第27話 小笛事件の話

「立花先生、以前に下山事件で法医学者の間で自殺か他殺か論争になったというお話を聞かせてもらいましたが、ほかにもそのように専門家の間で意見が分かれた事件はあったのですか?」と、立花先生に会った時に私は聞いた。


「意見が割れるということは珍しくないけど、法医学会で大々的に論争になったのは下山事件と小笛事件ぐらいかな」と先生が言った。


「小笛事件ですか?・・・どんな事件ですか?」と私が聞くと、立花先生はまたノートを出してきた。過去の事件もよく勉強されているようで感心する。


「大正十五年六月三十日に京都市の下宿屋で経営者の平松小笛四十七歳が鴨居にかけた帯で首を吊って死んでいるのが発見されたんだ」


「今から四十年以上前の事件ですね」


「うん。さらに小笛の十七歳の養女と、知人の娘で三日前から泊まりに来ていた二人の幼児の絞殺死体も見つかった。そして机の上に残されていた遺書には、小笛が愛人である二十七歳の広川条太郎とともに子どもたちと無理心中することが、小笛の字で書かれていた」


「二十歳も年が離れた愛人ですか?その人の死体はなかったんですね?」


「そう。広川は神戸の自宅に帰っていて、当日も普通に出勤していた。小笛には頭髪や衣服の乱れなど争った形跡がなく、子どもたちを道連れに自殺したように見えたけど、不可解なことに、小笛の首には帯で絞めた痕跡『索溝』が二条も残っていたんだ」


「え?二条ですか?二度首を絞めたということでしょうか?」


「そうだね。上側の索溝(イ)は、首を吊った帯がかかっていたところで、下顎の下側から左右の耳の後ろまで帯状の圧迫痕が残っていた。そして索溝の位置に皮下出血は認められなかった」


「もうひとつの絞め痕は?」


「下側の索溝(ロ)は、のど仏の下側から左右斜め上に向かって帯状の圧迫痕が伸び、途中で消えて後頸部には痕跡がなかった。女性にははっきりしたのど仏はないけど、大体そのあたりという意味さ。そして索溝の位置に皮下出血が認められたんだ」


「二条の絞め痕があり、上側の(イ)には皮下出血がなく、下側の(ロ)には皮下出血があったんですね?」


「そう。もう少し首を吊った状況を説明すると、小笛の足は床に着いていた。また、足元には火鉢が置かれ、まな板が落ちていた」


「え?・・・足が着いた状態で首が吊れるんですか?」


「うん。まず、絞殺と首吊りについて説明しよう。どちらも索状物で首が絞まって死ぬ状態だからね」


「よろしくお願いします」


「まず、絞殺の場合、帯や紐のような索状物を首に水平に巻いて、手で引いて圧迫する。その結果気管が絞まって窒息するわけだけど、死ぬまでに五分以上かかるので、その間に顔が赤くうっ血し、絞め痕である索溝の内部には皮下出血や筋肉内出血が見られる。死亡時にけいれんを起こすと言われている。そして被害者が索状物を外そうとして指をかければ、皮膚に爪痕、いわゆる吉川線よしかわせんが見られることもあるんだ」


「顔が赤くなるのはなぜですか?」


「脳に血液を送る総頸動脈は血管壁にゴム管のような弾力性があって、首を絞めてもなかなか締まらないけれど、心臓に血液を戻す内頸静脈の血管壁は薄くて柔らかく、頸部圧迫で簡単につぶれてしまうんだ。そのため心臓から頭や顔に血液が送られるけれど、心臓に戻れないから、顔の静脈に血が貯まって赤くなるんだよ」


「絞め痕の内部に出血が生じるのは、紐などで強く圧迫されるためですか?」


「そう。特に被害者が激しく抵抗すると出血が多くなるんだ」


「絞殺の場合は頸部に水平に絞め痕が残るんですね?」


「そう。ただし索状物と頸部の皮膚との間に髪や服の襟が挟まると、その位置には索溝は生じない」


「首吊りの場合はどうですか?」


「首吊り、すなわち縊死は、帯や紐のような索状物を首にかけ、自分の体重をかけて絞めて死ぬことを言うんだ。縊死は定型的縊死と非定型的縊死に分けられる」


「定型と非定型ですか?」


「そう。定型的縊死は輪状にした索状物を首の前からかけ、足が床や地面から離れて全体重が首にかかって死ぬ典型的な首吊りのことさ。一方の非定型的縊死は、索状物のかけ方が左右不対象だったり、足先が床などに接している状態での首吊りのことだよ。足先が床に着いていても、踏ん張らずに索状物に体重をかけるようにすれば、体重の七、八割の力がかかるから、首が絞まって死ぬことができるんだ」


