Track-3.part A群青

私は夜の歩道橋の下、イライラしながらキーボードの準備をしていた。何に関してかって?それはさっき片桐さんが言った言葉を聞いたからに他ならないかった。


「君も聞いた事があるだろう……。彼女の噂を」


「……はい」

私は片桐さんの言葉に、うなづく。

小さな会社だ、人の愚痴や陰口は嫌でも耳に入るのだ。


それは義姉、雪吹遥歌の噂も同様で、彼女をよく思っていない人間からのありがた迷惑の助言をいろんな人から受けているのだ。


それは休憩中、同じ部署の先輩方が姉の事で盛り上がっていた事を思い出す。


『あの雪吹って女、課長と寝たらしいよ?』


『えー、私は社長と寝たって聞いた〜』


『嘘〜、信じられない』


『だからあんな風に威張り散らしていれるんでしょう?自分を守ってくれる人がいるから』


『あー、分かるぅ〜』


『水鏡さんも気をつけたほうがいいよー』

そんな話を妹の前でするなんてどうかしてる。だが、そんな事を言えず、私は先輩方からのいらぬ助言をただ笑ってやり過ごすしか無かった。


が、内心では姉の事を悪く言われ、イライラしていた。


……お姉ちゃんがそんな事するはずないじゃない。何も知らないくせに。


まぁ妹としても真面目すぎる姉には辟易する事が多いし、もう少し、肩の力を抜いてみたら?なんていいたくなる。


それが他人ともなれば尚更だろう。姉は勘違いされやすいのだ。


だからと言って、言っていい事と悪い事がある。何度引っ叩いてやろうかと思ったけど、私以上にお姉ちゃんの沽券に関わる事なので、ひたすらに唇を噛む。


『でーも〜、噂では次は片桐くんに粉かけてるって聞いた事がある』


『えー、取っ替え引っ替えってやつ?』


『そうそう。片桐くん、かわいそー』


『けど、あの子って趣味悪いよね〜』


『片桐くん、お金持ってなさそうだし、何考えてるかよくわかんないよね〜』

そんな会話を耳にし、教育係の片桐さんまで悪口を言い始める始末だ。


結局は一人を見せしめに、ただストレスを発散したいだけのような会話が休憩中、ずっと続いて来たのを覚えている。


「あの人はきっと努力をして今の立場にいる、僕はそれに気がつくのに、1年掛かったよ」


……はっ。

先輩方の会話を思い出して、イライラしていた私を正気に戻したのは片桐さんのその一言だった。


だが、言っている意味が分からなかった。


「……どう言う意味ですか?」


「言葉のままだよ。自分のことで手一杯、俺のいる場所はここでいいのか?なんて悩みに悩んでたよ。だけど、彼女の仕事の姿勢を見ていると、そんな自分が馬鹿らしくなってね。それなら、雪吹さんがいかに楽に仕事ができるかを考えて仕事をしてみよう。そう、思うのに一年かかったって事」


「へぇ〜」

私は片桐さんの視線の先にいる、姉の姿を見てなんだか自分のことのように嬉しくなる。


不器用な姉でも、一人は理解者がいる。その事がとても、嬉しいのだ。


「だけど、君はその事に1週間で気づいた。大したもんだ……」


「いえ、別にそんな事は……」


「謙遜しなくていいさ。ただ、君が心配する必要はない。これは先輩の僕に巡って来た順番ってやつさ。だから、今は力をつけて、将来あの人のように後輩を指導できるようになったらいいよ」


……ズキッ。

私の胸が小さく痛む。


私は中途半端な事をしている。

もちろんお姉ちゃんみたいに仕事ができるようにはなりたい。その反面、早く仕事なんて……とも思う。夢なんてものを追いかけて社会人になりきれない自分がいる事に自分の幼稚さと愚かさ苦虫を噛む。


