『レコード盤に針を落とす時』

トントン03

第一話 プロローグ   あの日のデートを振り返る


 ―悩み事を消し去るために―


 生まれて此の方、デートなどしたことがない未華子だった。初めてのデートは、ちょうど一年前のこの日……。



 まだ陽が沈むのには早い時刻。未華子は空を見上げた。太陽が沈む方向へ視線を向ける――。

 しかし、その居場所を確認することはできなかった。


 今日、未華子は“あの日、あの時”と同じ寒空の下で一人ベンチに座っている。違うのは、善幸≪よしゆき≫がこの場に居ないことだけだった。 

 未華子はそれを訝しがる。ひょっとしたら、疎らな人陰に紛れて彼がこっちを覗き見をしているのではないか? と妄想してしまったからだった。


 もう一つ違うことがあった。それは、今居るこの公園は無風状態だということだ。全く風が吹いていない。今、あの日と同じベンチに座っているが、その時は彼が隣に座ってくれてたので、風が当たってもその分体温を奪われることはなかった。だから、今日のこの無風状態の寒さは、あの時と同じだった。


 未華子は、ちょうど一年前のデートした経路に、二人の痕跡が残っていないかを確認するため、これから同じルートを辿って行こうとしていた。



 未華子は、今、座っている位置から50メートル先の氷川丸を眺めている……。

 その光景を、ジョギングしている人たちが邪魔をして行った。老若男女を問わず健康そうな人たちばかりだ。晴れの日だったら、夕陽を正面から浴びているランナーは、いつも物事に前向きで、背に浴びているランナーは悩み事を解決してくれるためのエネルギーをもらっているかのように思えてならなかった。しかし、未華子にとっての今日の山下公園は何も語り掛けてはこなかった。今、沖合で汽笛が鳴った。



 待てど、善幸からの連絡はなかった。彼と知り合ったのは、未華子がアルバイトで働いていた個人経営の日本料理店だった。

 その店のメニューに書かれているものは、在り来たりなものばかりではあるけれど、納得のいく逸品ばかりで、近隣の常連さんの憩いの場でもあった。

 その店へ突然やってきたのが倉持善幸だった。彼は、最寄りの駅前の掲示板に貼ってあった【急募! 板前 見習い】、これを見て面接にやって来た。

 働き始めた頃は、やる気があるのかないのか釈然としない働きぶりだったけれど、ひと月も経たないうちに、魚の捌き方に興味を示すようになる。彼は、次第に和食料理人としてやって行こうとの気持ちを固めつつあるように思えた。


 そんな善幸とデートしたのは、働き始めてから三ケ月後のこと。切っ掛けを作ったのは未華子の方からだった。

 未華子としては、結果的にさり気なく誘えたけれど、その時のドキドキ感は尋常ではなかった。今でも、あの時の会話のやり取りを鮮明に憶えている。彼は、三つ年上の二十三歳だった。


 店の休みは月曜日。専門学校に通っている未華子は、店の仕事が二十三時で閉店した後、善幸と一緒に自転車で帰る途中、

「あたし、再来週の月曜日、学校が休みなんだあ……」と、甘えるような声で誘ってみた。

 彼は、別段断る理由もないらしく承諾してくれた。彼のアパートは、彼女の自宅から一キロメートルほど先に行ったところにあった。


 未華子は、アルバイトと言う立場でありながら、家族のように接してくれている親方やパートの酒井のおばちゃんとは既に信頼関係を築いていた。それゆえ、身の回りで起こったことは何でも話してしまう。善幸とデートの約束をした翌日、その話を聞かされた親方は、勉強も兼ねて一緒に食事をしてくるようにと、一人息子である〝悠〟が料理長をしている四川料理の店を紹介してくれた。また、おばちゃんからは、「デートなんだからさあ、足を延ばして横浜っていうのはどう? あたしが若い頃ね、デートした場所なんだけどさ、【港の見える丘公園】っていう夜景がとっても綺麗なところがあるのよぉ、ねえ……?」と、半強制的にそこを勧めてきた。これで、二人のデートコースはあらかた決まってしまったのだった。


 未華子は、初デートの日が来るのを愉しみに待っていた。


 しかし……。




 ―デートなんて、そんなもの―


 当日の二人のデートは、善幸のよもやま話に未華子の身の上話で、いつの間にか時間が過ぎていった。〝愉しい時間〟って、あっという間に過ぎ去って行くもの。デートなのだから……。

 だが、未華子は、このデートで二人の関係は深まった、と思っている。善幸もきっとそう感じてくれたに違いない。いや、無理やりそう思い込もうとしていたのかもしれなかった。


 そんなデートをした翌日、未華子は善幸より早く店に行った。

 その三十分後、彼がやって来た。

「善くん、おはよう」と未華子は声を掛ける。

 彼も、「おはよう」と返してきた。

 朝の挨拶をしただけだった。その後の彼との会話は一切無かった。と言うより、声を掛けても「了解」、「上がったよ」程度の、なんとも必要最小限の味気ない返事ばかりだった。


 仕事に関しては、それだけで十分。何の支障もない、のだけれど……。しかし不可解なことに、デートした翌日から、接し方に関しても、これまでの様なしっくり感が全く無くなってしまったのだ。


