第4話
それから、私の心がどことなく落ち着かない気持ちでいた。そわそわした気分で、授業に身が入らなかったのだ。やはり、今日も一日中、頭の中は黒瀬くんのことでいっぱいだった。
昨日の朝に黒瀬くんと会ったときと、放課後に会ったときとを振り返ると、個人的には進展したように思える。表現がただ暴力的なだけで、彼自身の気持ちを、彼の口から聞けたのだから。
ただ、そう思っているのは私だけで、彼はそう思っていないのかもしれない。彼が暴力に訴えたと言うことは、つまりそういうことなのだろう。
「一緒に死んで、か」
不安が、寒気となって背筋を伝う。私のしていることは本当に正しいのかと、問いかける。自己満足なだけで本当は彼を追い詰めているのではないかと、責め立てる。
「ねえ、なにブツブツ言ってるのー?」
昨日のことを反芻しながら、半ば無意識に、機械的に荷物を鞄に詰めていると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「ひっ」
しまった、変な声が出てしまった。そう相手に失礼にあたっていないかと思いつつ、反射でそのまま振り返ると、案の定そこには新見さんと堀田さんがいた。
「あ、え、えと。どうかした?」
「んー。なんかブツブツ言ってるからどうしたのかなーって」
ああ……。誰かに聞こえるくらい、独り言が出てしまっていたのか……。気を付けなければ。
「い、いや、別に何でも……」
「そう? ふーん」
どこか不満げに、一応は納得したような素振りを見せる新見さん。それと入れ替わりに、堀田さんが切り出した。
「あのさ、この前のことなんだけど」
私は、ハッとした。そうだ。この前、二人から逃げるように去ってしまってから、彼女たちと何も喋ってなかったんだ。私は慌てて、二人に謝罪した。
「ごめん! その、逃げ出しちゃって。パニックになって、私……」
「え、あー、そうだったの。急に走り出すからビックリしたけど」
「えー、こはるたち、ただあの『呪いの絵』見たからどうだったー、って聞きたかっただけなのにー」
……。やっぱり、『呪いの絵画』、か。
「でもさー。やっぱりキモいよねー。『呪いの絵』とか、『噂』とか。何でそんなの、この学校にあるんだろ」
…………。
「まあ普通に考えて、ここの生徒の作品なんでしょ。にしても、雰囲気が不気味だけど。人間の闇、って感じ?」
「ねー。ちょっとヤだよねぇ」
「死んだここの生徒が、恨みを込めて描いたものだったりして……」
「もーヤだぁ。やめてよー」
二人はそうやって、楽しげに喋っている。もう嫌だ。やめてよ。私には、それが耐えられなかった。彼の実情を知っている私からしたら、到底耐えられるような場ではなかった。
あの時みたいに、また、意識がかき回されていく。二人の言葉が、徐々にシャットアウトされていく。
「委員長? どうしたの、ボーっとして」
堀田さんの声に、ハッと我に返った。不思議そうに、二人がこちらを見ている。
「あ、ああ、何でもない、大丈夫よ……」
もういい、とにかくここから立ち去らなければ。
「あの、私そろそろ帰るわね」
私がそう言って教室から出ようとしたとき、新見さんが私に言った。
「ねえいいんちょ、何か隠してる?」
「え?」
心臓が跳ねて飛び出るような心地がした。何を根拠に彼女がそう言ったのかは分からないが、心当たりは確実にあるからだ。彼と特にそういう約束を交わしたわけではないが、「他人」に怯えていた彼のことを他人に喋ってしまったら、彼がどれだけ傷付くのかは、想像に難くない。特にあの絵についてどう思っているかが既に分かり切っているような二人には、絶対に言う訳にはいかなかった。
「さあ。私は隠し事なんてしてないわよ、何も……」
「ふーん、そう? こっそり隠れて、何かやってると思ったんだけど」
「何もやってないから!」
そう言って、私はさっさと教室を後にした。なるべく足早に遠回りをして、誰にもつけられていないか警戒しながら、彼の元へと向かった。
いつものように、美術準備室へと足を踏み入れる。この場にも慣れてきたからか、緊張こそしなかったが、代わりに彼に対するもやもやとした不安が、私の胸の中で引っ掛かったままだった。
「来たよ」
掃除用具入れの彼に向って、挨拶か疑わしい挨拶をする。それに応じるように、掃除用具入れの扉がゆっくりと開くと、そこから黒瀬くんが顔を覗かせた。
彼の瞳が私を見出だすと、それから右に左にキョロキョロしだし、終いには伏せるように視線を落としてしまった。やがて彼はゆっくりと全身を現す。その腕には、使い込まれたスケッチブックが、大事そうに抱え込まれていた。
「あ、絵、描いてた? もしかして」
私の問いかけも無視して、黒瀬くんはもたれるようにソファーに座った。
私も、彼に続いてゆっくりとソファーに腰掛けた。
