あざ
若き小学校教諭、一年担任である明子には一つの心配事があった。
それは、受け持ちの真紀という女子児童のことだった。
真紀はとてもおとなしい生徒だ。問題行動もなく、いつも教室で本を読んでいる。
一見、心配事のなさそうな子だが、明子は特に気にかけていた。
真紀が一度も体育の授業に出席していないからだ。
学校が生徒の気持ちを尊重する方針のため、無理やり出席させることはできない。
小学校に入学してから、真紀はいつも体操着に着替えることなく、体育を見学していた。
特別虚弱ということは聞いていない。小学校という新しい環境になじめないのだろうか。あるいは体育に嫌な理由でもあるのだろうか。
一度、真紀自身にやんわりと聞いたこともあったが、はっきりとした答えは得られず。結局四月の体育は全て見学だった。
その後、明確な答えは得られなかったが、明子は真紀に関して気づいたことがあった。真紀は常に長袖と裾の長い服を着用していた。必ず肌を見せない服装なのだ。
五月に入り、夏の足音が聞こえても、真紀の服装は変わらなかった。
六月に寒い梅雨を挟み、いよいよ汗ばむ七月でも真紀の服装は変わらなかった。
子供たちが楽しみにしているプール授業が始まっても、真紀は服装も変わらず、体育に参加することもなかった。
そのかたくなさに、明子は真紀が虐待されているのではと考えた。
常に肌を見せていないのは、虐待の痕を隠すためなのではないか。
明子は小学生の頃の担任教師にあこがれ、小学校教諭になった。
その担任教師は昔気質ではあったが、非常に状の厚い教師で、引っ込み思案な明子の背中をいつも押してくれていた。
そんな明子だからこそ、真紀のことを放っておけるはずもなかった。
しかし、明子は真紀の件を学年主任に報告したものの、いろのいい答えは帰ってこなかった。
確信のある話ではなかったからである。
学校で行う健康診断は真紀は学校を休んだが、後日病院にで診断を受けた書類を提出された。そこに怪しい点はなかった。
ただ疑いがあるというだけで保護者を怪しむということは、もしもの場合教師側の信頼を揺るがしかねない。間違っていた場合、明子本人だけの問題ではなくなる。
それが学年主任の方針だった。
しかし明子はあきらめるわけにはいかなかった。
本当に虐待だとすれば、真紀の命に係わる話だからだ。ここで助けられなければ、真紀は一生虐待の被害を背負い続けるし、明子は一生後悔する。
たとえ明子が教職を奪われたとしても、真紀を救いたかった。
そこで明子は真紀本人から証拠を得ようとした。
どんなものでもいい。怪我の痕などの物的証拠や、絵や文章などの心理的証拠、真紀本人からの証言もあればいい。
そのため明子は真紀に特別目をかけて、信頼を得ようとした。
えこひいきとも取れるだろうが、明子は真紀を一人ぼっちにはできなかった。
ある日大きなチャンスが訪れた。
秋も深まるころで、給食に温かいスープが出されていた。
ふざけていた男児に押される形で、真紀が給食をこぼしてしまったのだ。
こぼれたスープの一部が真紀の腕にかかってしまった。
明子は真紀のやけどを心配し、すぐに袖をめくった。
真紀の抵抗はすさまじかった。その小さな体では考えられないほどの力で明子の手を振り払い、袖を元の位置に戻した。
明子はその抵抗に驚いたが、しかしその目でしっかりと見ていた。真紀の腕にあったあざのようなものを。
明子はあれこそが虐待の証拠であり、真紀はそれを隠し、保護者をかばっているに違いないと考えた。
当然このことを学年主任に報告したが、蒙古斑の可能性を主張され、明子の話はまともに取り扱われなかった。
そうしている間に、冬休みも目前となる。真紀の様子は変わらない。
木枯らしが吹く中で、明子は真紀が外へ放り出され凍えていないか、嫌な思いをしていないかとどこまでも心配になった。
