第2話

 私はいつもよりも一層ぼうっとした頭のままで、靴と上履きを履き替えていた。時計を見ると、まだ6時半だ。やはり、あまりに早すぎる。朝練のある運動部でもあるまいのに。外から朝練をする運動部の掛け声が聞こえる。

 何故私がこんなに早く学校に来たのか。理由は、単純だった。に下駄箱や廊下で会いたくないからだった。昨日、二人から逃げるように帰ってしまった手前、私としては非常に気まずい。だから、早入りすればばったり会うこともないだろうと考えたからだった。

 ただ、始業の時間になってしまえばいずれ教室で会うことになってしまうだろう。ああ、憂鬱だ。私は、無人の教室の前の廊下でしゃがみ込んでいた。

 ぼんやりと、「呪いの絵画」のことが思い浮かんできた。まだ、あの絵のことが胸につっかえているのだ。あの絵の不気味さ不吉さとは裏腹に、何か抱えたものがあるのではないか。あの絵は私のものではないが、あの絵に対する汚名を払拭したいというお節介な気分に駆られて、もう一度あの絵を確かめたいと思った。私は、思い付いたように駆け足で美術準備室へと向かった。


 美術準備室のドアを開く。昨日のような、空気の重苦しさはあまり感じなかった。やっぱり、昨日のあの気分の悪さは、得体の知れない噂の正体を知ったせいなんだろう、やっぱり悪い思い込みなんだろう。

 恐る恐る中を覗き込むと、昨日のような色々混じったような、篭った臭いは薄れていた。何というか、この部屋で言うのもおかしいが、空気が爽やかだ。空気がなんだか爽やかなこと以外は、特にこの部屋は昨日と変わりなかった。

 程なくして、爽やかな空気の正体が分かった。窓が開いているのだ。そこから曇り空が覗いている。朝は換気でもする習慣でもあるのだろうか。まあ、確かにこの部屋は臭うし。

 白いサテン地の布で覆われたキャンバスも、昨日と変わらずそこにあった。白い布が、外からの風で小さく揺れている。私は、もう一度あの絵を見る為に、自然と乱れる鼓動を胸の上から押さえつけながら、その布を一気に剥ぎ取った。

 一瞬目を疑った。そこにはが立てかけてあったのだ。それを見た途端、なんだか力が抜けて、私はその場でへたり込んでしまった。涼やかな風が私の頬を撫でる。

 昨日私が見たあの絵は、実は幻覚だった? いやいや、あの二人がきっと見ていたじゃないか。いくら呪いの噂だからといって、非現実的な考えは良くない。もう少し冷静に考えなくては。

 そう、例えば、誰かに盗まれたとか。いいや、だったらわざわざ白いキャンバスを置いて、一々布を被せるなんてことはしなくてもいいはずだ。ということは、誰かが何かしらの理由で、あの絵と白いキャンバスを置き換えたのか? そんなことをする必要のある人物といえば……。

 私の中で辻褄があった瞬間、落ち着きを取り戻した心臓が、再び強く速く拍動を打ち始めた。あの絵を描いた誰かが、確かにいる。解けなかった問題が解ける一歩手前のような、あるいは喉から手が出るほど欲しかったものがもうすぐで手に入るような、そんな高揚感を覚えた。

 私は躍起になって手がかりを探し始めた。周りをキョロキョロ見回してみても、まあ特に何かあるわけではない。棚の中をしらみつぶしに探してみる。すると、画用紙の束が積んである棚に、お茶椀サイズの容器が蓋をして置いてあった。どうやら何か液体が入っているみたいだ。しかし、どうにも保管場所としては相応しくないように思えた。蓋を開けてみると、かすかな刺激臭が漂っている。絵画に使うものだろうか。その棚をよくよく調べてみると、他にも筆、パレット、顔料、等が一式揃った状態で保管されているのだ。いや、保管というには何だか雑なようである。これではまるで……。

 私はまた立ち上がり、この部屋を調べ始めた。他の棚には何かないだろうか。ソファーには。そして、掃除用具入れに近づいた瞬間、ドキッとした。何だろう、この感覚は昨日も感じたことがある。私は、掃除用具入れに手をかけようとした。


「もうやめて!」

 その瞬間、突然中からバッと人が飛び出してきたのだ。少し背の低い男子で、この学校の制服を若干着崩した格好で着ている。恐らく、この学校の生徒だろう。彼はハァハァ、と息を切らした様子でいる。私は、その様子に呆気に取られてしまった。

「えっと、あの……?」

「なんなんだ、人のことを嗅ぎまわって!」

 そう言って、彼はうずくまっている。

「あの、あなたって、あの女の子の絵の作者だよね!」

 私がそう尋ねると、彼は不服そうに

「そうだよ、あの『』を描いたのはボクだよ」

 と吐き捨てるように言った。明らかに皮肉を込めた言い方だった。どうやら、作者本人も噂のことを知っているようだった。

「やっぱりあなた、中から、私だけじゃなくてここに来た人たちの様子を伺ってたのね」

「そうだけど」

 ふん、と鼻を鳴らしながら彼は答える。どうにもやはり不服そうな態度だった。ずっと彼がうずくまっている状態はなんだか気が咎めてしまうので、彼に手を差し出して、立ち上がるように促した。が、そういう私の手をパチンと跳ね除ける始末だった。そうして、ふらつきながらも彼は壁に手をつきながら自力で立ち上がった。