「定型的縊死と非定型的縊死に分けるのは、解剖所見に違いがあるからですか?」


「そうなんだ。定型的縊死も非定型的縊死も、索溝が一番低いところから左右斜め上方向に走り、徐々に浅くなって頸部を一周する前に途切れてしまうところは同じだね」


そう言って立花先生は両手の人差し指を自分の首に当てて、外側へ斜め上方向に指を動かして見せた。


「定型的縊死では全体重が首にかかるため、頸部の神経を圧迫して瞬間的に死んでしまい、顔のうっ血や頸部の皮下・筋肉内出血は見られない。一方、非定型的縊死では体重の一部しか力が頸部にかからないため、窒息して死ぬまでに数分以上かかり、絞殺と同様に顔がうっ血することがある」


「小笛さんの場合は足が床に着いていたから非定型的縊死になるんですね?」


「そう。ただ、最初に解剖を行った京大の法医学教授は、索溝(ロ)の位置に皮下出血があったことからまず絞殺され、死んだ後で首吊りに偽装して索溝(イ)が生じたと鑑定したんだ。つまり、他殺だとね」


「生前の傷には出血が生じ、死後の傷には出血が認められないからですね。それで広川と言う愛人が殺人犯と疑われたんですか?」


「うん。逮捕されて殺人罪で起訴されたんだ。ところが広川についた弁護士が司法解剖の再鑑定を求め、京大講師、大阪医大教授、東京帝大教授、九州帝大教授と警察医の五人が再鑑定をして、その結果を裁判所に提出したんだ」


「どういう結果でしたか?」


「京大講師は自殺、大阪医大教授は他殺、東京帝大教授は自殺、九州帝大教授は他殺、警察医は自殺と鑑定したんだ」


「最初の鑑定を合わせて完全に意見が二つに分かれたんですね?自殺説の根拠は何ですか?」


「索溝(イ)も(ロ)も斜め上に向かって伸びていたから、絞殺の索溝とは方向が異なり、いずれも非定型的縊死の索溝と考えられたのが主な理由だね」


「相手の首に帯をかけて斜め上に手で引っ張るのはとても困難そうですね」


「ただ、相手の後ろから近づいて首に索状物をかけ、背中に背負って索状物を引っ張れば、非定型的縊死のような首絞めができないこともないんだ。この方法を地蔵背負いと呼んでいる」


「じゃあ、非定型的縊死のようでも他殺の可能性を否定できないということですか?」


「いや、その場合は被害者の後頭部が加害者の後頭部か背中に当たり、被害者が抵抗して暴れるから、髪がくしゃくしゃになるはずなんだ。しかし小笛の頭髪は乱れていなかったから、この方法で小笛が首を絞められた可能性はまずなさそうだね」


「絞め痕が二条あったのはどう鑑定されたんですか?」


「足元に火鉢とまな板が落ちていただろ?最初、小笛は火鉢の上にまな板を置いて、不安定なその上に乗って首を吊ったんだ。この時に索溝(ロ)が生じた」


「非定型的な首吊りですね?」


「そして首が絞まって窒息が起きると体にけいれんが生じ、火鉢からまな板とともに小笛の足が床に落ちた。その際の衝撃で、首にかかっていた帯の位置がずれ、新たに索溝(イ)が生じたんだ」


「二条の絞め痕ができた理由はそれで説明がつきますが、(ロ)にだけ皮下に出血が見られたのはなぜですか?」


「索溝(ロ)の皮下は帯で圧迫されて傷が生じていた。首を吊っている時は帯による圧迫で出血が生じてなかったけど、帯がずれた時に(ロ)の位置の圧迫が外れ、まだ死に切れてなかったから(ロ)の皮下の傷から出血が生じたんだと考えられている」


「それで判決はどうなったんですか?」


「以上の六人の鑑定をまとめると、他殺を示唆する所見もあるけれど、自殺を否定する根拠にはならないとして、裁判官は無罪判決を出した。当時広川は小笛と別れたがっていた。小笛の性格が自己中心的で支配欲があったことが関係者の証言で明らかになっていたから、広川への当てつけで自殺をした可能性が否定できないと考えられた。一方、広川の性格は穏やかで、小笛の愛人になったのも小笛に迫られたからであり、殺人を起こす人物ではないと判断されたようだよ」


