第3話
幸いなことに、新見さんと堀田さんが私に話しかけてくると言うことは、教室に入ってから一日を通して、全くなかった。二人のあの雰囲気を考えると、絶対にどこかで話しかけて来そうなものだと思っていた。だから、それが却って不気味なものである。
とにかく私は、今日と言う日を、いつも通り
ただ、私が授業に身が入っていたかどうかと言うと、正直全く身が入ってなかった。私の頭の中は、黒瀬くんのことでいっぱいだったのだ。「二度と、来ないで」。あの時の鋭い目つきは、何時間経った後でも鮮明に思い出せる。目を瞑れば、あの鮮やかな闇が私を突き刺してくるのだ。
額面通りに受け取ってしまえば、彼にとっては私になんかもう会いたくはないだろう。だから、私はもう彼には会わない。……という訳にはいかなかった。彼の言葉通り、二度と美術準備室に行かなければ、何もなかったことになる。つまりそれは、私は何も見なかったことにする、ということだ。しかし、私は何事もなかったかのように彼の絵を、彼のことを綺麗さっぱり忘れられるほど器用ではなかった。社会的に見ても、美術準備室に閉じ籠っている彼の今の状態は不健全と言える。そうでなくとも、彼が閉じ籠っているのを指を咥えて見ているのは、私としても寂しい。
第一、彼の絵は、美術準備室という小さな世界で完結してしまうには惜しいのだ。きっとあの少女の絵も、あの状況でなければ、呪いだなんだと囃し立てられずに評価されていたに違いない。
それは、お節介かもしれない。自己満足かもしれない。それでも私は……彼のことが心配なのだ。
放課後。私は、肩で息をしながら、美術準備室の前に立っていた。
また、ゆっくりとドアを開ける。空気の重苦しさというよりは、彼の存在そのものが電撃のようにビリビリとした緊張をもたらした。自然と、心臓の鼓動も速くなっていく。
そうして、今朝のときと同じように、あの掃除用具入れに近づいた。今朝感じたあの鋭い視線が、また私を突き刺す。それでも私は、努めて怯まないように、そんな素振りを見せないように、彼に声を掛けた。
「……今朝はごめんなさい。その、嗅ぎ付けるような真似をしてしまって。でも、ね。黒瀬くんのことが知りたいの! 良かったら、話をしましょう?」
しばらくした後、彼の低い声が返ってきた。
「ボクは別にしたくない。来ないでって、言ったよね」
あからさまに怒りの表情を見せた声色だった。しかし、元からそういう声質だからなのか、どこか霞むような、消え入るような儚さを感じさせる声色であるようにも思える。
「ごめん。でもね、私は黒瀬くんと仲良くなりたいの。無理にあなたをどうこうしようとは思ってないわ。ただ、仲良くなりたいだけ。……ダメかな?」
そう言って、掃除用具入れに向かって微笑みかけた。内心、彼の怒りに
しかし、思いの外あっけなく、扉がゆっくりと開かれた。黒瀬くんが訝し気な表情をしながらも、掃除用具入れの中から現れたのだった。
彼は、無言でソファーに腰掛けた。少し掃除用具入れに近い側に座っていたので、恐る恐る私は空いている方に座った。
ただ、そうは言っても、いざとなって彼に掛ける言葉が見つからない。本当は彼に聞きたいことがたくさんあるのに、彼の気持ちを慮ると、出てくる言葉は尽く喉につっかえてしまう。凍り付くような沈黙で部屋が満たされていた。
そうしている間にも、ただ時間は流れていく。私は、意を決して黒瀬くんに声を掛けた。
「ねえ。黒瀬くんは、どうして美術準備室なんかに篭ってるの?」
しばらくしてから、彼は答えた。
「今朝言ったでしょ。アンタみたいなのに、会いたくないから」
「それはっ、そうなんだけど……。じゃなくて、どうしてここにこだわってるのかなって。教室に行きにくかったら、保健室に行く、っていうこともできるのよ?」
やはり、彼はしばらく黙してから、間をおいて口を開く。
「絵が、描きたいから」
「絵なら、ここじゃなくても描けるじゃない」
「描けない」
今度は即答だった。何か確信したような、いや、確信するまでもなく、さもそれが当然だと言わんばかりに彼は「描けない」と言った。
「え?」
私は、つい聞き返してしまう。しかし、それへの返事はないままだった。彼はさっきまでのように、静かなままだ。
重い沈黙に耐え切れず、私はつい繕うように、話を深堀りする。
「ええと。保健室でも必要なら色鉛筆とか貸してくれると思うけど。あ、絵の具とかを使いたかったのかな。あの絵も確か、油絵……? を使ってたものね」
「……」
「あの、えっと。うぅ……」
私が一方的に喋っているばかりで、彼は一向に喋る気配がない。余計に気まずくなって、私は項垂れてしまった。
すると、黒瀬くんがチラリとこちらを見た気配がした。顔は正面を向いたまま、視線だけをこちらに渡している。深い闇色の瞳が、こちらを見つめている……。
