4 密室自殺の謎

「次の謎は自殺か不明な事件だよ。死んだ原因が他殺か自殺か事故か病死かの区別は、警察としては大きな問題なんだ。特に他殺と判断されたら、犯人を捜査しないといけないからね」と島本刑事が言った。


「自殺か他殺?ホームズの『ソア橋』という短編を思い出しますね」と私は言った。


「『ソア橋』とはどんな話なんだい?」と聞く島本刑事。


「ある女性がソア橋という橋の上で拳銃で撃たれて死亡しました。しかし現場に凶器の拳銃がなく、そのため夫が懸想している若い女性が犯人だと疑われるというお話です」


「確かに現場に凶器がなければ、第三者が持ち去ったと考えるね。そしてその第三者が被害者の死亡に関与している、要するに殺人犯ではないかと疑われる」


「お話ではその若い女性は犯人ではなかったとホームズが解き明かすんです。ところで司法解剖では、どのようにして自殺か他殺かを判別するのですか?」と私は立花先生に聞いた。


「例えば遺体に致命傷となるような深手の傷が見つかった時に、自傷可能か、他人でなければ傷つけられない傷なのかを見極める。前者の場合は自殺の可能性もあれば、他殺の可能性も否定できないけど、後者の場合は他殺と判断できるんだ」


「他人でなければ傷つけられない傷とはどのようなものですか?」


「背中から刃物で刺されて死亡している場合などだね。自分で自分の背中を刺せないから、他殺と考えられる」


「刃物を壁か家具に固定しておき、そこに背中を押しつければ自殺も可能でしょうけど、・・・そういうトリックを使っても現場の状況から警察に丸わかりでしょうね」


「現場を調べる捜査官や鑑識の目は節穴じゃないからね、なかなかごまかせないよ」と島本刑事が自信満々に言った。


「死亡者の利き手がどちらだったかによって自殺か他殺かを判断できることもある。胸をナイフで刺されて死亡し、凶器は床に落ちていたような事件があったとするよ。解剖して傷口の中を調べたら刺した方向がわかるけど、死亡者が右利きだったのに左手でなければ刺せない方向だと、他殺の可能性が出てくるんだ」


「左手で刺せないことはないのでしょうけど、普通は利き手を使いますね」


「それから自殺の場合、刃物で手首を切っていることがよくあるけど、死にたいと思っていても痛さへの恐怖があるから、ほとんどの自殺者はおそるおそる手首を切ることが多い。つまり、最初から深く切ることはできず、一、二度浅く切りつけ、それから思い切って深く切ることが多いんだ」


私はその様子を想像しないように努めた。


「初めにつけた浅い切り傷のことを逡巡創しゅんじゅんそう、あるいはためらい傷と呼んでいて、これがあれば自殺の可能性が高くなる」


「他殺を自殺に偽装しようと思ってわざとためらい傷のような傷をつけることは可能でしょうか?」


「可能だけど、死んだ後で傷つけても出血しないから、識別は容易だと思うよ」と立花先生が言った。


「自殺なのか他殺なのか、判断に困ったことはありませんか?」


「何か月か前の水死体の解剖であったよ」と立花先生が答えた。


また水死体?と思いながら、「どんな事件だったか教えてください」と私は頼んだ。


「その水死体には左右の手首の内側に切り傷があったんだ。左手首には浅い切り傷とやや深い切り傷の二つ、右手首には深い切り傷がひとつだけあった。ちなみにその人は生前は右利きだった」


「右手に刃物を持って左手首にまずためらい傷をつけ、次に力を入れてやや深い切り傷をつけたのでしょうね。しかし、それだけでは死に切れないと思って、左手に刃物を持ち替えて右手首も切ったのでしょうか?」


「そのように考えられるね。さらにその水死体には首の左後にも深い切り傷があったんだ」


「右手首を切ってもすぐに死にそうになく、さらに首を切ったのでしょうか?」


「そうだろうね。首の傷は頸動静脈には届かず、致命傷にはならなかった。結局その人は川に飛び込んで溺死したんだ。司法解剖では溺死の所見が認められ、手首や首の切り傷からの出血量は大したことなかった」


「最終的には自殺と判断されたのでしょうけど、途中で迷われたんですね?」


「うん。迷ったのは教授だけど、僕らも一緒に考えたんだ」と立花先生。


「首の左後の切り傷は右手では切りにくい位置にあった。だから、左手で切ったんじゃないかと思われたんだ。利き手は右手なのに、どうして右手で切らなかったのだろうか、とみんなで悩んだんだ」


「左手に刃物を持ち替えていますから、そのまま首を切ったのかもしれませんが、もう一度右手に持ち替えて首の右側を切った方がより深く傷つけられるでしょうから、確かに疑問ですね。最終的には解決したんですか?」


