3 桜の木の下の死体の謎

法医学者が殺人犯かもしれないという話の流れになってちょっと落ち込んだ立花先生だったが、お昼どきになったので、島本刑事の奥さんが私たちに昼食を出してくれた。


氷水に浸したそうめんが出され、私たちは小鉢にそうめんをすくい取り、刻んだみょうがやネギを載せ、つゆをかけていただいた。冷たくてさっぱりし、私たちの気持ちも落ち着いてきた。


「三時には西瓜を切りますから、それも召し上がってくださいね」と言いながら食器を片づける奥さん。


礼を言いながら、「みちるちゃんは戻って来ませんね」と私は奥さんに話しかけた。


みちるは昼は友だちとラーメンでも食べると言ってお金を持って行きましたよ。帰るのは夕食どきじゃないですか」と奥さんが答えた。


奥さんが奥に引っ込むのを待って、島本刑事がまた手帳を広げた。


「次の相談事は、桜の木の根元の土の中から死体が見つかったという話だよ」


「桜の木の下からだって?まるで梶井基次郎の『さくらの樹の下には』という短編小説のようじゃないか」と立花先生が指摘した。


その小説は私も知っている。「さくらの樹の下には屍体したいが埋まってる!」の冒頭文で有名な作品だ。探偵小説ではない。主人公は桜の美しさに不安を覚えてしまい、その理由を根元に腐った死体が埋まっているからじゃないかと想像する、美醜を対立させた詩のような文章だ。


「神奈川県警の刑事もそんなことを言っていたよ」


「どんな謎があるんですか?」


「事件を説明するよ。四月のある日、野犬が人の手首をくわえているのを通行人が見つけ、警察に通報した。どこかに死体があるんじゃないかと考えた警察官が周囲を捜索したところ、川の土手沿いに生えている大きな桜の木の根元で、土の中から手首より先がない腕が露出しているのが見つかったそうだ」


「土の中に遺体が?・・・遺体が自分で土中に潜ることはないから、誰かが埋めたんだろうね。他殺死体だったのかい?」と立花先生が聞いた。


「まだ腐敗が進んでいない、比較的新しい遺体だった。遺体を掘り起こしたけど、傷や首を絞めたような痕は見つからなかった。殺人か、少なくとも死体遺棄の可能性があったから、地元の大学の法医学教室で司法解剖された。その結果、死因は溺死と判断されたそうだ」


「溺死ですか!?土の中に埋まっていたのに!?」と私は驚いて大声を出してしまった。


「さっき言ったように致命傷はないし、死因となるような病気の所見もなかった。一方、肺は水を吸って膨らみ、一部の液体は肺の外側の胸腔内に滲み出ていた。胃の中にも水が溜まっていた」


「いずれも溺死を疑わせる所見だね。溺れて水を飲むと肺に吸い込んで窒息死するんだ。胃に大量の水を飲み込んでいることも珍しくない」と立花先生。


「さらに肺や肝臓などの臓器から淡水プランクトンが検出された」と島本刑事。


「プランクトン?」


「川や海で溺れると、水と一緒に水の中にいる微小生物のプランクトンを吸い込むんだ。肺の中にプランクトンが吸い込まれると、さらに肺の血管内に入り、血流に乗って他の臓器の血管まで運ばれる。そこで臓器を取り出して、プランクトンが存在するかどうかを調べるんだ。プランクトンが見つかれば溺れて川や海の水を吸った証明になるからね」


「どうやってプランクトンの有無を検査するんですか?」


「壊機法という方法を使うんだ。取り出した臓器を強酸で溶かすと、普通の細胞は溶けてしまう。プランクトンも溶けてしまうけど、珪藻という植物プランクトンは殻がガラス質でできていてね、酸でも溶けないんだ。どろどろに溶けた溶液を遠心分離するとその殻が試験管の底に沈む。それをプレパラートに取って顕微鏡で観察するんだ。川や海で溺死した場合は、たいていプランクトンがいくつも検出されるよ」と立花先生が説明してくれた。


