sieve012 多すぎた代償

月の北極地。ピアリの海。

ここは地下にたくさんの氷が蓄えられており、

人類の宇宙生活において、

とても大きな役割を果たしている。


たくさんの氷は、最先端の浄水技術によって水へと変えられ、

ここに住むたくさんの技術者、労働者、兵士。

そして、その家族たちの喉を潤している。


そのイスカンダル社の水プラントの周りには、

今では彼らを中心に、大きな経済都市が発達していた。


その都市部から大きく外れたところに、ピアリ研究基地があった。


実用第一で、簡素な見た目をした箱型コンテナが、

体育館ほどもある大きなものから、個人の私室ぐらいの小さいものまで、

大小さまざまのものがモジュール化され、連結されて作られた基地だった。

そこには十数人のスタッフが常駐し、

イスカンダル社の軍、いわゆる保安部隊のため。

基地司令代理であり、研究責任者であるミライ・オーメンパイアー博士のもとで、

ある一つの研究を行っていた。

彼女。ミライ・オーメンパイアー博士の娘である、

ミライ・サチコが居なくなる、昨日の朝までは。




祈祷室で、ミライ博士は祈っていた。

彼の部屋の隣に設置された小さなコンテナは、

この祈祷室のためだけに用意されたものだった。


長方体の部屋は、モジュールとして連結したときの出入り口となる、

両サイドの正方形の面以外は、

全て小さな真っ白のタイルが隙間なく敷き詰められ、

他のコンテナとは全く違う空気が流れていた。

タイルは一つ一つ、まるで陶器のように滑らかに磨き上げられ、

それぞれ小さく薄く文字が彫られていた。


それは、ここに弔われる、身寄りのない犠牲者たちの名前であった。

前の宇宙戦争のさなか、

博士の下で、そしてヘクター大佐の下で、死をいとわずに戦い。

その命を散らしていった兵士たちの名前であった。

戦後、死んだ兵士たちをまとめて、慰霊碑が作られた。

だが、多くの人の命と幸せを守るために進んで犠牲になったにも関わらず、

死して骨を拾われることもなく、ただ慰霊碑を作り、

誰もその人ひとりひとりを偲ぶことはない。

そんな無情な弔い方を、博士は受け容れることはできなかった。


彼は両手をしっかりとつかみ合わせ、

頭にこすりつけるように当てて、静かに祈っていた。

そしてひとしきり祈った後、

ゆっくりと一つのタイルに近づき、指でそっと文字をなぞる。

そこにはMirai Kitty、そしてMirai Sachikoと刻んであった。「キティ、サチコ。」


「ミライ博士、ご無沙汰しておりました。」

扉が開く音がして博士がそちらを見れば、そのたった一つの出入り口に、

ヘクター大佐がその大柄な体で立ちふさがっていた。


「久しぶりだな。ヘクター……。」

博士は目を合わせず言った。


「ええ、まあ。」

「お迎えに上がりました。検体を捕まえねば。」

ヘクターはその大柄な体でタイルを傷つけないように、ゆっくりと部屋に入った。


「ヘクター。もう止めよう。」

博士は、じっと先ほどのタイルを見つめたまま、そう言った。


ヘクターは何も言うことなく、博士の方へ近づく。

そしてその工作機械のような左手で、博士の肩を強く掴んだ。


「おい、こっちを見ろ。」

博士が依然、何も言わずにいると。


「見るんだ!」

祈祷室の中に大きな声が響く。

ヘクターは、今度は両手でしっかりと博士の肩を掴み、博士の体を自分の方へ向けた。


「何が見える?」

声を震わし、ヘクターは訊ねた。


「……」

「何が見えるか聞いているんだ!」

ヘクターは博士の肩を揺さぶった。


博士は肩を震わしながら、顔をヘクターに向けた。

表情は強張り、唇は震えていた。

「……きみの顔が、見える。」


「顔が? これが顔か?」

ヘクターは右手を博士の肩から離し、その指先でゆっくりと自らの顔を撫でる。

顔というには無機質な、まるで陶器のように真っ白な仮面のようなものが、そこにはあった。


「どうだ、顔に見えるか?」

ヘクターはまた両手を博士の肩に戻し、そう尋ねた。

だが博士は何も言えず、ただ押し黙るしかなかった。


「そうだ、これが顔だ。今の私の顔だ。」

「貴方が与えた。この顔も、この体も。」

貴方が一番知っているはずだ、とヘクターは震える声で言った。


「ですが、私は後悔してません。」

ヘクターはその白い顔を、博士の皺の刻まれた顔に、ゆっくりと近づける。

真っ白の面に、目のための穴が二つだけ空けられた、その顔を。

そして博士の鼻先に、自分の顔が当たるぐらいまで近づいて、ヘクターは言った。

「ミライ博士。あなたも、そうですよね?」


「やめよう、ヘクター。」

博士が言い終わる前に、ヘクターは博士を投げ飛ばしていた。


祈祷室の扉の反対側。何も接続されていない出入口の扉に、博士はぶつかった。

扉に設けられた小さな窓からは、月面と、その地平線の向こうにある、無限の黒い宇宙が見えていた。


ヘクターはその大きな両手で、頭を抱え、天井を仰いでいた。

「許されない。そんなことは許されないですよ。」

「私たちがどれほどの命を背負っているか、忘れたはずがない。」


ヘクターは両手を下ろし、こう続けた。

「いいですか、コロンブスとの戦争が近づいてます。もっと急がねば。」