だけど、双方を両立させるほどの器用さは持ち合わせていない。その証拠に、最近ではなれない仕事かわ終わるとすぐに寝てしまうのだ。


「……好きなんですね」

私の口からポロリと出た言葉に、彼は目を丸くする。


何がとは言っていない。私の意図は仕事が……だ。だが彼は笑いながら、「違うよ」と口にする。


「彼女に憧れはするけど、好きとは違うよ」

彼の視線は再びお姉ちゃんをじっと見る。


「同い年なのに、上の人間に認められる。その真摯な姿勢は尊敬に値するよ。それと同時に、俺とは違う……。自分にはないものに憧れるのはある事じゃないかな?」


……なんとなく痛々しさを含む笑顔。

その笑顔の意味がわかるような気がする。


私が持つコンプレックスをこの人も抱えているのではないかと感じる。


「……分かるような気がします」

私がそう言うと、彼なお姉ちゃんに見せていた笑顔とは違う笑顔をこちらに向ける。


「そうか……。じゃあ、こんな所で油売ってないで帰りな。もう少ししたら嫌でも残ってもらわないとならなくなるからな」


「……はい。お先に失礼します」


私がそう言うと片桐さんは手を挙げて、「お疲れ様」と言って自身のデスクに向き直り仕事を再開する。


その後ろ姿と、仕事を続ける姉ちゃんの姿を交互に見る。


……お姉ちゃんにも理解を示してくれるさ人がいるじゃん。


社内に蔓延するお姉ちゃんへの悪意を気にせずついて来てくれる人がいる事に安堵しながら、会社を後にする。


久しぶりに今日は歌いに行くんだ……。

仕事を初めて、久々の高揚に身を委ねながら、家路を急いだ。


……あの人、来ないかな。

淡い期待を胸にして。


そんな期待を雨はあいもかわらず簡単に打ち砕く。いつもなら落ち込んでしまいそうになる。

が、今の私には関係なかった。


雨が降る事にも慣れ、こんな雨なんて気にならないくらいに今の私はご機嫌なのだ。


「あめあめふれふれ母さんが〜」


キーボードの準備をしながら、発声練習を兼ねて鼻歌まで歌う。側から見たら頭のおかしな人間だ。


だけど1週間のストレスに比べれば、今の状況は

天国だ。


「よし、できた♪」

キーボードの設置を終えて、私はその前に立つ。


この前と一緒で、誰も私に見向きもしない。

だが、関係ない……。


「今日も……、来てくれるといいな。

私はそう呟き、キーボードに手を置く。


すぅー。小さな深呼吸をし、軽く鍵盤を叩く。

ピアノの音が、小気味良い音色を奏でる。


本物のピアノじゃない事を除けば、その音色は私のテンションを上げてくれる。徐々に、徐々に指を動かし、音を確かめる。


来た……。

この前と同じ感覚が……、自分の中でスイッチが入った音がする。


それと同時に、最近覚えたピアノの旋律を流す。

イントロを弾き、一息ついてピアノと同時に声を上げる。


鼻歌を歌っていたおかげか、声がいつもより透っている気がする。


再び、雨の中たった一人の演奏が幕を開ける。

とは言っても、たった5曲しか歌わないだ。


このテンションがいつまで持つか。


これが正真正銘最後の路上ライブ……。

そう言う気持ちで、私は声を張り上げる。


すると向こう側から、足音がする。

その足音に、私は身体を強張らせる。


……あの人かな?

確証はない。そうであって欲しい。


願わくば、私の歌を聞いて……話をしたい。

そう思いながら、私は歌い続ける。


パシャ……。

雨の音とともに、足音が私の前で……止まる。

それと同時に、人影が視界に映り込む。


その姿はこの前と一緒で、雨の中、傘もささず私の歌を聴く……彼の姿だった。


……来た。来てくれた。

喜びに似た感情が、私の胸に宿る。


決して約束をしていたわけでも、私がこの日を告知していた訳じゃない。ただ、今日という日に私がここでピアノを弾き、彼が通りがかっただけなのだ。


だけど、互いに意図してこの場にいるような気がする……。そう考えながら歌い、彼を見る。


……あれ?

この前のように、彼は私の歌を聴きながら、百貨店の壁に身体を預ける。


その雨の中に浮かび上がる彼の姿に……、ある事に気がついてしまった。


雨に濡れた彼の姿に見覚えがあったのだ。

その姿はさっきまで会話していたある人に瓜二つ……。夜の雨の中だ、確証できる訳じゃない。


ただ本人そのものだ。

『片桐奏人です……。よろしくお願いします』

気だるげな表情で、私に自己紹介をする片桐と名乗る男が脳裏をよぎったのだ。


さっきまで優しげな瞳でお姉ちゃんを見ていた表情とは違う、どこか悲しげな表情(かお)が、初めて会話をした日の顔とシンクロしたのだ。


だからと言って、すぐには演奏は止めない。本人であるという確証が欲しかった。


曲を弾き終え、次の曲の紹介をすると、再び曲を弾き始める。その中でも、彼の事を注意深く見る。


すると、集中しきれていない事を察したのか、彼の眉がぴくりと動く。その表情に、私は彼が片桐奏人であるという確証を持つ。


短いながらも彼の下で働いて来たのだ、彼の表情を見る癖はついて来ている。


私が間違えているときは、決まって眉を動かすのだ。


……やっぱり。

改めて、片桐さんである事を確信した私は話しかける決意をする。


自分でも集中しきれていない曲を終え、一礼しお礼を述べる。そして一言、「あの……」と片桐さんに声をかけると、彼は先日のように立ち去ろうとする。


私はそれを阻止するように、再度声を上げる。


「あの……、片桐さん!!」

そう言うと、彼は驚いたのか肩を跳ね上げ、足が止まる……。


雨の降り止まない、夜の出来事だった。





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