9 容疑者の死

「だ、誰に何を話したの?」と私はみちるさんに聞き返した。


「誰かは知らない。毎朝新聞の記者だって名乗ったけど、名前は聞いてないよ」


「その記者は男性?ちょっと小柄な人じゃなかった?」


「う〜ん、確かに父さんより背は低かったわ。大人だけど、若い人だったような」


私は立花先生と顔を合わせた。立花先生は鞄の中から学会誌を取り出すと、例の全体集合写真の中の白神の顔をみちるさんに見せた。


「この人じゃなかったかい?」


「う〜ん、この写真じゃよくわからないわ」と困惑気味のみちるさん。


島本刑事は私たち全員を居間に移動させると、


「今日みちるが会ったのは、新聞記者じゃなく殺人犯かもしれない」と言った。驚愕する奥さんとみちるさん。


「う、嘘!なんで家に来るの!?私たちも襲われるの!?」


「その恐れがある。みちる、朝学校に行く時は俺が一緒について行こう。俺がいない時は、人目がないところを避けるようにしろよ」とみちると奥さんに言う島本刑事。


「父さん、いつも朝早いじゃない!私も一緒に早起きしろって言うの?」


「お前の中学校に寄ることになるから、いつもよりもっと早く家を出ることになるな」と島本刑事に言われてみちるさんは天井を見上げていた。


「で、島本刑事に助っ人がいるってその人に言ったのよね?それって、私たちのこと?」


「そ、そうなんだけど・・・」ともじもじするみちるさん。


「父さんはいつも法医学の先生と女子大生の人に相談してるって言っちゃったの」


再び立花先生と顔を見合わせる。


「そしたらね、その記者って人が『その女子大生って、小柄な文学部の学生さんかい?』って聞いたのよ。もう既に一色さんたちを取材したと思って、『ええ、一色さんって背が低い人。でも、女子大生探偵って言われるほどに事件の謎や犯人を暴いてくれるのよ』って言っちゃった・・・」


私は天を仰いだ。これで白神は私が事件の捜査に関与していたことを知ってしまったことだろう。私が事件のすべてを解明したとはさすがに思わないだろうが(事実ではないし)、白神が事件の捜査関係者に復讐するつもりなら、私も確実にターゲットのひとりになる。


「い、一色さん!いや、千代子さん!」と突然立花先生が言って私たちは立花先生を見た。


「こうなったらすぐに僕と結婚して、一緒に暮らすことにしよう!そうすれば大学への行き帰りもずっとそばにいられる」


「まあっ!」と喜びの声を上げたのはみちるさんだった。


「情熱的なプロポーズだわ!」


「いえいえ、立花先生、お気持ちは嬉しいですけど、すぐに入籍したり、同棲することは現実問題としてできませんよ。両家に話を通す必要もあるし・・・」(註、昭和四十四年当時のお話)


「そ、そうだぞ。落ち着け、立花先生」となだめる島本刑事。「結婚なんて突然できるもんじゃないぞ」


肩を落とす立花先生。私の身の安全を思っての発言だと思うが、あまりにも突然すぎて私は照れる間もなかった。


「そ、それより、白神はどうして島本刑事の家がわかったのでしょうか?」と私は話をそらすために島本刑事に聞いた。


「輸入ワイン業者に白神のことを聞いた時に名乗ったからな。名前がわかれば電話帳から住所を調べられるだろう」(註、昭和四十四年当時の電話帳には住所も記載されていた)


「とにかくうちも気をつけるが、一色さんも立花先生も外でひとりにならないよう気をつけてくれ」と島本刑事が言った。


それから二週間は気が抜けない日々が続いた。立花先生が兄に説明してくれて、兄も心配するやら、妹(私)を危険な目に遭わすなと怒ったりするやらで大騒ぎになったが、最終的には事情を納得してくれた。


そして立花先生と相談した結果、朝は兄が大学まで私に付き添ってくれることになったが、兄は朝が早いので、私も大学へ行く時間が早くなり大変だった。


大学では学生が大勢いるのでそれほど心配はしなかったが、帰宅時は立花先生や、立花先生の従弟の兵頭部長と一緒に帰るようにしてくれた。二人が忙しい時は、ミステリ研の部員である山城先輩や神田君に付き添いを頼むこともあった。


帰りにはスーパーに買い物に寄ることがあるので、そこまで付き合ってもらい、みんなにとても迷惑をかけた。みんな、事情を知って快く協力してくれたが、知らない人に見られたら、私が毎日男を取っ替え引っ替えしているように誤解されただろう。