「うん。右手首の切り傷が深くてね、内部で深指屈筋腱しんしくっきんけん浅指屈筋腱せんしくっきんけんが切断されていた。これらの腱は指を曲げるためのものだから、切断されると指が曲げられず、右手で刃物を握れない状態だったんだ。だから利き手でない左手で首を切るしかなかったのさ」


「なるほど、わかりました。やっぱり解剖して傷の状態を確認するのが真相の究明には重要なんですね」


「そのように専門家に任せればたいていのことはわかるんだけど、こっちの事件はよくわからないんだ」と島本刑事が口をはさんだ。


「それはどんな事件ですか?」


「これは奈良県警から依頼された事件なんだ。今年の六月の雨が降っている日に、五十代の男性が自宅の自室で死亡しているのが発見された。床の上に仰向けで倒れて死んでいたんだ。遺体は右手に包丁を握っており、首の右側に切り傷があった」


「それが致命傷かい?」と立花先生が聞いた。うなずく島本刑事。


「切り傷は二本あり、一本は浅い直線状の切り傷で、皮下に達していない軽傷だった。ためらい傷と考えられる切り傷だね。もう一本はそれと平行して走る深い切り傷で、内部で頸動脈を切断し、室内は血まみれになっていた」


「頸動脈を切ると血が噴水のように噴き出すからね。凄惨な現場だったことだろう」


私は再びその状況を想像しないよう努めた。


「その部屋は、ドアにも窓にも内側から鍵がかかっていた。ドアの鍵は小さい真鍮製のかんぬきで、外からは鍵をかけたり開けたりできないものだ。窓はネジ式の鍵で閉められていた。垂れ下がっている棒状の鍵を水平に持ち上げて、穴に押し込んでネジを回して固定するタイプで、これも窓の外から開け閉めすることはできない」


「完全な密室だったんですね」


「室内には半分空になったウイスキーの瓶とグラスが置かれていて、遺体の血液中からは一ミリリットルあたり一・七ミリグラムのアルコールが検出された」


「かなり酔っていて、千鳥足になったり、ろれつが回らなくなる濃度ですね」と、私は『二人乗りオートバイ事件』の時に立花先生に聞いた酩酊の症状を思い出しながら言った。(第1章第15話参照)


「自殺の前に酒をあおることは珍しくない。酔いで恐怖心を和らげるためだろうね」


「話を聞いた限りでは完全な密室で、首にためらい傷のような切り傷と致命傷の切り傷があるから、自殺と判断されるだろうね。その事件のどこに謎があるんだい?」と立花先生が聞いた。


「一色さんが右手に包丁を持って自分の首を切るとしたら、どのように切る?」と島本刑事が私に聞いた。


「えっと、包丁の刃を首に当てて、そのまま斜め下に動かして切るでしょうね」


「そう。普通は後上から前下に向かって切るよね。刃物は引いて切るからね」


「と言うと、逆方向に切られていたのかい?」と立花先生が聞いた。


「司法解剖の執刀医はそう考えたそうだ」


「切り傷を見て切った方向がわかるのですか?」と私は立花先生に聞いた。


「うん。一色さんには刺激が強すぎる話になるけど、人の皮膚はけっこう強靭な組織だから、よく切れる刃物を使う場合でもまず刃を皮膚に強く押しつけながらスライドさせる。そのため切っていくうちに傷が徐々に深くなる。その深さの違いから切った方向がわかるんだ」


「なるほど。それで死んだ人の首の切り傷が前から後に切られていたことがわかったんですね?」


「そうなんだ。それが本当なら自殺としては不自然だ」


「ためらい傷のような浅い切り傷も同じ方向に切られていたのですか?」


「そっちはごく浅い傷なのではっきりしたことは言えないが、やはり前から後へ切ったと考えられるそうだ」


「やっぱり他殺でしょうか?」


「ところが現場は、遺体が発見されるまで密室状態だった。これでは自殺と考えざるを得ない。その矛盾をどう考えればいいのかと、奈良県警の刑事に聞かれたんだ」と島本刑事が続けた。


「発見時の状況はどうだったのですか?」


「妻と息子が同居しているけど、二人とも昼間は別々に外出していた。死んだ男性は自室にこもっていたようだ。二人は夕方頃に帰って来て、妻は夕食の準備を始め、息子は自室で音楽を聴いていたらしい。帰ってから不審な物音は聞かなかったそうだ」