しかし、彼はすぐにその視線を正面に戻した。それから、彼はゆっくりと口を開いた。
「別に。ただ一人で絵を描いていればよかった。ただ、一人で、静かに、絵を描いていれればよかったのに。結局、アンタみたいなのが来ちゃったけど」
「そっか……。それは、申し訳ないことをしちゃったかな」
私が、そう恐縮して口に出した言葉に対して、
「別に」
と、興味なさげな、淡白な声で彼は答えた。
……この「別に」が、実はそれほど迷惑に思っていないという意味を表しているように聞こえるのは、私が都合よく捉え過ぎなだけなのだろうか。彼は、本当は、他人を拒絶しながらも、どこかで寂しさを抱えているのではないのだろうか。
「ねえ、黒瀬くん。でもあなたは、もし誰にも見つからなかったら、ずっとここで絵を描き続けるつもりだったの?」
「なに。また説教するつもり」
「でも。あなたにとって大事なことよ。私は、こんなのは良くないと思うな……」
「誰にも迷惑なんてかけてないんだから、好きにさせてよ」
「あなたが見ていないだけで、実際には困っている人が居るかもしれないでしょ。それに……」
そう言って、私は彼に体を向けた。彼は突然のことに驚きつつも、私の方に顔を向けた。そんな彼の目を、私は見据えながら、彼に諭した。
「あなたは、自分自身に迷惑をかけているのよ」
「……は?」
「あなたは望んでこの場所にいるのかもしれない。でも、それが結果的にあなた自身を傷付けているのよ。実際、黒瀬くんは、他人から身を潜めながら絵を描いていたでしょ? ……」
辛いことから逃げていたはずなのに、実はそれが徐々に自分を追い詰めることになってしまう。ただ逃げて逃げて、ひたすら逃げてを繰り返しているうちに、その逃げ場がなくなってしまうのだ。黒瀬くんは、美術準備室という袋小路に迷い込んでしまったのだ。
「だって……誰もいないこの場所なら、一人で静かに絵が描けるから……」
「だから、それ自体があなたを余計に苦しめているのよ」
「……だったら、ボクはどうすれば良かったんだよ」
彼は、訝しむように目を細めながら、そう問うた。
「ええと、この学校にも美術部はあるでしょ?」
「やだ」
「……」
即答だった。私が提案する前に、彼はそれを却下した。まあ、確かに「一人で静かに」絵が描ける場所ではないのかもしれない。私は美術部員ではないから、そこがどんな雰囲気で活動してるのかは、分からないけれど。
「じゃあ、お家で」
「絶対、やだ」
まだ、提案どころかほとんど何も言ってないのに、彼はそれを強く却下した。美術準備室に引き籠っている彼に自宅に引き籠ることを勧めるのもおかしな話なのだが。美術準備室よりかは周囲の影響や彼への精神的な負担も幾分か和らぐだろうと思って言ってみたものの、彼はそれを却下したのだった。考えてみればそうだ、その手があったら真っ先に使っているだろう。彼にとって、その手を使いたくない余程の理由が、何かあるのだろうか。
私は、恐る恐る彼に訊ねる。
「黒瀬くんの、その……ご家族とは何か、上手くいってないの?」
「言いたくない」
「そ、そっか、ごめん」
彼は、ふんと鼻を鳴らした。やっぱり、そう気安く触れていい話じゃなかった、と私は後悔した。
「……まあ、ええと。つまり何が言いたいかと言うと、黒瀬くん。あなたは、もっと他人を頼るべきよ……。他人を避けよう避けようとするから、余計に自分を追い詰めているんだわ」
彼は、「一人で静かに」絵を描いていくことを望んでいた。それ自体が新しい問題を生んでいるように、私は見える。そも前提から間違っていたのだ。
「……やだ」
彼は、ゆっくりと、私の言葉を却下した。
「どうして?」
「どうせ、誰もボクを理解しない。理解しようとしない」
ああ。やっぱり、彼は。
「……誰かに、理解、されたかったんだね」
私は、そう、彼にゆっくりと言った。
彼は、私の言葉を受けて、ボソッと呟いた。
「……それ」
「……え?」
「なに、それ。お前何様だよ、勝手なことばっかり言って。ボクの何を知ってるんだよ!」
そう言って彼は、私の右手首を強く、掴んだ。彼の手が、まるで氷のように、冷たい。
「そ、それは……。私は、黒瀬くんのことが、心配で」
「誰がそんなことを頼んだんだよ。誰がそんなことを決めたんだよ! どうせ、なんにも分かってない癖に、なんにも知らない癖に!」
「ちがっ……!」
彼と私の間で、押し問答が繰り広げられている。それと同じように、彼は私を抑え込もうとし、私はそれに抵抗する。鍔迫り合い。
確かに、私も多少、彼への決めつけが過ぎたのかもしれない。しかし、それ以上に彼は自分自身のことを決めつけているように思える。甘んじているように思える。自分から進んで孤高をやっていると思い込んで、そう思い込みたくて、孤独から目を逸らしているように思えるのだ。
それは、果たして。自傷行為とどう違うのだろうか?