「それで溺死したことが明らかになったんですね。問題は誰が何のために死体を木の根元の土の中に埋めたかということですね?」


「そう」


「死体の身元はわかったのかい?」


「うん。死んだのは近くに住む三十代の男性だった。うつ病を患っていて仕事に就けず、家の中に引きこもっていたけれど、たまに川沿いを散歩していたそうだ。川沿いに佇んでいる姿を近所の人がよく見かけていたらしい」


「うつ病って気が落ち込む病気ですね?」と私は立花先生に聞いた。


「そう。重症になると自殺する危険がある」


「自殺だったんですか?」と私は島本刑事に聞いた。


「それはわからなかった。自殺の可能性もあるし、誤って川に落ちた可能性もある。誰かに川に突き落とされて溺れたのなら他殺になるけど、遺体に突き落とされた時の痕跡が残らなければ他殺かどうか判定できない」


「なるほど。・・・なら、なぜその遺体を土に埋めたのか、その理由が不可解なんですね?」


「そうなんだよ。被害者が日頃から特定の人物ともめていたのなら、水死体が見つかった時にその人物が疑われるけど、警察が調べた限りでは死亡した男性が誰かともめていたという事実はつかめなかった。それどころか、両親以外には親しくしている友人もいなかったみたいなんだ」


「両親が怪しい、ということはなかったんですね?」


「親子でもめている様子はなかったようだ。いくら男性がうつ病だからと言って、その親が殺すだろうか?」


「人の家庭のことはわかりませんが、両親を疑う根拠が特になかったことはわかりました」


「通りがかりの人が水死体を発見したのなら警察に通報すればいい。その人は警察官から発見状況をいろいろ聞かれるだろうけど、犯人と疑われることは滅多にないよ」と島本刑事。


「仮に被害者を川に突き落とした犯人がいて、犯人自身が警察に通報したとしても、被害者を知らないとしらを切り続ければ疑われることはないだろうね」と立花先生も言った。


「ますます土に埋めた意味の謎が深まりますね。・・・桜の木の下に埋めたことに意味があるのでしょうか?」


「梶井なんとかの小説をまねたのかな?」と島本刑事。


「法医学的には特に意味がないよ。理由があるとすれば、遺体を埋めた場所を覚えやすいということかな。つまり、桜の木を墓標に見立てたのさ」


「遺体をいつか掘り返すつもりだったのでしょうか?」


「わざわざ埋めた遺体を自分で掘り返す意味があるのかな?」と島本刑事が疑問を呈した。


「・・・遺体の変化を調べたいとか」


「また法医学の知識のあるやつの実験って言うのかい?」


「さあ・・・。立花先生、遺体を土に埋めるとどうなりますか?」


「普通に腐敗して、骨になって、やがて風化するよ。・・・前にキャスパーの法則という経験則について説明したね?」(第1章第35話参照)


「はい。水中死体は地上で空気にさらされている遺体よりも腐敗するのに四倍の時間がかかると聞きました」


「地中に埋められていた遺体の腐敗はもっと遅く進み、地上の遺体の八倍の時間がかかるんだ」


「そんなにかかるんですね?」


「ただ、水中や地中の遺体は腐敗の進行が止まって、屍蝋化しろうかすることがあるけどね」


「しろうか?」


「湿気が高く空気と触れない水中や地中では、体内の脂肪が屍蝋しろうという物質に変化する。屍蝋しろうは腐らないから、遺体は白骨化せず、屍蝋化しろうか死体として残るんだ。・・・確か屍蝋化しろうか死体が最初に発見されたのは一七八九年のことだよ」


「フランス革命の年ですね?」


「パリ郊外の墓地を移転するために地面を掘り返したら、土葬された遺体が屍蝋化しろうか死体になっていたらしい」


屍蝋しろうは脂肪でできているのかい?」と島本刑事が聞いた。


「いや、屍蝋しろうの成分の一部は脂肪が鹸化けんかしたものだ。つまり石鹸のようなものだよ」


「石鹸ですか?」


「手でこすっても泡立たないけどね」


「その他の成分は?」


「オレイン酸のような不飽和脂肪酸が飽和脂肪酸という安定な物質に変化したものと考えられている」


屍蝋しろうはどのくらい時間がかかるとできるんですか?」


「数か月から数年はかかるね。ある大学の法医学教室で肉片を戸外で水槽内に沈めておくという実験をして、二年半経って確認したら、一部は屍蝋化しろうかしており、残りは腐ってなくなっていたそうだ」


