sieve013 溢れ出る気持ち

僕がサチコの異変に気付いたのは、

ピアリ研究基地が完全に破壊されてしまった写真を見せられたあと。

サチコが吐き終わっても、なぜか体が丸まったまま、

大きく震えだしてからだった。「発作だ!」僕は叫んだ。


「吸引機! 医務室へ!」

痙攣するサチコの体を抱え、ニャット船長がもたれ掛かっていた壁の方を見た。

だがそこには誰もおらず、ニャット船長は消えてしまっていた。

「息、出来てるか!」サチコは激痛に悶えながらも、顔を縦に振った。

少なくとも、今は喉に何か詰まっていることはなさそうだ。

だが、薬が必要だ。僕はサチコを抱えて、急いで部屋を急飛び出した。

すると廊下に、担架と吸引機を抱えた船長が居た。


「担架に乗せろ! 体は横向き! 医務室へ連れて行く。」

僕はそう言われるのを待たず、サチコを担架に載せていた。

「薬を取ってくる!」僕はそう叫んで、自分の部屋に戻ろうとした。

痛み止めのモルヒネ、呼吸を補助するナロキソンと、

神経細胞の毒を取り除くリルゾールの注射キットを、

基地の医務室から持ってきていた。だが、

船長は僕の手を掴んで呼び止めた。


「ナロキソンとリルゾールか?!」

「そうです!」


僕はなぜニャット船長が知っているのか分からなかったが、

とにかくそれが必要だと伝えた。すると船長は、医務室に用意があると言った。

「なら早く医務室へ!」

状況はよく理解できなかったが、少なくとも船長は、今のサチコに必要な治療が分かっているように見えた。

船長は船員室の廊下を艦首の方に真っすぐ進み、そこの突き当りに医務室があった。

着くとすぐに担架を診察台に固定し、薬が入っているであろう棚に向かって飛び跳ねた。その間もサチコは体を痙攣させ、言葉にならないうめき声を押し殺していた。


「彼女にバイタルチェックを!」

「ワーズ。彼女は突発性ASLで間違いないか。」


僕は診察台からケーブルを何本か引っ張りだし、

彼女の体に装着しながら「そうです。サチコは突発性ASLです。」と答えた。

ニャット船長はどうやら医者のようだったが、それでも突発性ASLなんて、普通に知っている病名じゃない。『突発性筋萎縮性側索硬化症』。

ニュージェネレーションと呼ばれる彼女、サチコのような人間だけしか発症しないその症状を、僕たちは突発性ASLと呼んでいた。

能力を使いすぎた時、体の神経細胞になんらかの理由で、発作的に障害が起こる。

神経が過剰に興奮し、ミトコンドリア機能不全、神経細胞のアポトーシスなどが起きる。そして中枢神経と筋肉神経の信号が上手くやりとりできなくなって、呼吸機能の低下、全身の筋肉に激痛、痙攣、マヒなどの症状が表れる。症状は一時的だが、ナロキソンなどの呼吸を助ける薬か、人口呼吸器が必要になる。もしそれが無ければ、呼吸のための筋肉が動かなくなり、じきに命を落とすことになる。