また、重たい沈黙で閉ざされる。彼は何も言わないどころか、胸に抱えているスケッチブックを開こうとすらしなかった。私は、彼の時間に水を差してしまった気さえする。いや、実際そうなのだろう。恐らく、黒瀬くんは私のことを邪魔なのだと思っているのかもしれない。でも、だからと言って彼から身を退いたとしても、事態が好転するわけではないのだ。お節介でもいい。傲慢でもいい。彼に手を差し伸べたい。
「ねぇ、黒瀬くん。何描いてたの? スケッチブック、見てもいい?」
「ヤダ」
「そう? どうして?」
「なんか嫌だから」
なんか嫌だから、って。全然理由になってない……。でも、その真意に心当たりがないわけでは、なかった。
「私は、別にその中身を、あなたの絵を見たからと言って笑ったりバカにしたりなんかしないわ……」
「別に……そんなんじゃない。全然、ラフ程度でデッサンもガタガタだから」
「それでも別にいいのに。言ったでしょう、笑ったりバカにしたりしないって。私は、黒瀬くんの絵が見たいなあ」
彼は飛び上がるように立ち上がり、私を見下ろしながら言った。
「大体、よくそんなことが言えるよね、あんなことがあってさ……。そもそも、ここにまた来ること自体、おかしいよ!」
「別に、私は……。あなたの絵が、あなたの事が気になるから。黒瀬くん、あなたが理由じゃ、ダメかな……?」
「それがおかしいって言ってるの! 首を絞められたんだよ、アンタは、ボクに! 普通、そんな相手に二度と会いに行きたいとは思わないでしょ……」
確かに、彼の言うことは正しい。危険のあると分かっている場所に普通近付けるものじゃ、ないのかもしれない。でも。私は彼の足元に視線を遣り、それからまた彼の瞳に視線を合わせた。
「でも、殺さなかったじゃない」
「は?」
「確かに、首は絞めた。でも、私を殺しはしなかったじゃない。それは、あなたが優しいからに他ならないんじゃないかしら?」
「やめてよ。……殺せなかっただけだ」
「……なんだっていいんじゃないかしら?」
私も彼と同じようにソファーから立つと、彼の手をスケッチブックごと取って握った。
「私は生きてる。またあなたの絵が見たい。それでいいじゃない」
「……」
鳩が豆鉄砲を食ったようにポカンとし、そして徐々に項垂れる彼。
しばらくしてから、唐突に彼は握られていた両手を無理矢理のように放し、私の腹にスケッチブックを押し当てた。
「そんなに見たけりゃ、見りゃいいじゃん」
突然のことに面食らったが、やがて彼の絵が見れるという高揚感で胸がいっぱいになった。ありがとう! と一言彼に言ってからソファーに腰掛けて、スケッチブックを開いた。
そこには、色んなスケッチが雑多に描いてあり、黒に白にと、非常に混沌としていた。リアルに細かな特徴を捉えたデッサンから、最低限の特徴を捉え極限まで簡略化されたカートゥーン調のものまで様々だ。まさに、彼の気の赴くままに描かれた所謂落書きなのだが、落書きというには私からしたら、どれを採ってもレベルが高い。
それに、黒瀬くんが描いた絵ということは、つまりそれは彼の視点で描かれたもの。それは、私が普段気付かないような視点、例えば夜の道路をぼんやりと照らし佇む錆びれた街灯や、普段読まれずに埃を被ってしまった本の背表紙の羅列など、見たことも思ったことないようなものが新鮮な視点で描かれているのだった。
普段見知っていると思っているものでも、彼の視点を通して見る目新しい刺激に、ページを捲る手が止まらない。私はただ、感嘆を漏らすことしかできなかった。
ページをだんだんと捲っていくと、ふと見たことのある絵が描かれているのを見つけた。1ページ丸々使って大きく描かれた、あの少女の絵だったのだ。恐らくラフ画だろう。
そういえば、どうして少女の絵を描いたのだろう? そう言った疑問が、スケッチブックのラフを見た瞬間に湧き上がってきた。
「ねぇ、黒瀬くん、あなたはどうしてあの女の子の絵を描いたの?」
そう訊くと、彼はそれに過剰反応したように返事をした。
「へっ!? い、いや、別に。ただ描きたかっただけだ」
「え、えと、そうじゃなくて。うーんと、どうして眠った女の子をモチーフにしたの? どうして彼岸花をモチーフにしたの?」
「大した理由なんて、ないよ。……ただ、強いて言うなら、忌まわしいモチーフだから」
「忌まわしい……暗いってことかな。黒瀬くんは、暗い雰囲気のものが好きなのかな」
「悪い? 速いより遅い、うるさいより静か、熱いより冷たい。明るいより暗い方がいいっていうだけ」
キモい……。不気味……。あの絵を見ていた誰かが、そう言っていた。あの絵を見ていた誰かが、嫌悪していた。否定していた……。
きっと、黒瀬くんはそういうつもりで描いたのだろう。わざわざ暗くて不気味なモチーフを選んで描いていたのだと思う。でもそれは、誰かを不快にしたいと思って描いたわけでは全くなくて。ただ純粋に、自分の好きなものを描いていただけなのに。誰が何を求めようが、誰が何を好もうが、他人には関係なんてないのに!
