町まで連れて行き、途中の電車内でしこたま酒を飲ませた。酔いつぶれたやつを小屋に寝かせ、灯油をかけて火を着けた・・・」


そう話しながら白神は首に巻いていたネクタイを器用に片手で外し始めた。もう片手は私の体を押さえつけたままだ。


「ただ、解剖してほかの血液型まで細かく検査されれば、俺でないことはすぐにばれてしまうと思った。このまま逃げていても、いつかは警察に捕まるだろう」


白神は外したネクタイを私の首に回した。襟の上から。・・・私は死の恐怖で体が震えて、もはや抵抗することができなかった。


「お前には恨みはないと言ったが、それでも俺の邪魔をした罰として、最後の実験につき合ってもらおう」私の首に回したネクタイを、私の首の前で交叉させる白神。


「立花先生に聞いたことがあるのかな?絞殺される時、索状物と皮膚の間に襟や髪の毛がはさまると絞め痕が残らないことを。・・・でも、それはせいぜい首回りの一部だけだ。首にまったく絞め痕がない絞殺死体にはなかなかお目にかかれない」


そう言って白神は抵抗できない私を見下ろした。


「こんな風に襟を立ててその上からネクタイで首を絞めたら、絞め痕は残るかな?残らないかな?・・・後で捕まったとしても、その結果だけは聞いておかないとな」


白神は私の首に巻いたネクタイをゆっくりと引き始めた。

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