そんな対策を講じながら緊張する日々を過ごしていたものの、半月以上経っても何も起こらず、気が抜け始めた頃に島本刑事から連絡が入った。


いつもの小料理屋で落ち合い、すぐに「奥さんやみちるちゃんに何もありませんでしたか?」と聞いた。


「家を出るたびに不審人物がいないか注意したし、みちるも俺と一緒に登校するために今までよりかなり早く家を出なくてはならず文句たらたらだったが、幸いなことに何も危ないことはなかったよ」と島本刑事が言った。


「朝早く出なければいけなかったのは私も同じです。けっこう大変でした」


「しかしその苦労ももう必要ないよ」


「え?白神が捕まったのかい?」と聞く立花先生。


「いや。・・・白神が死んだようだ」と島本刑事が言ったので私たちは飛び上がらんばかりに驚いた。


「え!?いつ、どこで!?」と立花先生が叫ぶ。


「十日前に山梨県の勝沼町というところでだ。ブドウ畑の中の小屋で夜中に火災が発生し、焼け跡からひとりの焼死体が発見された。全身黒焦げ状態で、顔の判別は両親でもできなかったが、所持品から白神と推定された」


「なぜそんなところで?」


「白神はワインの販売の関係で、国産ワインの醸造元を時々訪れていた。国産ワインにまで手を広げようという会社の方針だったらしい。今年この近くのワインメーカーにも来たことがあったようだ。だからブドウ畑の中にその小屋があることを覚えていたんじゃかないかな」


「それより死体の状況を詳しく教えてほしい」と立花先生が聞いた。


「体は顔も胸腹部も背中も手足も真っ黒に焦げていた。小屋に置いてあった灯油をかぶって火を着けたようだ」


「生前に火災に遭遇して焼死したことを示す紅斑性熱傷や水疱性熱傷は認められなかったんですね?」と私は聞いた(第1章第12話参照)。


「うん。そして気管内に黒い煤は付着していなかった」


「火災現場に発生した黒煙を吸ってなかったのですか?生前に生じるやけどがなかったことを合わせて考えると、火災が発生する前に亡くなっていた、つまり焼死ではなかったと言うことになりませんか?」


「それが焼死で間違いないらしい。・・・まず、遺体は黒焦げになっていたけど、鼻と口の上に黒焦げになったマスクらしい残骸があったそうだ。そして血液からは一酸化炭素ヘモグロビンと灯油成分が検出されたんだ。一酸化炭素ヘモグロビン濃度は約十五パーセントと低かったけどね」


「どういうことですか?」と私は法医学の専門家である立花先生に聞いた。


「以前説明したように生きている人に重いやけどが生じると、皮膚の赤みである紅斑と水ぶくれの水疱ができる。焼死した後もすぐには鎮火しないから、体の表面はさらに熱せられて黒く炭化してしまう。しかし床に面している背中などの皮膚が焼け残っていると、そこに紅斑や水疱の痕跡が認められる」


「はい。その説明は聞きました」


「ところが灯油をかぶって火を着けると、あっという間に全身が炎で包まれて焼け焦げてしまい、紅斑や水疱が生じていても見分けられなくなるんだ。しかも火災による黒煙が発生する前に死亡してしまうから、煤はわずかしか吸い込まない。さらにマスクを付けていたら、それが煤の吸引を妨げるから、気管内に煤がまったく付着してなくてもおかしくないんだ」


「なるほど。焼死の典型的な所見が認められないことがあるんですね」


「しかしマスクでは一酸化炭素の吸引を妨げることはできない。・・・火だるま状態になったのなら一酸化炭素を吸引する時間がほとんどなかったろうから、一酸化炭素ヘモグロビン濃度が低くなるけど、検出されれば焼死の証明になる。それに火を着ける前に灯油をまけばその蒸気を肺に吸ってしまって、血液から灯油成分のパラフィン系炭化水素も検出される。これも火災が発生するまで死んでいなかったことを示す」


「一酸化炭素ヘモグロビンと灯油成分の検出によって焼死だと鑑定されたんですね。アルコールは検出されたのですか?」


「うん。血液一ミリリットルあたり一・九ミリグラムだった。けっこう飲んでるね。ちなみに遺体のそばに空のワインの瓶が落ちていたし、胃の中にはワインが溜まっていた。自殺したのなら、その前に飲んだようだね」