「よし、吐しゃ物は気道に残っていなさそうだ。

ナロキソンを0.2mg。リルゾールを50mg。モルヒネを5mg。静脈注射する。」


ニャット船長は手慣れた手際でアンプルを取り出し、

注射器に取り込んでは彼女の手にどんどん注射を打っていく。

「ワーズ、ナロキソンは追加で要るかも知れない。棚から持ってきて。」

僕は先ほど船長が開けていた棚へ近寄り、ナロキソンのアンプルの詰まった白い箱を取り出し、ニャット船長の隣に駆け戻った。「それよ。ありがとうね。」


僕は薬を船長に手渡すと、サチコの頭の方に回った。

そして彼女の震える右手に手を伸ばし、やさしく覆いかぶせる。

「サチコ。 苦しいな。痛いよな。大丈夫か? しっかりしろよ。」

僕はサチコの顔とバイタルを交互に見ながら、彼女に話しかけていた。

彼女は微笑もうとしているのか、顔を引きつらせ、

僕の目を力なく見つめながら、小さく頷いた。

「そうだな。これぐらいなんてことないな。サチコなら大丈夫だ。」

僕も精一杯笑って、彼女の顔に微笑み返した。

その間もニャット船長は、その細く切れ長な瞳を瞬きひとつもさせず、

バイタルサインと、サチコの呼吸の強さが変わらないか、確認し続けていた。

小声で船長に話しかける。

「どうですか?」

「今のところは大丈夫そうねー。心拍も、少し遅いが大丈夫。呼吸もしてるし、血中酸素濃度も問題なし。」

船長は、少し減ったナロキソンの箱を棚に戻しに、診察台から離れた。

「良かったな。大丈夫だぞ。」

僕は彼女の顔に視線を戻し、

右手で彼女のおでこをそっと撫でた。

いつの間にか気を失っているようだった。

「気を失っているけど、問題ないわ。落ち着いたら目を覚ますと思うわー。」

船長が帰ってきて、診察台の手すりに捕まった。


「あっちへ行きましょう。」

船長が医務室の隅の方を目で示し、そちらに軽くジャンプした。

僕もそれに付いていく。


「サチコを知っているんですか? だから僕らを船に乗せたんですか?」」

僕は単刀直入に訊ねた。

「いえ、そうではないわ。私は彼女は知らない。」

船長は、診察台に備え付けのディスプレイに表示された、

彼女のバイタルサインを遠目に見ながら言った。

そしてただ、と続けた。

「ミライ博士を知っているわ。」


「ミライ博士を?」

「前の戦争の時。私は彼の研究チームに居た。ニュージェネレーションと言われる人のメンテナンスが、私の仕事だった。」


「その人の主治医を?」

「主治医? とんでもない。あのときの私は医者なんかじゃなかったわー。」

船長は斜め上に視線をずらした。

「言われた薬を、言われた分だけ注射するだけの、

機械、ボットみたいなものだったわー。あなたとは違う。」

船長はサチコのほうを少し見つめたあと、ゆっくりと僕の目を見た。

「お金が欲しくてね。」

そう言って、また斜め上に視線をずらした。


僕は彼女を非難する言葉も、慰める言葉も出ては来ず、どうしたらいいものかと黙って話を聞くことしかできなかった。

「無理やり実験体にしていたんですか?」

「それは……」船長は少し口ごもった。

「いいえ。彼は自分の意思で参加していたわ。自分の体がどうなるかも、理解していたハズよー。私も最初は、治験みたいな軽い気持ちだったもの。

人体実験をしているという実感は、正直無かったわ。」


「でも止めた。」

「そうね。」

「お金目的なんて、長続きしないもんだわ。

みんな、もっと崇高な気持ちで取り組んでいたもの。とっても真剣だった。」


「ニュージェネレーションのために身も心も捧げるんだって顔で、データとにらめっこして、戦闘機を改良して、システムを作り続けていた。でも私はある程度お金が出来たら、抜けちゃったわ。中古のかわいい宇宙船を買って、運送屋を始めたってわけ。それがここまで大きな船を動かせるまでなったのよ。凄くない?」

先ほどまでの暗かった表情も一転、目がきらりと光って、

僕に讃辞を期待しているようだった。


「ええ、こんなすごい船を動かしている会社、そうはいませんよ。」

嘘ではなく、本心から出た言葉だった。

ただ、水の密輸のおかげだろうとは、言わないでおいた。


「どこで買ったんですか?」

このパスファインダー1の出所を、さり気なく聞いてみる。

「秘密!」船長は、右手の指を自然な艶のある唇にあてて、小さくウィンクした。

「じゃあ、もう一つの方の質問に答えてくれますか?」

僕はどうして僕らを乗せたのか、改めて問い直した。


「あなたと同じよー。」

「同じ?」

「利用できると思った。今もそう思ってるわー。」

ニャット船長はあっけらかんとしていて、特に悪びれる様子もなかった。


「私はパスファインダーと、船のクルーと、船の積み荷を。L4コロニーまで無事に届けたい。それはお金のためでもあるし、私のためでもあるわ。そのためには護衛のパイロットと戦闘機は欠かせない。だから、それを提供してくれるなら、それ相応の見返りもあげられる。」