「遺体を水中に沈めたり、地中に埋めたりしても、屍蝋化しろうかするかどうかはわからないのですね?」


「そう。複雑な環境条件が関与しているのだろうね」


私が黙り込むと、「まさか遺体が屍蝋化しろうかするか実験するために埋めたって言いたいのかい?」と島本刑事が私の考えを読んで言った。


「実験というには雑な条件設定だね」と立花先生が言った。


「仮に偶然見つけた水死体が地中で屍蝋化しろうかするか実験するとしたら、埋める場所の地質や湿度、そう言った条件を詳しく調べておかなければ、再現実験ができない。再現できなければ科学として証明したことにならない・・・」


「法医学の知識があると言っても科学とは言えない、行き当たりばったりの実験をその場の思いつきで実行しているのかもしれないな」と島本刑事が言った。


「少なくとも僕ならこんな雑な実験はしないよ。仮に法に触れないとしてもね」


「立花先生のことは疑ってないよ」とあわてて取り繕う島本刑事。


「立花先生、先日節子さんのお父さんから松江で起こった事件の相談を受けましたね?」と私は話題を変えた。


「え?それがどうかしたのかい?」


「何の話だい?」と島本刑事が聞き返した。


「松江のお堀である若い男性が溺死したんです。遺体が発見されたのは死後二週間くらいだったのですが、発見の数日前に被害者の自宅の玄関に被害者の血の手形が付けられました」(第1章第35話参照)


「死んだ人の手形?死んだ人が蘇って・・・ということは起こり得ないから、犯人が偽装工作したのかい?」


「そうです。犯人が自分のアリバイ工作をするために水死体の死後変化を利用したと考えられました」


「その犯人も法医学の知識があったって言うのかい?まさか今回の事件と同一犯なのか?」


「その時は被害者の友人が犯人と思われました。法医学の知識はなかった人だと思います」


「じゃあ、今回の犯人とは関係ないのか?」


「それはわかりませんが、今回の犯人が松江でアリバイ工作した人物に入れ知恵した可能性があるのかも、と思いました」


「さすがにその考えは飛躍し過ぎじゃないかい?」と立花先生が反論した。


「盛岡城址の事件はたまたま見つけた浮浪者に酒を飲まして殺害した。これは実行可能だろう。しかし同じ犯人が松江で入れ知恵したり、神奈川県の川岸を歩いていて偶然発見した水死体を桜の木の下に埋めたりしたなんて、あり得ないよ」


「それが可能だったとしたら?」と言うと、立花先生と島本刑事は目を丸くした。


「今回も殺人事件だって言うのかい?」


「人気がない時間に川岸に佇んでいた人がいます。犯人は死体の屍蝋化しろうかの実験を思いつき、被害者を川に突き落として溺死させます。上から体を押さえつけただけなら他殺の痕跡は残らなかったでしょう。その後で桜の木の下に埋めたんです。・・・もちろん、ただの想像で具体的な根拠はありませんが」


「じゃあ、松江の事件はどう思う?」と立花先生が聞いた。


「死因は溺死と判断されたと聞きましたが、けがの有無はわかりませんよね?」


「うん。節子さんのお父さんは警察関係ではないから、死因が溺死だとまた聞きしても、詳しい解剖結果は知らなかっただろう」


「被害者と友人がもみあい、被害者は頭を強く打つなどして意識を失ったとします。友人は被害者が死んだと思って動揺しますが、そこに居合わせた法医学の知識がある人が、まだ死んでない被害者を堀に沈め、もし一週間経っても発見されなければ、アリバイ工作をすればいいと友人に吹き込んだのかもしれません」


「その法医学の知識がある犯人は偶然その場に居合わせたのかな?」


「そこまではわかりません。知り合いでその場にいたのか、まったくの偶然なのか」


「偶然とは考えにくいな。その事件については相談を受けてないけど、島根県警の知り合いに尋ねてみよう」と島本刑事が言った。


「こうなると、朝聞いた凍死の事件も、同じ法医学の知識を持つ人物が関与していたような気がしてくるね」と立花先生が言った。


「さすがにそれはないだろう」と島本刑事が言って、私たちは笑いあった。

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