「前にも言ったけど、自殺する前に飲酒することはよくある」と立花先生が言った。


「ただ問題となるのが、焼死したのは誰かということさ。顔が判別できない時は血液型や歯の治療痕、その他の医学的な特徴が生前の記録と一致するか調べるんだ」


「遺体の身長は約百六十センチで、白神と同じくらいだ。指紋は焼け焦げて判別不能。白神が歯医者に通っていたかは不明で、遺体の歯には虫歯が多かった。遺体の血液型はA型で、これは白神と同じ型だ」と島本刑事が手帳を見ながら説明した。


「身長と血液型だけで白神本人と断定できますか?」


「無理だね。身長が同じくらいで血液型が同じ人はいくらでもいるからね。・・・警察はどうやって白神の遺体だと判断したのかい?」と立花先生が言った。


「小屋の隅に半分焼け残った鞄が見つかって、その中に白神の免許証と法医学会の学会誌が入っていた。その学会誌には白神の署名もあった」


「それは白神の持ち物だろうけど・・・」


「身代わり放火殺人の可能性もあるが、実際に実行できるか疑問視されている。近所には白神と同じくらいの背丈の行方不明者や浮浪者はいない。どこか別のところから連れて来るしかないけど、どこから誰を連れて来られるんだ?と山梨県警は考えて、白神本人である可能性が高いと判断しているようだ」


「それはそうだけど・・・」とまだ納得できない様子の立花先生。


「・・・遺体が白神だとして、本当に自殺したのでしょうか?」


「どういうことだい?まさか、他人に殺されたとでも?」


「そう考える根拠はありませんが、仮に自ら灯油をかけて焼身自殺をしたとして、なぜマスクを付けていたのでしょうか?まるで煤を吸わないよう図ったように」


「最後の法医学の実験かな?自分の体を使って、死因を当ててみろ、という挑戦状なのかもしれない」と島本刑事が言った。


「死んでまで実験かい?・・・とうてい理解できないけどね」と立花先生。


「立花先生が言ったように、遺体が白神本人か断言できないので、司法解剖を行った法医学教室で親子鑑定を行うそうだよ」


「親子鑑定ですか?」


「そう。白神の両親は健在だから二人から血液を採取し、遺体の血液型と比較するんだ。ABO式以外の血液型も調べて、親子関係が成り立つかどうか調べるそうだよ」


「それで本人か確認できるんですね?」と私が立花先生に聞いた。


「それは結果次第だね」と答える立花先生。私が首をかしげると、


「焼死体の血液の状態によっては検査できる血液型が限られてくる。もし遺体が白神本人でない場合、血液型による親子鑑定で否定できる場合もあれば、たまたま血液型に矛盾がない結果が出て、親子関係を否定できない場合もある」と説明してくれた。


「否定的な結果が出れば別人だと断言できますけど、そうでない場合、本人なのか他人なのか識別が難しいと言うことですか?」


「そう。否定的な結果が出ない場合、血液型の組合せから肯定確率というのを計算して、その値によってある程度判定できることもあるけどね」


「とにかく親子鑑定の結果待ちですね」


「鑑定結果が出たらすぐに君たちに報告するよ」と立花先生が言ってくれた。


それからさらに二週間が経ち、親子鑑定の結果が出たとの島本刑事からの連絡を、立花先生と兵頭部長経由で受け取った。そして兵頭部長に連れられて、法医学研究室で立花先生と島本刑事に会った。


「今、立花先生に見せていたんだけど、遺体からは五種類の血液型が検出された」


「生きている人の血液からはもっと多くの血液型が検査できるけどね、焼死体の血液は熱凝固していて、五種類検査するのがやっとだったそうだ」


「熱凝固・・・火災の熱で血液が固まってたんですね?その場合はどのようにして血液型を調べるんですか?」


「ABO式などの赤血球表面抗原の型で血液型が決まるものは、凝固血を水に溶かしてガーゼに付着させ、血痕にしてから前に説明した解離試験で検査するんだ(第1章第16話参照)。PGM1式などの赤血球酵素の血液型は、凝固血を溶かした溶液を用いて澱粉ゲル電気泳動法という方法で分析する」


「それで結果はどうだったんですか?」


「ABO式、MN式、Rh式、P式、PGM1式血液型の順に話すよ。まず遺体の血液型がA型、M型、Rhプラス型、P1型、1A型、白神の父親の血液型がO型、M型、Rhプラス型、P2型、1A−2A型、母親がA型、MN型、Rhプラス型、P1型、1A型だった」と島本刑事が手帳を見ながら言った。


私にはアルファベットと数字の羅列のように聞こえて、何が何だかわからなかった。これは専門家に聞くに限る。


「どうなんですか、立花先生?」


「遺体と白神との両親の間に親子関係の矛盾はない」と立花先生。


「でも、この結果からは遺体が白神本人とは断定できないんだ」

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