 ここではじめて彼の顔をハッキリと見て、ようやく本当の彼の正体に気が付いた。

「あなた、黒瀬くん……だよね?」

 ハッとしたように、目を見開いて、彼は私の顔を見た。彼の瞳が、あの絵のように、深い闇で塗りつぶされていた。

 彼は、私の隣の席の、空席の彼だったのだ。

「な、どうして……」

「私、隣の席の。滝原雪乃。覚えてない?」

「……覚えてるわけないでしょ」

「そっか……」

 そう言って、彼はふいと目を逸らしてしまった。流石に、たった一日だけ隣の席だった人のことなんか覚えていないか。だが、そうはいっても隣の席だったので、少しでも覚えていてほしかったな、と少し寂しい気持ちになった。

 ……彼、黒瀬むつむくんのことは少しだけ覚えている。隣の席とはいえ、クラスメイトのことはゆっくり何日も掛けて覚わるものだと思っていたから、けれど彼はふとした瞬間に来なくなってしまったから、本当に少しだけど。

 席替えがあるにしても、席が隣なのでお世話になるだろうと思って、一言「よろしくね」と声をかけたのを覚えている。それに対して彼は、私のことを一瞥したあと軽く会釈するだけという、無言で素っ気ない反応だったことも覚えている。まあ、そうそう積極的にコミュニケーションをとりに行くような雰囲気ではなかった。まさかこんなことになるとは思ってもみなかったが。

「えっと。ということは黒瀬くん、教室に来なくなった日からずっとここにいたってこと?」

「そうだけど。悪い?」

「わ、“悪い?” って……。ここにいるっていうこと、誰にも言ってないんでしょう? 先生や親御さんとかに……。本来なら無断欠席じゃない」

 そう言うと、彼はビクッと体を震わせ、目を見開いた。そして、煙たそうに「うるさいなぁ」と呟くと、背中にあるソファーにドサリと倒れこむように腰を掛け、俯いてしまった。

 彼は、そのソファーの片側に寄って座っているように感じた。私は、恐る恐る、何となしに彼の隣に座った。すると、彼はこちらをチラリと一瞥すると、奥へ奥へと逃げるようにそっぽを向いてしまった……。

「黒瀬くんは、どうして教室には来ないの?」

「なに。同い年の説教なんか聞きたくないんだけど」

「そうじゃないわ……。ただ理由を聞きたいの」

「ハ、教室に行きたくないから教室に行ってないだけだけど」

「……」

 全然答えになっていない答えを彼は返す。彼が元からこの気質なのか、それとも絵やこの部屋に関することが理由なのかは分からないが、やはり彼の言葉と態度は、正しく自分と他者を隔てる壁そのものだった。

「ええと、そうじゃなくてさ。その、どうしてあなたは教室に行きたくないの?」

「アンタに何か関係あるの」

「そう、ね。でも一応はクラスメイトじゃない」

「たかがクラスメイトじゃん」

「そう。……でも、少なくとも私は“たかが”なんて思ってないわよ」

「……」

 また、ふん、と彼は鼻を鳴らす。そうして、彼はまるで何か決心をしたように息を吸うと、私に言葉を投げかけた。

「アンタみたいなのに、会いたくないから」

「……そっか」

 彼の言葉や態度は、完全に私との壁を作っているようであったので、言われずとも薄々分かってはいたが、改めてこうも突き放すような言葉を言われると、胸に痛みが走る。切なさのような、罪悪感のような、微妙で曖昧な悲しさが湧き上がってくる。

 しかし、同時に私はあることを思い出した。昨日、放課後にに会ってから、彼女らを避けていることだった。彼は何故そこまで他人を避けているのかは分からないし、ひとえに私と彼を一緒くたにするのも良くないが、なにか通ずるものがあるのではないか、と考えた。

 私は、繊細なものを運ぶように、慎重に口を開く。

「私もね、昨日、クラスメイトの子とちょっと揉めちゃって。だから、私もちょっと会いたくないなぁー、って」

「……」

「だからさ、私も黒瀬くんと同じ……同じって言ったらなんだけど、私もその子たちを避けてここに来た、のかもね」

「……だから、何だってんだよ」

「ええと。別に、深い意味はないわ。黒瀬くんがどうして教室に来ないのかはちょっとだけ分かったけれど、どうして美術準備室ここに居るのか、とか、色々教えてほしいというか、あなたとお話がしたいなって」

「別に。ボクは……」

 彼は何か言いかけて、途中で言葉を止めた。そして、膝を抱え込むようにすると、彼はまたゆっくりと口を開いた。

「ボクが、アンタに話すことなんて、何も無いよ」

「……そっか」

 そうしたところで、リーンゴーンと朝の予鈴が鳴った。私は何とも言えない気持ちのままソファーから立ち上がると、彼に声を掛けた。

「出来れば、私は黒瀬くんにも教室に来てほしいんだけど……。どう、一緒に行かない?」

「行くわけないでしょ」

「……そっか。それじゃあ、私はもう行くからね」

 そう言って、私は美術準備室から出た。去り際、彼がポツリと「二度と、来ないで」と言った声が、微かながら確かに聞こえた。私は、その時ふと立ち止まって彼の方を振り返ると、彼がこちらを睨んでいるのが見えた。影に覆いつくされた真っ黒な瞳が、私を突き刺すように視ているのを見て、やはり、昨日や今日彼に出会う直前に感じた感覚を、また覚えた。……。

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