「黒瀬くん、聞いて。あなたも、本当は悲しいんでしょう? せっかく自分が描いた作品を、『呪いの絵画』だなんて言われて。少しだけ、少しだけでいいから、自分の心に耳を傾けよう? 素直になろう?」
瞬間、世界がひっくり返った。ドサリという音と共に、背中側に鈍い衝撃が走る。驚きと衝撃に、私は「うっ」と声を漏らした。私の喉元を何か冷たいものが圧迫し、制服の襟が乱暴に引っ張られ、そして、彼の顔が迫る。その顔は、今までにないほどに、怒りでひどく歪んでいた。
「お前何様なんだよ。『自分の心に耳を傾けよう』? ボクの居場所を踏み荒らして、ボクを脅かして、言うに事を欠いて、『素直になろう』? 何偉そうに言ってるんだよ!」
「ちょ、ちょっと!」
そう言って、身を捩って抵抗しようとするも、彼がソファーごと私に馬乗りになって、更に動きを抑え込まれる。彼の、氷のようにひどく冷たい手が、私の首を更に強く押さえつける。
「あなたっ……自分がぁ、何をしようとしてるのか、わかってる、の!?」
「うるさい! お前らなんか、お前らなんか、死んでしまえばいいんだ!」
掠れる声で黒瀬くんを諭そうとするも、彼は震える声で人を呪った。
私の喉を覆う手の力が、徐々に強まっていく。緩やかに、両手で首を圧迫されていくのを感じる。ごめん、落ち着いて、やめて、そう彼を
殺される。
そう思った。
私は、力を振り絞って、彼を押し返した。
瞬間、また、世界がひっくり返った。ドサリという音と共に、衝撃が――黒瀬くんがクッションになったおかげで、来ることはなかった。しかし、代わりに黒瀬くんが、ソファーから硬い床に落ちてしまったせいで、苦悶の表情を浮かべながら「うぅ……」と小さく呻き声を上げている。
先ほどとは打って変わって、私が彼に覆い被さるような形になった。
「かっ、く、くろせ、くん、ケホッ、ケホッ……」
絞首から解放され、空気が一気に気管に流れ込んだせいで、咳が止まらない。
「くっ、黒瀬くんごめん、痛かった、よね、大丈夫……!?」
彼は何も言わない。ただ、お互いが肩で息をしているばかりだ。
次第に、黒瀬くんの目から涙がこぼれだした。彼の息切れが、嗚咽に替わっていく。彼は徐に目を袖で覆った。ただただ泣いているばかりだ。
先ほどまであれだけの気迫で怒り狂い、あまつさえ私を絞め殺そうとしたのに、それとは打って変わって、今では自分の中に押し込めるように、静かに泣いていた。今の彼は……今の彼は、とても苦しそうに見える。
「ねぇ、黒瀬くん……」
「……」
まだ、返事はない。鼻をすすっているばかりだ。
私は、そんな彼の頬に、思わずそっと触れる。先ほどまでの攻撃性はないが、彼は、悔しそうに、苦虫を噛み潰したように、歯を食いしばった。
「ごめんね、黒瀬くん」
「……惨めだ」
「……どうして?」
「殺そうとしたのに、こんなボロボロになって。また、笑われる。また、バカにされる」
「笑ってないわよ」
「心の中では、きっと笑ってる」
「笑うわけ、ないじゃない」
まるで、マイナス思考に縛られているみたいだ。恐らく、私と、黒瀬くんのことをバカにした人たちとの区別がついていないでいるのだ。今までも、他人に笑われ、詰られ、誹られた。だから、『また、バカにされる』。彼の心の傷が彼をそう錯覚させ、他者全てを拒絶していたのだろう。
「ねぇ、黒瀬くん、よく聞いて。こんなことを言ったらまた怒るかもしれないけど……。私は、あなたのあの絵を受け入れたように、あなたのことを理解したい。あなたのことを笑わないし、バカにしない。理解しようとしてあげられる。だから、その、あなたも私のことを頼ってほしい……」
「だからなんだってんだよ。そんなのを信じられるかよ」
「あなたは……私の何を知ってるの?」
「は」
「条件はお互い一緒だよ。すぐには受け入れられないかもしれないけど……信じてほしい。私は、あなたの味方よ」
すると、彼は徐に覆っていた袖を外した。泣き腫らした目が露わになる。私は彼を真剣な目で見つめるが、彼はそれを努めて見まいと、そっぽを向いてしまった。ペンキをひっくり返したように広がった黒い髪と、そこに切なげな表情を浮かべる色白な横顔は、闇に溶けてしまいそうなほど儚げだ。