「悪いだなんて思ってないわ。そういう人が居たっていいじゃない!」
非難されると思って身構えるように出た「悪い?」という言葉を強く否定するように、彼に向って前のめりになって、そう説く。それに対して、彼はおずおずと一歩後退った。顔を赤らめながら。
「もう、分かった。分かったから」
呆れつつも、どうどうと宥めるような調子で両手を前に出す彼。それに……と黒瀬くんは続ける。
「や、やっぱりそんなすぐ隣でまじまじと描いてた絵を見られるのは、ちょっと恥ずかしいな……」
「そうかな? 別に、見られて恥ずかしがるような絵じゃないのに。どれも素敵な絵だと思うよ!」
「そういうことじゃないって、バカ!」
そう悲鳴を上げながら彼は、私の手からスケッチブックを奪い去って、ソファーで小さくなってしまった。
やはり、あれほどの絵を描ける黒瀬くんと言えど、他人に作品を見せるのは恥ずかしいことなのだろうか。それとも、美術準備室に引き籠って他人との関りを断っていたから、こういうことに慣れていないというのも、きっとあるのだろう。私自身、絵は勿論、何かを作るなんてこと自体考えたこともなかったから、それについてどう思うのかは想像できなかった。
少女の絵のラフを見てから、昨日は見れなかった清書された少女の絵を、また見たいと思った、のだが。へそを曲げてしまった彼に、頼んでまた見せてくれるだろうか。
「ねぇ黒瀬くん、あの、お願いなんだけどさ。あの女の子の絵、また見たいなあって」
「え、えぇー……。さっきああ言ったばっかりなのに、今それを言うかな」
ごもっともである。これは全く気が乗らない様子だ。
「そう、だよね。ごめん」
謝ると、彼はちらっとこちらを見つめた。どうしたのかと首を傾げると、彼は、はあと溜め息を一つついて、徐に立ち上がった。それから、イーゼルの前にあった円い椅子を手にしたかと思うと、棚の上の方をじっと見つめている。私も彼の見つめる先に目を遣ると、そこには、ボール紙で出来た薄い箱が置いてあるのが見えた。
彼は持っていた椅子に登って、箱に手を伸ばした。それでも彼の身長ではギリギリなのか、椅子の上で背伸びをしていて、なんだか危なっかしい。
「ちょ、ちょっと! 危ないって、黒瀬くん!」
「見たいんでしょ。平気だって、いつもここで乾かしてるんだから」
そうは言っても、そんな頼りない椅子の上で、頼りない体がふらついていたら、いつ落ちないかとヒヤヒヤする。それでも彼は、なんとか無事にキャンバスを下ろすことができたようだ。
安定を取りながら彼は足を床に片方ずつ着けていく。それから、イーゼルに掛かっているサテンを乱暴に剥ぎ取り、そこにあった未だまっさらなキャンバスと取り替えるように、少女の絵をイーゼルに立て掛けた。
「……あれっ」
その絵は、私の知っている少女の絵とは、少し違っていた。泣いている。涙を流しているのだ。私がこの絵を見た後に彼が描き足したのだろう、ということは分かるのだけど、一体どうして? 何の意匠、意図があって彼は少女の目に涙を描き足したのだろう? あのとき見たときは、てっきり少女は死体として描かれているものだと思っていたが、それを否定されたようにも思える。いや、今際に涙を流して死んでいった……ということかもしれないけれど。
黒瀬くんに視線を遣る。彼はイーゼルに手を回し、悲しそうにも見える目で少女の絵を見ていた。私が見ていることに気が付いたのか、私の方を向いて「何」とぶっきらぼうに投げかける。
「これは……黒瀬くんが描き足したの?」
「他に誰が描き足すんだよ」
「女の子は、どうして泣いているの?」
「……さあ?」
さあ、って。あなたが描いたんでしょうに。……でも、自分で言っては自意識過剰かもしれないが、私に見られたから加筆した、みたいな理由ではなさそうだ。やはり、大した理由なんてな――
「それは、アンタ自身の問題じゃないか?」
「えっ?」
「いくらこの絵について勘ぐっても別にいいんだけど。どういう理由でそれを描いたのか、なんてものはない。って言ってしまうのも憚られるものだよ、本来。言うべきではないものだと、思う。自分が言えたものじゃないかもしれないけど、野暮なものだよ」
「ごめん。……それはあなたが触れられたくないと思っているから?」
「……どうだろうね。アンタがそう思うのなら、きっとそうなんだと思う」
私は、イーゼルの脚に目線を落としながら、やはりこれも野暮なものなのだろうけれど、彼に問う。
「私には、この絵が……この絵の女の子が、あなたに重なっているんだと思った。冥い世界にいるのも、シっ……女の子に死相が出ている、様に見えるのも、泣いているのも。この女の子は、もしかして苦しい思いをしている黒瀬くんそのものなんじゃないかしら!?」
彼は、私の言葉を受けて、立ち尽くしているような素振りをした。真剣な表情とも、真顔ともとれるような、はかれない表情で私を見ている。
彼が自分の右側に目線を投げると、そのまま私に応えた。
「……どうだろうね。アンタがそう思うのなら、きっとそうなんだと思う」
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