「死亡指定時刻はいつ頃ですか?」


「妻と息子が帰って来た時刻の前後二時間ぐらいだそうだ」


「死後経過時間は死斑や死後硬直の程度や死体温から推定するけど、個人差があるから誤差を考えなくてはならないんだ」と立花先生が補足した。


「夕食の用意ができたのは帰宅してから三時間後だった。いつも同じ頃に用意ができるので、普段なら呼ばなくても男性が食堂に来るのに、その日は待っていても来なかった。そこで妻が男性の部屋に行ってみると、中から鍵がかかっていて、呼びかけに応答しない。妻に頼まれた息子が雨合羽を着て家の外に出て、男性の部屋を窓の外からのぞいたそうだ。室内は既に薄暗く、息子が持って来た懐中電灯で照らしてみたところ、男性が血まみれで倒れているのが見えた。あわてて一一九番通報し、到着した救急隊員が家族の了解を得てドアを蹴り破った。・・・しかし男性は既に死亡していて、確認した救急隊員が警察に通報したんだ」


「じゃあ、警察が来た時にはもうドアは開いていたんですね?」


「そうなんだ。しかしドアの内側には壊れた閂が付いていた。救急隊員の話に矛盾はなかったそうだ」


「殺人事件と仮定して、この密室の謎を一色さんはどう思う?」と立花先生が私に聞いた。


「すぐ思いつくのは、誰かに首を切られた男性が自室に逃げ込んで、身を守るために鍵をかけてから死亡したというトリックです。ルルーが書いた探偵小説の『黄色い部屋の謎』でも最初に主人公が密室の謎をそう推理するんです。すぐに誤りだったことがわかるのですが」


「奈良の事件の被害者は首を切られたために血が噴き出した。部屋の外で切られたのならその場所も血だらけになっただろう。簡単に掃除できる汚れ方じゃないから、その説は成り立たないよ」


「では機械的なトリックはどうでしょうか?ドアの鍵が閂なら、シリンダーの取っ手にループ状にした糸をかけ、釘のような引く方向を変えられるものに糸をかけて、ドアの外まで糸を伸ばします。糸のループが外れないよう気をつけてドアを閉め、外から糸を引けば、閂のシリンダーが動いて施錠できます。その後で糸は抜き取るんです。実際の現場でそれが可能だったのか、その痕跡があるのかわかりませんが」


「詳しく調べるよう言ってみよう」と島本刑事。


「家族が犯人か共犯者なら、救急隊員が警察に通報している間に窓の鍵を閉めることも可能でしょうね」


「いろいろな可能性が考えられるんだね。密室とは決めつけられないか」


「殺害方法としては、犯人が男性の背後から首に刃物を当てて、後に引いて切ったということになるだろうね。自殺の場合とは切る方向が逆だから、今回は法医学の知識がある者が犯人ではないだろう」と立花先生が言った。


「頸動脈を切ると血が噴き出すことを犯人が知っていたら、切る方向に矛盾が生じることを承知の上で、返り血を浴びないようにやむを得ず背後から首を切ったのかもしれません。それにためらい傷を偽装していますし・・・」


「・・・そう考えると、やはり法医学の知識がある者の犯行のように思われてくる」立花先生がうつむきながら言った。


「穿った見方をすれば、解剖医が切った方向に気づくか試したのかも」


「しかし、大量に血が噴き出したら、背後にいても多少は返り血を浴びるんじゃないかな?そしたら逃げる時に部屋の外にも血が着くはずだよ」


「そうですね。それを見越して雨合羽などを着て、服に血が着かないよう準備していたのかもしれません。血が付いた雨合羽は丸めて畳んでおけます」


「当日は雨が降っていたから、雨合羽を着て男性の家に行っても不審がられないね」


「この事件も法医学の知識がある者による殺人で、盛岡や神奈川の事件と同一犯だとしたら、警察庁広域重要指定事件になりかねないな」と島本刑事が言った。


「それは何ですか?」


「同一犯による複数の事件がいくつかの都道府県にまたがる場合、各地の警察が協力して捜査するように警察庁が指定するんだ。大事おおごとだよ」


「まだ、同一犯とは決めつけられないけどね」


「そうですね」と私は言って、三人で乾いた笑い声を上げた。


「ところで、殺人と決まったわけじゃないから質問するけど、死亡した男性には自殺する動機はあったのかい?」


「半年前に悪性リンパ腫と診断され、余命一年と言われていたそうだ」と島本刑事。


「自殺する動機はあったわけだね」


「自分で自殺する勇気がなければ、他人に自分を殺すよう依頼するかもしれない。家族か、あるいは居酒屋でやけ酒をあおっている時に、たまたま隣り合わせた法医学の知識がある者に」


「そして俺が楽に死なせてやると請け負ったのかい?そんな想像はしたくないな」と立花先生が言った。

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