第8話
島田涼真が気が付いたのは、転落事故の半年後の病院のベッドの上だった。
医師に名前を訊かれたが、思い出せず答えられなかったので、仮の名前を海野博夫とした。
一週間後、体力が戻り退院し、仕事が見つかるまでという条件で生活保護を受けることが許され、アパートを宛がわれた。
それから仕事を探しに歩いて数週間が経っていた。
偶々昼飯を食べに入った山内食堂という店で人を募集しているのに気が付いて、食後、自分の事情を話し「記憶が戻ったら辞めるかもしれない」と言った上で雇って貰えないか訊くと、「それでも良いよ」と言ってくれた。
そこは60歳位の夫婦がやっていて、20代のOLをしている娘がいる。
俺はそこで半年働いて生活保護を断った。記憶はもう戻らないのではと思い始めていた。
娘の沙希は海野の好みのタイプでもあったし、沙希も自分を好いてくれているようで、いつの間にか仲良くなっていた。
働き始めてから1年を過ぎるころ、沙希が付き合いたいと告白してくれたのだが、自分には事情があるから付き合えないと断った。しかし、沙希にそれでもいいから、記憶が戻るまでの間でもいいから、付き合おうと言われ、頷いた。
ご両親も沙希から聞いたのだろう、俺が沙希と一緒になって店を継いでくれたら思い残すことはない、孫でも抱いてのんびり暮らしたいと言うようなことを口にするようになっていて、自分も過去を忘れたままで良いと思い始めていた。
その半年後の天気が良く暖かい日曜日、陽気に誘われて沙希と海岸線の散歩に出た。
釣り人が何人もいて釣り上げた魚が太陽に照らされてキラキラ銀色に輝いている。それを見た沙希が「自分もやってみたいなぁ」と言う。「俺もやったことはないけど、楽しそうだなぁ。次の休みに釣具屋に行ってみようか」俺は、沙希と同じ趣味を持つことは良いことだなと思ってそう言ったのだった。
そんな話をしていると、テトラポットの上をふらふら歩いている人に気が付いて、「危ないなぁ」と沙希と喋っていると、急に姿が消えた。周りの人が海中を指さして叫んでいる。
海野は落ちたと思って走って行くと、溺れて助けてと叫んでいる。男性だった。誰かが、酒なんか飲みながらふらふらしてるからよと話している。周りにいるのは老人や女性に子供、若者はいなかったので自分が助けに入るしかないと思い辺りを見回した。
「沙希!俺、助けに海に入るから海上保安庁に電話してくれ!」そう叫んで目に入った誰かの保冷庫を空にして手に持ち、傍にあったペットボトルを2本からにして上着の中へ入れ、上着をズボンの中に入れてベルトをきつく締めてからテトラポットを乗り越え海に入った。
沙希は心配そうに「気をつけてねぇ!」と叫んでいた。
男性は20メートルほど先まで流されていて、必死に泳いで傍まで行って保冷庫を掴まらせた。
そして男にバタ足をさせ、自分も保冷庫を前側から掴んで後ろ向きに泳いで岸へと引っ張った。
どの位そうしていたかは分からないが、なかなか岸に近づけなくて苦しくて体力の限界だと思い始めた頃、岸まではまだ10メートル位はあっただろうか、誰かがロープを投げてよこした。少し外れたが、そこまで泳いでロープを掴み、溺れている男の身体に巻き付け、手をあげて「引っ張れ!」と叫んだ。
それから10分ほどして無事に男性を浜に上げることができた。救急車が到着していた。海野は、男性が自発呼吸をしていたのでほっとしたら、疲れが一気に身体を貫いて意識を失った。
気付いたのは病院のベッドの上のようだった。
沙希が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫?博夫」と言われたが、返事をしなかった。
また同じ名前を呼ぶので「俺、涼真だよ」って笑って言ったら、沙希がびっくりした顔になって、「思い出したの?」と叫んだ。そうだ、記憶が戻ったんだと気が付いた。「俺は島田涼真、妻は紗良、娘は真帆」そう言うと、沙希は泣き出して病室を飛び出していった。別れの時が迫ってきたのだった。
退院後、自分はどうしたら良いのか悩んだ。紗良にはすぐにでも会いたい、しかし、沙希とは離れがたい。それほど沙希を愛してしまった。
沙希と日曜日に海へ行って、テトラポットに並んで腰を下ろし「なぁ沙希、記憶が戻ってしまった。でも、自分がどうしたいのか分からないんだ」そう俺は正直な気持ちを話した。
「博夫、私はずっと一緒にいて欲しいよ。でも、最初の約束は記憶が戻るまでだったから・・・」
沙希は唇を強く噛みしめて涙をこらえながら、無理した明るい声で「・・・それに、真帆ちゃん、可愛いんでしょ?いくつ?」と訊く。
「ああ、12歳かなぁ・・・可愛いんだ、ぱぱ、ぱぱって」
「待ってるんじゃないの?ぱぱを」俺の顔を覗き込むように沙希が言う。
「どうかなぁ?もう忘れられてるかも・・・」俺がそう言うと「あ~あ、私も博夫の子供産めばよかった。そしたら対抗できたかもね・・・」沙希は寂しそうな笑顔を浮かべている。その言葉が俺の胸に強く刺さって、自分の進むべき方向を教えてくれた。
「沙希っ!」思わずそう叫んで沙希を抱きしめた。
「ありがとう、子供の所へ帰るのは父親の使命だよな・・・沙希!ごめん」
「いいよ、私も新しい彼氏見つけるからさ・・・」沙希はそう言って俺に抱きついて声を上げて泣いた。
俺も一層力を込めて沙希を抱きしめた。
そしてしばらくの間二人で海を眺めていた。日が傾いて空や海がオレンジ色に染まり始めたころ、どちらからともなく手を繋いで家へと足を向けた。
夜、頭に真帆の可愛い笑顔が浮かんだ。愛しい。直ぐにでも抱きしめたかった。
朝、世話になった夫婦に別れの挨拶に行き、大都城市に戻ると告げた。
夫婦は沙希から話を聞いていたようで、文句ひとつ言わず笑顔で頷いて「元気でな。今度は家族で遊びにおいでよ」と涙交じりに言ってくれた。嬉しかった。
沙希にさよならを言ってなかったのが心残りだった。電車に乗ろうとホームに立っていると、沙希が走って来た。
「これ、最後のお弁当。途中で食べて」沙希はこれまでに見せたことの無い、素敵な微笑みを浮かべながら紙袋を渡してくれた。
「ありがとう。沙希!お世話になりました。さようなら!」いつの間にか俺の頬を幾筋もの涙が流れていた。
「さよなら!元気で、幸せになってね!」俺を見つめ、そう言った沙希は、その微笑みのまま振り返って走って行った。きっと涙を見せたくなかったのだろう、いい娘だ、そう思い涙が止まらなかった。
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