第二話 未華子との出会い

 その中堅ホテルは、碁盤の目のような通りに面していた。周辺は高層ビルが立ち並ぶビジネス街だった。そのため、毎年三月になると、人事異動の時期に入るので、送別会の予約が集中することになる。それが一段落すると、今度は新入社員と部課長クラスの歓迎会の予約が入ってくるため、宿泊や宴会の準備で忙しくなった。


 ホテル内の飲食店は二店舗あった。一つはビュッフェスタイルの洋食レストランで、もう一つは四川料理の店。当然ながら、二店舗とも年末年始を除いて年中無休で営業していた。予約してくる客の六割方は、善幸が勤めている【四川料理 翔龍】の店だった。

 このホテルは、挙式を行うための設備は整っていないので、披露宴を目的とする客層を取り込もうとは思っていない。その代り、ビジネスを目的とする宴会の需要は十分にあった。


善幸がこの店で働くようになった切っ掛けは、ここに来る前に四ヶ月ほど勤めていた【和食処 悠の里】の親方の紹介だった。彼は、その店で板前の見習いとして働いていた。



 親方は【急募! 板前 見習い】の広告を、駅前の掲示板に貼り出していた。

 その頃、善幸は職を探していた。これまで、彼は一旦働いてみるものの、その仕事に興味が持てないと判断すると後先のことなど考えずに辞めてしまう。その後、別な仕事を探しはじめるわけだが、結局、また同じ理由で辞めてしまい、転職を繰り返すことになってしまうのだ。しかし、彼にとって転職なんてもんは何の躊躇もなくやれることだった。


 仕事を探していた善幸は、最寄りの駅にあった掲示板の求人広告を偶々目にした。アパートに帰るため改札口を出ると、否応なく飛び込んで来た〝急募!〟の二文字。グッドタイミングだった。


 善幸は、飲食業の仕事には今まで就いたことはなかっただけに好奇心も手伝って、書き慣れた履歴書をポケットに忍ばせ、次の日、様子を窺うつもりで、アポイントもとらずにその店へと向かった。


 商店街通りの桜の木は生い茂り、電柱を上半分ほど隠している。歩道脇のツツジの植え込みも通行人の邪魔をしているようだ。


 人通りが増してくる夕暮れ時、善幸は店の暖簾が外されている入口の引き戸を開けた。すると、奥の客席に座って雑誌を読んでいた店員が、草履が踵にくっ付く音を伴いながら小走りで近寄ってきた。


「あ、すみませーん、五時半からなんですぅ……」


 人里離れた山の中腹を駆け巡る野うさぎ、何処にでもいそうな二十歳前後の女の子が笑顔で応えた。客と間違えたようだ。これが善幸と未華子との初めての出会いだった。


「あのぅ、求人広告をみて来たんですけど……」店内の照明を消している分、善幸の声音も悄気込んでしまった。


「ああ、はい」

 彼女は、善幸を待たせたまま厨房へ入っていった。


 厨房から出てきたのは、元気の良さそうなお爺さん。親方に間違いなさそうだ。


 親方は、タオルで手を拭きながら近づいて来た。何も言わず、四人掛けのテーブル席へ、睨みつけるような目と人差し指で(座れっ)と指示を出した。客のいない物静かな店で二人は向かい合った。


 善幸は、黙って履歴書を親方の目の前に差し出した。親方は、履歴書には触れず、腕を組んだ状態で質問していく。「住まいは何処か?」との質問に「近くです。自転車で十分ちょっとかなぁ……」と答えると、「飲食店の仕事をしたことはあるのか?」これに関しては首を横に振った。

 この後、親方は黙ってしまった。しかし、お互い、目は合わせている。善幸は寸分も目を逸らさずにいた。その間も、もともと口数は少ない方なので、自分から質問することはなかった。

 善幸は瞳の奥を覗かれているような気がした。気まずい空気が流れた……。


 すると、突然、親方が胸を突く声振りで、


「やってみるかっ!」


「あっ、はい!」


 勢いで元気よく返事をしてしまったものの、やる気があるのかないのか、自分でもわからなかった。しかし現在金欠状態でもあり、取り敢えずやってみることにした。興味が湧かなければ辞めてしまえばいい、そんな軽い気持ちで働いてみようと思ったのだ。


“♪ 静かな湖畔の森の影から~” ひゅーっと針を付けていない釣り糸を投げ込み、奥の座敷で〝浮き〟に見入っていた未華子がお茶を運んできた。

 未華子は、一緒に働くことが決まったのだから、どんな人かなと相手のことが気になっているようだった。


 彼女は、湯呑みを一旦テーブルの端に置くと、善幸の顔を見据えながら、すうっと手許に差し出した。

 善幸は「どうも」とも言わず、会釈さえしない。彼女にしてみれば、まるで、(おまえには用がないから、あっちへ行ってろ!)とでも言われているかのように思われてしまったかもしれない。

 彼女はその態度に釈然としなかったようで、突と睨みつけながら一歩、二歩と、それでも二人の様子が窺えるテーブル席まで下がり、椅子に腰かけた。


 親方は、善幸との寸詰まりの話が済んだ後に、漸く封筒から履歴書を取り出した。


「ヨシユキっていうんだな、ほおー、いい名前だなあ~」


 やっと親方の顔が綻んだ。その表情を見て、善幸も高まった緊張が和らぐ。採用の合否まで、時間にすれば十分と経ってやしなかった。まるで親しい知人の伝手で来たかのようだった。


 一切合切省いてしまった面接が済むと、善幸は給料がいくらなのかを知らされぬまま、早速明日から働くことになってしまった。


 ところがその四ヶ月後、予期せぬ出来事が起こった。親方が厨房で寒鰤を捌いていた時、突然呻き声を出すと、胸を押さえながら蹲った。善幸は慌てて救急車を呼ぶと、そのまま入院となってしまったのだ。


 善幸は、医者から肝硬変が手に負えない段階まで進行していることを後になって未華子から聞かされたのだった。

                                 ―つづく―

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