第10話

 エミールはその日、夕方の六時に店を閉めた後、翌日の朝食用のスープの仕込みをするために、一人で店に残っていた。


 静かな夜で、月も出ていなければ、風も吹いていない。なぜか人通りも少ないような気がして、エミールはさっきまでの自分の店の賑やかさが、遠い昔のことのような気分になった。


 全ての作業を終え、戸締りをしようと思っていた時のことである。店のガラス扉の外に、誰かが立っているのに気が付いた。


 その人物も、エミールが自分に気付いたのが分かったらしい。ガラスの向こう側にある顔が、闇夜に咲く花のように、ふっとほころんだ


 エミールの心臓が、一瞬止まった。

 そこに立っていたのは、背の高い、金色のミニブタだった。


「ジュリアーノ…」


 エミールは震える指でガラス扉を開いた。よく見たら他人だったとか、または夢かまぼろしを見たという可能性を考えながら、今度はガラスを通さずにその姿を凝視した。


 本当にジュリアーノなのか、そうでないのか。

 結論が出る前に、口が勝手に動いた。


「とりあえず中へ」


 エミールは、カウンターにジュリアーノを座らせて、熱いコーヒーを入れた。

 不思議と怒りや恨みのような感情はなかった。感じているのは、ジュリアーノへの懐かしさと、頭がほんの少しぼんやりしているような感覚だけだ。


 ジュリアーノが口を開いた。

「エミール、元気だったか」


 その声は、昔と全く変わらない。


「帰ってきてくれて嬉しいよ」

 エミールが言うと、ジュリアーノはわずかに顔をうつむかせた。照れているのだろうか。


 昔のままのジュリアーノだ。

 エミールの胸に愛おしさが込み上げてきた。


 しばらくの間、二人は向かい合ってコーヒーを飲みながら、共通の知り合いやこの街にある店や場所のことを話した。


…フェルディナンドさんはどうしてる?あの人はいつも元気だ。あそこの店、なくなっちゃったのか?移転したんだ。建物が古かったから……


 穏やかな時間だった。

 しかし、会話が進むにつれて、エミールは秘かに戸惑いを感じ始めていた。どうしてそんな気持ちになっているのか、エミール自身も理解できない。


「夕方の船で港に着いたんだ」


 ジュリアーノがこう言った時、エミールは何と返事をしたらいいか初めて迷った。

 とりあえず、当たり障りのない会話で返す。


「この街があまり変わってなくて、かえって驚いたんじゃないか」


 この時、エミールは、自分が困っているのだということに気付いた。

 ジュリアーノの部屋を片付けてしまったせいかもしれない。あの部屋のものは全て捨ててしまったのだ。


「今夜の船で発つよ」


 だから、ジュリアーノがこう言った時、ほっとすると同時に罪悪感を覚えた。


「あとどのくらい時間があるんだ?腹は減ってないか?」


 エミールは思いやりを込めて言った。

 この感情は、決して嘘ではない。さっきより肩が軽いのも事実だが。


 ジュリアーノがゆっくりと顔を上げた。

「エミール、一緒に来るか?」


 笑みを含んだ、美しい目で見据えられて、エミールは思わず息を飲んだ。


 低く甘い声。金色に光る頬と額。男らしい肩。長い手足。

 これまで一度として、エミールはジュリアーノに逆らえたことがない。

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