「小笛の養女が殺されたのはなぜでしょうか?」


「養女は心臓病を患っていて、長く生きられない体だったらしい。それを憐れんでの無理心中と考えられている」


「二人の幼児まで殺されたのはなぜですか?」


「その点ははっきりしていないけど、養女が幼児をかわいがっていたので、あの世で寂しくならないように一緒に死なせたんじゃないかという意見もあるようだね」


「無罪判決が出て、確定したのですか?」


「いや、当然検察官は控訴して、さらに二人の大学教授、長崎医大と東北帝大の教授に再鑑定を依頼した」


「その結果はどうでしたか?」


「二人とも自殺と鑑定したよ」


「それで自殺説が有力になったんですね?」


「そう。控訴審の論告で、検察官が『疑わしきは罰せず』の原則に則り、有罪の明らかな根拠がないため無罪を主張するという前代未聞のことが起こったんだ。検察官は有罪と主張するのが仕事なのにね。結局容疑者は無罪となり釈放された」


「先生はその結果で納得しますか?」と私は聞いた。


「そうだね。自殺説も他殺説もいろいろ考察を重ねているけど、絞殺された後に自殺に偽装されたとは思えないね」


「どうしてですか?」


「絞殺された痕跡がないってことに加えて、ぐったりしている死体を抱えて首を吊らせるってことはとても大変な重労働なんだ。小笛が小柄な女性だったとしてもね。そんな無理な偽装をすればどうしても死体や現場に不自然な痕跡が残るはずなんだ。例えばうまく首にかけられなくて、何条も索溝が生じたりとか、首をかけた時に帯ごと体が大きく揺れて、鴨居にかけていた帯の位置がずれた痕跡ができたりとかね。そういうところは警察も見逃さないよ」


「そんな痕跡がなかったから、自殺で間違いないと思われるんですね」


「まあ、そうだね」


「それにしても大勢の法医学者、それも大学教授が鑑定をして、異なる意見が出たのは驚きです」


「死体を解剖して見られた所見をどう解釈するかは難しい問題だからね」と立花先生が言った。


「生きている時の傷には出血が生じ、死体の傷には出血が認められない、というのが原則だ」


「でも、下山事件の話で教えていただいたように、心臓が一瞬で潰れれば生前の傷でも出血が生じないことがあるんですね」


「そう。そして生きている時に首を吊っても、索溝の皮下に出血は生じない。しかし死ぬ前に索状物が外れれば出血が起こる。・・・このように死亡時の状況をいろいろ仮定して、どれが最も妥当かを考えなければならないから、通常と違う痕跡が見られる場合の鑑定は難しくなるんだ」


「改めて大変なお仕事だと感心しました」


「そう言ってもらえると同じ法医学者として嬉しく思うよ。・・・ところで崇から聞いたんだけど、兄と節子さんの披露宴に着ていくもので悩んでいるんだって?」


「え、ええ、そうです。今年の三月まで高校生だったので、披露宴に着ていけるような礼服や外出着がなくて・・・」


「なら、今度の休日に一緒に買いに出かけようよ。もちろん代金はこちらで払うよ」


「そ、そんな!さすがにそこまでしてもらえません!」


「いや、いや。立花家の都合で出席をお願いしてるんだ。両親からも一色さんに負担をかけないようにって言われてるんだ」


「わ、私の服なのでお金はいただけません」


「じゃあ、とりあえず服代を僕が立て替えるということでどうかな?後で、いつでも返してもらえばいいから」


「は、はい。それなら・・・」


「じゃあ決まりだね」


「ただ、自分でもどういう服を着ていけばいいかよくわからなくて」と私は困っていることを言った。


「お店の店員さんの意見を聞けばいいんじゃないかな?」


「そうですね。それと、ミステリ研の女性部員にもう一度聞いてみます」


翌日、ミステリ研の部室に来た美波副部長、田辺先輩と仲野さんに改めて披露宴に何を着ていけばいいか相談した。


「振袖はどう?持ってない?」と聞く田辺先輩。


「持ってません。着付けも難しそうだし」


「まず、前にも言ったけど、全身まっ白はだめよ。ウェディングドレスみたいだから、花嫁への当てつけと思われちゃうわ」と美波副部長。


「全身真っ黒もだめですね。お葬式みたいだから」と仲野さん。


「黒い服でも違う色の肩掛けとかかければ大丈夫じゃない?」と田辺先輩が言った。


「でも、どんな服が売られていてどれが似合うか、実際にお店で一色さんの体に合わせてみないとはっきりしたことは言えないわね」


「じゃあ、もし時間があればみんなで一色さんの服選びにつき合わない?」と美波副部長が言ってみんなで盛り上がっていた。・・・どうなるんだろう?

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