美術準備室の扉の向こう

ドラスチック製品

第1話

 昼の授業と言うこともあり、半ばうつらうつらした気持ちで、先生の話を聞いていた。周りを見回して確認したりはしないが、恐らく他の生徒の何人かは、睡魔に負けて机に伏せているのだろう。それでも、私自身は周りから言われるような、所謂「真面目ちゃん」だったので、黒板の文字や先生の言葉を、咀嚼してノートにえがいている。

 周りが言うような、「授業がつまらない」という気持ちはあまり分からない。私からしてみれば、それは単なる作業に等しい。食事、入浴、睡眠、そして勉強。そこに特別な感情など、ただの一つもなかった。周りは、そんな私を指して「つまらない女」と言う。

 先生が授業を〆ようと、まとめをしている途中に、リーン、ゴーンと終業のチャイムは鳴った。先生は言葉を端折って強引に授業を〆ると、そそくさと教室を出て行った。それと同時に、周りもやっと解放されたと言わんばかりにざわざわと騒がしくなる。放課後はどこに行く――だとか、部活が――だとか、他愛のない世間話を繰り広げて行った。

 ただ、「つまらない女」と言われるほど、自分で自分をつまらないとは思わない。確かに、制服は着崩さず、髪はポニーテールに結って、眼鏡も掛けてと、着飾らず如何にもな格好をしている自覚はある。そんな私だってオシャレくらいするし、流行りの音楽は気にするし、特別無感動なわけではない。ただ単に、この高校に友達がいないだけなのだ。ただ単に、ジミでカタブツという立ち位置にいるに過ぎないのだ。

 入学してから早一ヶ月。取り立てて高校デビューに拘ったりはしていないが、それでもクラスメイトが和気藹々としている様子を見ると、一人くらいは友達……とは行かなくとも、気軽にお喋りができる相手がいても良かったのかな、とは思う。

 ……例えばそう、隣の席同士の仲なら、ちょくちょくお喋りができるような仲にはなれたのだと思う。でも、その隣の席はずっと空席だった。いや、入学式の日には居たはずだったが、その後からはとんと来なくなってしまったのだった。

 彼は今、何をしているのだろうか。


 私がただそんなことを考えながら、黙々と教科書やノートを鞄に詰め込んでいると、ドサリと、背中に何か大きなものがぶつかったような衝撃を受けた。何事かと思って振り返ってみると、よろめく小柄な新見さんという女子生徒と、それを受け止めている中肉中背の堀田さんという女子生徒がいた。二人とも、人並みに制服を着崩したような生徒だ。

「あっ、ごめんね、いいんちょ」

「ああ、いや、大丈夫だよ。気を付けてね」

 新見さんは慌ただしく謝ると、また先ほどの勢いを取り戻したように走り去っていってしまった。

「ごめんね、委員長。強く言っとくからさ」

 そういう堀田さんも、私が返事も言わないうちに、速足で新見さんを追いかけていってしまった。

 彼女らは一体何をそこまで急いでいたのか。できることなら、彼女らには廊下を走らないで欲しいところだが。だが結局のところ、どちらにしても、私にはあまり関係のない話だった。

 急ぎ足の彼女たちを見送った後、私はのんびりとまた荷物を鞄にしまった。さて、そろそろ私もゆっくりと帰るかな。

 廊下には、徐に西日が差している。それが、廊下を黒とオレンジと交互に染め上げている。私は、その上を小気味よい心地で歩いていく。

 ただ、そのステップも下駄箱に着く頃には止まっていた。先ほどの二人……新見さんと堀田さんがいたからだ。走って教室を出て行ったものだから、てっきり下駄箱からも既に発っていると思っていたのだが。彼女らは、身を寄せ合っている様子から、何かひそひそ喋っているものだと直感した。私は慌てて下駄箱の裏に身を潜めて、少し行儀が悪いが、彼女らの内緒話に聞き耳を立てた。