「そんな……。」博士は目を見開き、ヘクターを見た。


「そうです。また人が死ぬ。

罪なき人々と、彼らを守るための兵士が命を失います。」

ヘクターは、でも貴方なら、と続ける。

「貴方ならそれを減らせる。」

ヘクターは、ゆっくりと近くのタイルに近づき、

博士と同じように、指先でタイルの文字を撫でた。

それを他のタイルにも繰り返す。


「また、この者たちのような死が、必要となってしまう。」

「そして、またキティさんや、サチコちゃんのような犠牲が生まれるんです」

ヘクターはMirai Kitty、Mirai Sachikoと書かれたタイルを、息を呑んで見つめていた。

「それだけじゃない、私のマーチェやアステュアも。」

ヘクターは自分の胸のあたりをグッと掴んだ。


「貴方があの孤児に、サチコちゃんと同じ名前を付けたのは、やはりまずかった。

だが私はそれが、あなたの覚悟なのだと思っていました。強い覚悟なのだと。」

「もちろんそうだった。」博士は静かにそう言った。


「だが、もう十分だろう。二十年、彼女で実験した……。」

博士は小さな声で呟き、十分だろうと繰り返した。


「不十分です。」

「実験は佳境だと聞いています。

仮想戦闘では、彼女の読心とパイロットとの接続は上手くいっているハズだ。」


「読心などと言うな。」

博士は声を荒げた。


「あれは心と心の繋がりなんだ。

彼女が心を読むとき、彼女は敵と一心同体なんだ。

あんなものを実戦で使ったら、彼女もパイロットも……」


「そんなことは私が一番知っています。貴方が使い方を教えてくれた。」

博士はうな垂れた。


「もう許してくれ。」

「私は許しています。彼女も、貴方が正しいから、これまで大人しくしていた。」

博士は何も言わなかった。


「実験は続けてもらいます。それが皆の幸せとなる。そして、やがて人類の革新と繋がる。」


「嫌だ。私はもう実験しない。」

博士はヘクターを真っすぐに見定めて、そう言った。


「ダメです。」

ヘクターは右手を振り上げ、博士の下半身目掛けて振り下ろした。

こぶしは博士の右足を文字通りに粉砕した。

さきほどまで一つだった関節が、二つに増えていた。

博士は大きなうめき声をあげて、祈祷室の中を回転していた。


「ぁあ。もう君のような、人間を、増やしたくない……。」

博士は掠れた声を必死に絞り出し、肩を震わし、

それでもしっかりとヘクターの目を見て、そう言った。


「分かりました。」

ヘクターは言った。

「それが貴方の覚悟だというなら、私にも覚悟があります。

理想のためなら犠牲を厭わない覚悟が。」


「どういう、意味だ?」

「ここのスタッフの人数を言ってみてください。」

「なにを、言っている?」

ヘクターは無言で元の扉に戻り、通路のコンソールを操作しだした。


「この基地のスタッフ全員に責任を取ってもらいます。」

博士はヘクターがやろうとしていることに気付き、扉に向けて必死で体を動かした。

痛みに気を失いそうになりながら、それでも急いで祈祷室のコンテナから出ようとしたが、ヘクターはそれを容易く押さえつけ、無造作に祈祷室へ放り込んだ。


「不本意ですが仕方ない。

今日全員と話しましたが、皆どれだけ重大なミスを犯したか、全く分かっていないようでした。

私の直接の部下なら、職務怠慢で銃殺刑です。」


「やめろ! ヘクター。頭がおかしくなったか!

そんなことをしてどうなる! マーチェやアステュアのことを思い出せ!」

博士は必死でヘクターに抵抗したが、かなうはずも無かった。


「ここのスタッフには全員死んでもらいます。貴方を除いて。

これは私にとっても、貴方にとっても教訓です。分かりますね。」

出入り口のシャッターが降りる。


博士が必死に扉をたたき、

小さい窓の向こうのヘクターへ呼びかけるが、

ヘクターは目も合わせなかった。

博士はそれでも諦めず、内側のコンソールから操作しようとしたが。

そのコンソールはいつの間にか画面が割れており、操作不能だった。

博士はなんとかならないものかと、画面を外してどうにかしようとしたが、

その時、急にコンテナが浮かび上がり、コンソールから引きはがされた。

手だけでなんとか小さな窓にしがみ付き、外を覗くと基地の姿が目に入った。

ロックが外れた勢いで、月面から離れ始めている。

少しずつ遠ざかり、次第に基地全体の姿が見えはじめていた。

博士にできることは、もう何も残されてはいなかった。


ヘクター大佐のやって来た船から、レールガンを携えた一機のパラディオンが飛んでくる。

博士の入った祈祷室のコンテナを左手で掴み、右手のレールガンを基地に向ける。

博士はなんとかパイロットに伝わってくれと、そう思いながら必死に窓を叩いた。

「やめろ。やめるんだ。」

博士は自分も気付かぬうちに涙を流し、ただただ、そう叫んで繰り返した。

だが、パラディオンは博士の方を見ることも無く、レールガンを発射した。

ピアリ研究基地のコンテナが、フルオートで順番に射撃されていく。

コンテナがレールガンの軸上に入った瞬間に、まるで発泡スチロールか何かかのように細切れになり宇宙へ離散する。その光景を、博士はただただ見つめることしか出来ないで居た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る