「どうして」
「えっ?」
「どうして、こんな殺そうとするような奴なんかに構うの。どうしてそこまでして、ボクなんかに構うの」
「あなたが描いたあの絵が、好きだから」
「……そう」
「うん。でもね、それだけじゃないわ」
彼の潤んだ瞳が、こちらを見つめる。
「あなたみたいな人をバカにされているのを、黙って見てはいられないもの」
その言葉を受けると、彼は悲し気な顔になった。
「ボクは……誰かに世話かけていいような人間じゃない」
「そう?」
「さっきだってまさに! アンタを殺そうとしたじゃないか。こんなクズ野郎に世話するほどのことなのかよ」
「ううん。あなたは、優しい人だよ」
「なに言って……」
力なく床に伏す彼の手をそっと取り、自分の胸元で包み込むようにする。生気を感じさせない温度のその手に、私の体温を流し込むように。
「な、ちょっ」
彼は動揺したように目を皿にして、私の手を振り払おうとするが、衰弱した腕力では満足に動かすこともままならかったらしい。そのまま諦めてまたそっぽを向いてしまった。どことなく、頬が紅潮しているように見える。
「手が冷たい人は、心が温かいんだって」
「……迷信だろ、そんなの」
「そうかな。あんな素敵な絵が描ける人の心が、冷たいわけないもの」
「……。やめてよ。ボクは……そんなんじゃない」
冷たい雨のような悲しみを湛えながら、私の言葉を、自分自身を否定する彼。そんな彼に私は、そっと差し伸べるように彼の頬に手を添える。彼はそのまま、私の手に委ねられるままに、顔を正面にした。また、互いに目が合う。冥い、冥い瞳。
「じゃあ、どんなの?」
「……ボクは。ボクは、冷たくて、愚かで、醜い」
彼は自身のことを、言葉を深く深く刻み込むように、傷を深く深く付けるように、言う。そう言う彼の目からは、涙がこぼれていた。
「そうやって自分のことを悪く言って、辛くはないの? どうして、そこまで自分のことを悪く言うの?」
「……本当のことだから」
「本当に?」
「な、なんだよ」
私が真剣な眼差しでそう聞き返すと、彼は困惑した表情で身じろぎする。
「……黒瀬くんはきっと、自分自身のことを決めつけすぎなのよ。悪く悪くあろうとして、自分自身を否定しているようにみえるわ……」
「……証拠はあるのかよ」
不貞腐れたような、怪訝そうな声で彼は言った。私はそっと、彼の頬に添えた手のままで、親指でこぼれていた涙を拭ってみせる。そして、彼に微笑みながら
「これが証拠じゃ、ダメかな?」
と問いかけた。
対して彼は、ムッとしたように目を細めた。赤赤として潤んだ目と頬が、哀し気にキラキラと輝いている。
「だからさ。あなたがあなたを否定するなら、せめて私はあなたを肯定させてくれないかな」
彼はついに再び顔を逸らし、口元を袖で覆うようにした。か細い声を袖で遮らせ篭らせながら、言う。
「よく……よく、そんなこと、平気な顔で、言えるよね」
「えっ?」
彼は私の目を横目に見ながら、やがて目を閉じ、一つ溜め息をついた。
かと思えば、私の肩を押しのけながら、ゆっくりと上体を起こしていく彼。彼はそのまま俯き、私の両腕を掴んだ。
「……そういうことを簡単に言えるような奴は、きっと裏切るから」
「そっ、そんな! 私は、あなたのことを裏切ったりなんか……!」
「口先だけなら何とでも言える。もしもお前が本当にボクの味方だと言うのなら――」
「最終下校時刻5分前になりました。校内にいる生徒の皆さんは速やかに下校してください」
ザリザリとした荒い音声の下校を促すアナウンスが大音量で響いた。
それを耳にした黒瀬くんは私の腕から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。力ない足取り、所作でソファーの陰に隠していた自分の鞄を取り出し、そのまま美術準備室を後にした。扉はパタリと閉まり、静寂と呆然とした私だけが部屋に取り残されたのだった。
嫌に耳を突く、
「――ボクと一緒に、死んでよね」
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