「――でさ、そしたら物音がしたのよ!」

「だから、それは気のせいだって。私聞こえなかったよ」

「気のせいじゃないよ。すごく近かったんだもん」

「じゃあ『呪いの噂』ってのは本当だったってこと?」

「ええー、じゃあこはる呪われてるのお?」

「小春も『見たら呪われる絵画』見たんでしょう? 本当に呪われてるんじゃない?」

「やだー、気味わるーい!」

 彼女たちはそう言いつつも、和気藹々とした様子で喋っている。呪われているらしい新見さん本人でさえ、クスクスとどこか楽し気な口ぶりだった。

 しまいには、

「うっ!」

「小春っ、どうしたの!?」

「なーんて、嘘だよー」

 と、変な発作を起こしたような冗談を飛ばして笑い合っているのだった。だが、それを聴いていると、どこか言いようのない、ほんのわずかな厭悪感が私の内側に這ったのだった。

 ――どうやら、彼女たちはに立ち寄っていたようだった。

 呪いの絵画の噂。この学校の美術準備室に、見たら呪われるという呪いの絵画が存在するという噂。その呪いの絵画を、画家の亡霊が夜な夜な描いているという噂。つい数日前から、実しやかに囁かれるようになった噂だった。私もこの噂を耳にしたときには、この学校に奇妙な噂が立つものだなと思っていた。だが、所詮は噂話と、あまり興味を持っていなかった。しかし、その『呪いの絵画』はどうも実在するらしかったのだ。

 ううむ。この三人の中で(と言っても私は会話に参加しているわけではないが)私だけがその呪いの絵画を見ていないというのも、何かモヤモヤする。あまりそういって、「周りの人も見てるから」なんて言って流されてしまうのもよくはないのだが。かと言って、気になってしまうものは仕方がない。最終下校時刻までの時間はあるわけだし。

 そうして私は、心の中で「ああそうだ、用事を思い出したんだった」なんて言って自分自身に嘘を吐いて、足早にへと向かった。


 美術準備室。この学校の、二階にある美術室の隣にある部屋の前に、私は立っていた。そのドアが、丁度光が遮られているせいで、影で黒く塗りつぶされている。

 美術準備室のドアの前に立って、今更何だか後悔してきた。怖いという意味ではない。ただ、私は今、何をやっているのだろう、どうしてこんなところにいるのだろうという虚無感に駆られたのだ。下らない理由で、一時の感情に流されてここまで来てしまった自分自身の意味不明さに、自分で呆れていたのだ。

 しかし、私の中に「引き返す」という選択肢が何故だか存在しなかった。ただ、ぼうっと機械的にドアノブに手を伸ばした。

 ドアノブに触れた瞬間、背筋がゾクッとした。それと同時に、空気がなんだか重たく感じた。呪いだのなんだの言って、これは悪い思い込みだ、噂や雰囲気に圧倒されてるだけなんだと自分に言い聞かせながら、ドアノブを捻る。ドアノブがとても堅く感じられたが、ゆっくりと、音も立てずにドアは開いた。

 誰がいるわけでもないが、つい「お、お邪魔しまーす……」とこぼしてしまう。中に入ると、顔料や接着剤、そして埃やカビなどが混ざった臭いが、ツンと鼻を刺す。ウッとなって思わず鼻を抑えるも、じきにその臭いにも慣れてきた。

 中を見回してみると、薄暗い空間の中に棚が左右に向かい合って並んでいる。右手の棚には石膏像が並んでいたり、画材が無造作に積まれていたりと、不気味な印象を受ける。左手の棚は上半身がガラス張りになっており、その中にはルネサンス期だとかロマン主義といった、なんとなく聞いたことのあるような表題の美術の資料から、原始美術や抽象画といったニッチな美術がまとめられた資料までもが分厚い冊子となってズラリと並んでいる。さながら、世界中の美術館が本になったかのような、膨大な量の資料だ。下半身は引き戸になっており、ここにもまた画材が保管されているのだろう。

 ぱっと見、何の変哲もない、ただの画材や資料を保管するための部屋のようである。しかし、この部屋を隈なく探索してみると、あることに気が付いた。棚の奥の壁との隙間の先に、更なる空間があるのだ。注意深く観察してみれば気付くような隠し部屋だが、何も知らずにただここに用があって来るだけならそこに気付くことはなかった、そんな空間だった。

 そんな場所に、私は更に足を踏み入れる。そこでもやはり、画材がたくさん収納されているであろう棚と、そして、掃除用具入れがあるのは、先ほどのような普通の美術準備室と何ら変わりない。ただしそこには、布が掛けられている物体と、円い小さな椅子と、ソファーがあったのだ。薄暗い、不気味な部屋に、更に異様なものが置いてある。その中でも一際私の関心を惹いたのは、光沢感のある白い布に覆われた、その物体だった。

