好きなほうを選んでね

「あら、あなたほんとうに居残りが好きなのね」


 雨音が響く放課後の教室。俺を見つけた先輩は、からかうように肩を揺らした。

「抜き打ちのテストで悪い点取っちまって」

「あなたらしいわ」

 先輩は短く切りそろえた緩い巻き毛を揺らしながら、くすくすと上品に笑う。

 俺には到底できっこない品のよさに見とれてしまった。

 先輩はきれいで優しい人だ。不良な俺にだって、こんなに優しくしてくれる。


 俺と先輩の出会いも雨の日だった。

 今どき珍しい、捨て猫を拾った俺に、傘を貸してくれたのが先輩だった。

 優しい子なのね、という先輩の如菩薩のような笑みはひだまりのようだった。


 お人よし、と野次されることはある。

 昔から困っている人は、それが動物であっても放っておけなかった。

 年齢が上がってくるにつれ、俺のことを偽善者と呼ぶ人が増えていった。

 俺は頭が悪いから、自分が正しいと思っていたことが正しいのか分からなくなってしまった。

 あの雨の日も、捨て猫を拾ったのはたまたまだった。きっとすぐに元の場所に戻していたかもしれない。空き地に見捨てていたかもしれない。

 でも、先輩に優しい子、と言われ、俺の生き方が間違っていないって肯定された気がした。


 先輩とはその時限りの出会いだと思っていたが、先輩はその後もことあるごとに俺の面倒を見てくれた。

 喧嘩をしたときは心の底から心配され、勉強が追い付かないときは手とり足取り教えてくれた。

 申しわけなくて、俺が先輩と関係を持つ価値なんてない、と言ったときには、自分のことを下卑するべきではないと本気で怒ってくれた。

 捨て猫の件が親にばれたときは、先輩も説得に参加してくれた。いつもは話を聞かない親が、先輩の意見にうなずいたことはひどく驚きだった。私はなんでもできるのよ、という先輩がどんなに心強かったことか。

 先輩は本当になんでもできた。

 舎弟を守るためにリンチされかけた俺を助けてくれたときもあった。不良共は先輩の前で一瞬で気絶した。

 俺が先輩に海に誘ったけど一日中嵐の予報のとき、先輩がいきましょうと言った瞬間には晴天に変わったこともある。

 優しい子ね、と俺に言ってくれる先輩はとても強くてなんでもできて、俺のことを見てくれた。

 先輩がいてくれたから、俺は学校も楽しくなったし、勉強も、好きじゃないけど慣れてきた。

 最近は部活にも入り始めた。おかげで不良以外とかかわることも増えた。

 今までは気ににもならなかったガリ勉どもと楽しくしゃべれることも発見した。

 体育祭や文化祭に参加して、みんなで楽しくやるってことがこんなに楽しいんだってわかった。

 世界が好きになったし、先輩が好きになったし、自分も好きになった。


「今朝もお年寄りを助けたって、耳にしたのよ」

「大変そうだったから、ちょっとだけっすよ」

 優しい子ね、と言って頭をなでてくれる先輩の手が心地よかった。

「そういえば、進路のことも耳にしたわ」

「そうなんすか?」

 進路調査を知られていたようで、俺は少し恥ずかしくなる。

「本当に、消防士でいいの?」

「たくさんの人を助けたいんっす」

「まあ」

 まあまあまあ、と先輩は目を丸くする。

「私は心配よ。とても心配。あなたが怪我をしてしまわないか。命に危険がおよんでしまわないか」

「だいじょうぶっすよ。俺、頑丈なんで」

「あなたはいつもそうね」

 先輩は眉を八の字にした。

「あなたになにかあると聞くと、私はいつも死んでしまいそうになるほど心配なのよ」

「そんな」

「大げさだっておもっているの?」

 傷ついた表情の先輩に、俺は口を閉じた。

 進路のことを、先輩に否定されるとは思わなかった。

 進路調査の紙に書いたとき、先輩は褒めてくれると思っていた。

 優しい子ね、と。あなたならできるわ、と。

 けれど現実は違かった。

 俺のせいで先輩は傷ついた。

 消防士は危険がつきまとう職業だ。だから先輩が心配することは当然だったのに。

「でも」

 と俺は視線を泳がせる。

「でも、俺は……好き、だから、将来はみんなを守れるような職業に、就きたい」

 先輩の顔がまともに見れなかった。

 怖かった。

 先輩に嫌われてしまうのではと。もう話すこともできなくなるのではと。


「そう」

 と先輩は俺から離れた。

 足音もなく窓へ向く。

 外は分厚い雲で薄暗い。ガラス窓に反射する先輩の顔は、雨粒が邪魔で見えない。


「しっているでしょう?」

 ふっ、と雨足が止まる。

 雲が渦を巻くように薄くなっていく。

 カタカタカタカタと窓が小刻みに震えた。

 長く見ることのなかった空が覗いた。


「私はなんでもできるのよ」


 そこにはあまりにも見慣れたものがあった。

 あまりにも、あまりにもそれは大きかった。


「あ、あ、ああ」


 月が。


 月が、落ちる。


 ぐんぐんと近づく月は地球の影に入りまるで黒い塊のように空を覆う。

 チカチカと点滅しては消えるのは衝突した人工衛星か。

 やがて大気に触れた月は、摩擦熱に赤く燃え、再び空を塗りつぶすその姿を現す。


「今なら止められるわよ」

 先輩はころころと笑う。

「でもこれを止めるとさすがに死んでしまうわ、私」


「ねえ」


 先輩のきれいな唇が見えた。


「私と世界、どっちが好き?」

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