 仕事が終わり、帰る方向が同じなので、いつものように自転車に跨り酒井のおばちゃんと三人で店を出る。

 一つ目の信号でおばちゃんと別れ、二人は縦列で走って行く――。


 途中、「ねえ、ねえ、善くーんっ、昨日の【港の見える丘公園】からの夜景、綺麗だったよね?」などと、昨日のデートの話を振ったとしたら、果たしてそこから弾んだ会話になったのだろうか……。未華子は、話す切っ掛けが掴めないでいた。

 彼女は、突然、なぜこんな関係になってしまったのかを突き止めようと、善幸の背中を見つめながら走っていた。もしかして、気の所為なのだろうか。


 突然、善幸がちらっと後ろを振り向いた。と、急にスピードを上げた。咄嗟に彼女もペダルに力を加える。前方の信号が黄色に変わった。 

 その交差点を通過してから、彼のこの行動を分析してみた。きっと、彼は、横断歩道用信号機の点滅を見て、急げば赤になる前にこの交差点を通過できるだろうと判断したのだ。間違いなくこの分析は当たっていると思う。彼のこの行動は、反射的なものなのだろう。けれど、ちょっと違うのではないのか? 信号機で一旦停止したくないという思いがあったのではないだろうか。前方の背中を見つめながら考えてみる――。どうやら、そこへ行きついてしまったようだ。


 いや、思い過ごしなのかもしれない、そう思いながら、未華子は今日一日の彼の接し方を思い返してみた。

 朝から突っ慳貪な彼の態度が目についた。結局、会話をしたくない、今度はそこに行きついてしまったのだ。未華子の悩みは深まっていった。


 他にもデートを境に、彼の態度変化が感じ取れた。それは親方の指示に従い、忠誠を誓ったかのようにテキパキと仕事をこなしている姿だった。


 そんな日々が一ヶ月ほど続いただろうか。

 その後、予期せぬ出来事が起こった。頗る元気そうに見えた親方が、突然倒れてしまったのだ。救急車で運ばれ、即入院する破目になり成り行きから店を閉めることになってしまった。


 善幸は、閉店の明け渡し作業が終わり次第、次の仕事先として、親方の知り合いの店で見習いとして働くことになった。

 未華子は、取り敢えず、駅前のコンビニでアルバイトとして働くことにした。


 善幸は、閉店の為の明け渡し作業を終えた最後の日に「じゃあな……」と、未華子にはもう会わないかのような無機質な一言を残し、去って行ってしまったのだ。


 

 それから、時が経つにつれ、彼とはきっとあの日が最初で最後のデートだったんだと思い込み、すべてを終わらせようとする気持ちが頭を擡げてきた。けれど、そう決めつけようとしているだけで、踏ん切りを付けるまでには至っていなかった。なぜなら、あれだけ親方に対し忠実だった善くん……。絶対にいい加減な奴なんかじゃない! そんな想いが未華子の深奥にあるからだった。



 未華子は、彼からの連絡を待ち続けた。もしかしたら、最寄りの駅が同じなのだから、駅前でバッタリと会うかもしれない、あたしが毎日働いているコンビニに立ち寄ってくれるかもしれない、そんな些細な偶然の出来事をも願っていた。


 結局、閉店し「じゃあな……」といって去っていった日から一ヶ月、そして半年が過ぎても善幸からの連絡も偶然の出会いもなかった。


「もう、嫌いだよ、大っ嫌いだっ!」などと思い悩んだ末、でも気を取り直し「もしかしたら……」まだそんな期待を抱いてしまう自分がいて、連絡してみようか……との想いが昂ったこともあった。

 未華子は電話での出だしも考えていた。「善くん? 善くんなの? 久しぶり~、元気でやってる? 早く一端の料理人になってよね。そしたらさ、あたし、会ってあげてもいいけど?」これでいこうと……。でも、そんな図々しい言い方などできるはずもなかった。況してや「善くんさ、今、彼女が居ないんだったら、あたしと〝あの日〟からの続きをはじめてみる気はない?」こんな愛嬌のある一言がすらっと言えたとしたら、これほど想い煩うことはなかったのだろうと思う。


〝一年前のこの日〟に彼から買ってもらったトートバックは、未使用の状態で部屋の片隅に置いてあった。



 未華子は、自分からは連絡しない、と心に決めていた。というより、その〝資格〟が自分にはなかった。

「善くん、あたしと一緒に生きて行こう……ね?」と、切り出せない絶対的な理由があるからだった。


 今考えれば、あのデートの日、〝すべて〟を一気に話してしまったことがいけなかったんだと思う。それは、彼にして見れば、余りにも重たい話ばかりだったから。

 なぜ、話してしまったのだろう。善くんならきっと……。

 

 まだ一年しか経っていないというのに(それとも、もう一年なのだろうか)日増しに遣り切れない想いが募っていった。



 未華子は、今更と思いつつも、デートした翌日から善幸との会話が間遠になっていった原因を突き止めようと、諦めが付くのか付かないのか、その辺りの憂いを抱え込んだまま〝あの日のデート〟で、この後向かった【港の見える丘公園】へ、ちょうど一年後の今日、一人重い足取りで行こうとしていた。

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