 サテンの生地がわずかな光を反射して、キラキラと輝いている。余程大切にされているのだろうか、何かの埃避けにしてもかなりの高級感というか特別感を感じさせるような、純白の布だ。その布が、キッチリと行儀よくその物体に掛かっているのだ。果たして、その中にあるものとは……。

 私は、その布を一気に剥ぎ取った。

 そこには、一枚のキャンバスが、イーゼルに立て掛けてあったのだ。


 そこには、闇の世界が広がっていた。光を飲み込まんとするような黒の背景と、そこに浮かび上がるように少女が描かれている。彼女の手には、一輪の彼岸花が握られていた。

 絵の中の少女は、目を瞑っていた。眠っているように見える。安らかに、眠っているように見える。でも何かがおかしい。生気を感じられない。顔色は青白く、筋肉の力みもない。少女が、まるでように見えるのだ。

 対して、黒い背景に浮き出るような白い服の少女の、そこから更に浮き出るように燃える赤色の彼岸花が、目一杯に花開かせていた。彼岸花、ともすれば確かに、少女の生死と辻褄が合っているように思える。

 その絵は、恐ろしくも美しい絵だった。異常なまでに緻密で繊細に描かれ、まるで実際にあるかのようだ。それでいて、冥界に引き込まれてしまいそうなほどに近くまで死の香りを感じさせられてしまう迫力がある。

 キャンバス全体に切り取られた悍ましい世界観に、美しい少女と彼岸花、確かに噂通り「呪いの絵画」と呼ばれるに相応しい不吉さを感じさせる。ただ、それを見ただけでただ不吉だ、気持ち悪いと言う感想を述べるのは簡単だ。普通、黒も死も彼岸花も不吉の象徴と呼ばれるものであるのは確かなのだし。

 しかし、ただ不吉と断じるには何か足りない、言いようのない「何か」が、この絵から感じるのだ。怒り、悲しみ、安らぎ……。そんな、ある種の神秘を感じる。もしかしたら、これはきっと誰かの……。


 私はふと視線を感じた。しかし、ここには私しかいないはず。だが、考えてみれば、絵や椅子やソファーが、確かに誰かの存在を示している。そう、まるでここが誰かのアトリエであるかのよう。先ほどの絵画とも合わせて、実に不思議な空間だ。

 キーン、コーンと、校内に響くチャイムに、はっと我に返った。どれほどの時間ここにいただろう。ほんの一瞬の時間が、数十分、数時間のように感じられた。

「最終下校時刻五分前になりました。生徒の皆さんは速やかに――」

 とりあえず、私は帰路に就くことにした。サテン地の布を絵画に被せ直してから急いで美術準備室の外に飛び出すと、突然私を呼びかける声が横から入った。

「やっぱりいいんちょも見に来たんだ、『呪いの絵画』」

 そこには、ニヤニヤ顔の新見さんと、頭をポリポリと掻いている堀田さんがいた。

「ど、どうして」

「いやあ、呪いの噂を見に行った話をしてたら、委員長が飛び出していくのが見えたからさ」

 戸惑うように訊くと、盗み聞きしてたことも、コッソリ噂を確かめに行こうとしていたことも、でもそれがバレバレだったことも、新見さんが教えてくれた。

 自分の顔が熱くなっていくのが分かる。

「えっと、その」

「いいんちょも見ちゃったねぇ、呪われちゃった?」

 床がふわふわと揺れるような感覚がする。頭の中がぐるぐるとかき回されたように思えて、二人が何か言っているのは分かるが、何を言っているのか、全く判らなくなってしまった。

「あ、あ……ご、ごめん!!」

 私は口をパクパクさせた後、絞り出すように叫んで、二人の間を割って走り抜いてしまった。未だ二人が遠くから大声で何かを言っているようだったが、何を言っているかは全く判らなかった。

 それから私は、逃げるように帰路に就いていってしまった。結局、あの二人への気まずい感情だけが残ってしまった。


 その夜、私はベッドに寝そべって、放課後のことを反芻していた。二人に失礼なことをしてしまったことも、「呪いの絵画」のことも。確かに「呪いの絵画」と言われるような不吉さはあったが、ただそれだけではない何かがあるのではないか。果たして、呪いだ何だと、軽んじたように言ってしまって良いものだったのか。私の心の中で、ずっと引っ掛かっていた。

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