それどころか、最近は欠席数も増えていった。
心配になった明子は、家庭訪問を計画した。
事なかれ主義の学年主任に怪しまれないよう、全生徒を対象にした家庭訪問だった。
真紀の家は、最後に訪問した。
長めに時間がとれるようにである。
登録された住所は、学区の端にある平屋の借家だった。
古い呼び鈴を鳴らすと、真紀が玄関を開けた。
明子は招かれ中に入る。
中は整頓されていたが、明子がよく知らない機械や針、インクのようなものもあった。保護者が仕事か趣味に使う道具だろうか。本格的な工作はよくわからない明子にはどのような用途なのかは想像できなかった。
真紀は明子に麦茶を出した。
ご家族は、と聞いたが、真紀は首を横に振った。
明子は真紀の親族を見たことがなかった。入学式をはじめ運動会(真紀は見学)や発表会、PTAにも出席はせず、保護者会にも不在だった。
保護者の欄には男性の名前と兄という続柄がかかれていたため、なんらかの理由で両親がいない家庭環境であることは理解していた。
お兄さんは仕事なのかと聞くと、真紀は静かにうなずいた。
これはチャンスだと明子は思った。
真紀に家庭の詳しい様子を聞くことで、その悩みを知ることが、あるいは虐待の証拠を得れるのできるのではないかと。
「真紀ちゃんはいつもおうちでお留守番しているの?」
その問いに真紀はうなずいた。兄は仕事で忙しいという。
「おにいちゃんと暮らしてるんだね」
うなずく真紀。
「おにいちゃんはどんな仕事をしているの」
「……おえかき」
真紀は少し逡巡し答えた。
「お絵描き?画家のお仕事かな?」
芸術肌なのだろうかと聞き返すと、真紀は首を横に振った。
「紙にはかくけどかかない」
なぞかけだろうか。真紀は冗談を言っているわけではないようだ。
「じゃあどこに描くのかな?」
「からだ」
体。
真紀はそう答えた。
「このまえもまきにかいた」
真紀はそう答えた。
明子の頭に一つの可能性が弾けた。
先ほどの
真紀の兄の職業はもしや、刺青師ではないか。
明子の頭の芯は怒りの熱で震えていた。
真紀の体にあったものは、あざではない。ましてや蒙古斑でもない。あれは刺青だったのだ。
真紀の小さな体に刺青を入れていた。
たびたび休んでいたのは、それらを入れられていたからではないか。
あるいはそれは小学校に入学する前から行われていたのではないか。
まだあったこともない男の、醜悪な行動に、明子の怒りは沸点に達していた。
「真紀ちゃん」
明子は真紀の手を取った。
「先生と一緒に来てくれる?」
そっと取ろうとした手は、怒りの感情が出ていたのか小さな手を強く握っていた。
真紀は困ったような表情をする。
明子は真紀を連れ、病院へ向かうつもりだった。
小学校付近の小児科である。
その病院は学校の健康診断でも協力してもらった病院で、また虐待児童の案件を取り扱うこともあり、児童保護のノウハウがあった。
明子はなんとしても真紀をここから連れ出さなければならなかった。
今を逃せば、すぐに冬休みに入ってしまう。
そうすれば、真紀は学校という逃げ場を失う。この小さな家で、兄という権力に殺されてしまう。
明子はなんとしても、真紀を救いたかった。
だが真紀は動こうとはしなかった。
抵抗は強くなり、ガタガタとテーブルにぶつかる。コップが床に転げ、踏み荒らした足に埃が立った。
小さな木造の平屋は女性と子供の動きだけでもギシギシと軋み、ドアや窓は振動に震えた。
それらの騒音は外部の音をかき消した。
薄いドアが開く音も、明子の背後に立つ気配ももみ消した。
「おにいちゃん」
真紀がつぶやき、明子が振り向く。
振り上げられた腕に、真紀と同じあざが見えた。
暗転。
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