「だから追われる身でも匿ってくれる、と?」

「そんなに鬼ごっこが好きなら、コロニーに着いたら、どこへなり行くといいわー。」船長は笑って言った。


「サチコの治療も、そのために?」

「もちろん。」彼女は笑顔で僕の目を見据えて断言した。

「今度は、逆に聞いてもいいかしら?」


声のトーンは変わらなかったが、なぜか嫌な予感がして、僕は言い淀んだ。


「貴方はどうして、彼女と逃げてきたの?」

「それは。」

ピアリ研究基地を飛び出してきたのは、衝動的なものだった。どうしてそう決断したか、僕は今でも自分で答えが出せずにいることを、とても苦々しく思っていた。

「命の重さは測り慣れているつもりでした。」

「自分たちの家族や友人たちの命と、その幸せな人生を守るためなら、それを脅かす外敵と戦うことに、何のためらいが必要でしょう。敵の命も、自分の命も惜しくない。」船長が小さく、外敵、と繰り返した。


「誰かを殺すのを正当化できるのは、そういう時だけです。少なくとも僕はそう考えている。」

「……だから。」


「だから?」

船長は小さく顔を傾け、僕の顔をほんの少しだけ覗き込んだ。

「だから彼女も自分の命を惜しまなかった。自分の父親の幸せと、その父親が願うすべての人の幸福のために、どんな辛いことも受け容れた。」


「ニャット船長はご両親は居ますか?」

「ええ。まだ生きてる。」

船長は急な質問に驚いた様子もなく。静かに答えた。


「ニャット船長の小さい頃の好きな食べ物は?」


「……お父さんが作ってくれるコーンスープが、好きだったわ。

貴重だったパンを砕いて、乗せてくれた。」


「ベッドで一緒に寝たことは? 絵本を読んでもらったことは? 思い出はたくさんありますか?」

僕はなぜか自分が泣きかけていることに気が付いたが、

上手く気持ちを抑えることができないまま、言葉があふれ出していた。


「そのお父さんから、君を殺してもいいか、と言われたことは?

僕はありません。そんなことが想像できますか? 僕にはできない。

逃げるかも知れないし、お母さんに助けを求めるかもしれない。

そんなこと想像もつかない。」


「でも、彼女はそれを受け容れた。なぜならだったから。やっと拾ってくれたその親から、んですよ。それ以外は何をされてもいい、ただただ親で居てくれる人が欲しかった。だから彼女は博士から捨てられるのだけは嫌で、その一心であそこに居たんです。」


「でもそれを誰が否定できますか? 誰が君の父親はクズだからここにいちゃいけないと言えますか? 誰が彼女の父親になってあげられますか? と言えますか?」


「父親のためにと懸命になる彼女を、誰が連れて行くことができますか?」


気付くと、僕は目も鼻もぐずぐずになって、

もうほとんど泣き喚いているような状態だった。

船長は、そんなぼくにそっとハンカチを差し出してくれた。

その船長も両目から涙を流していた。

「君も、孤児なのか?」


「小さい頃にやむなく売られました、母親に。愛されていたと、そう思っています。でも、母は僕を育てる余裕がなくて。だから、イスカンダル社の保安学校に寄宿して大人になりました。母親からはたくさんの人の命と幸せを守れる人間になりなさいと教わりました。」


「だから僕はどうしようもできなくて。」


「でもある日の朝。彼女が発作で倒れたとき。朦朧とする意識の中で、サチコはこう言っていたんです。って。死にたくないって。」


「だから僕は、彼女に、それだけなんです。」


僕がハンカチで顔を拭いていると、ニャット船長が僕と同じように涙を流したまま、僕の目の前で両手を広げていた。

「いいか?」


僕は何も言わずに小さく頷いた。すると船長はその女性にしてはがっしりとした体で、僕を力いっぱいに抱きしめた。お父さんを思わせる力強さと、お母さんを思わせる香りがして、不思議な感覚になる。そして、拭いたはずの顔が、また涙でグシャグシャになっていくのが分かった。

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