Track-2.part B ハルカ

「お腹減ったぁ〜」

午前中の会社の説明を聞き終え、私は自分にあてがわれたデスクに座り、力尽きる。


もちろん、緊張の糸を完全に解いた訳ではない。だが、休憩時間なのだ。少しくらいは息抜きをしても怒られる事はないだろう。


そんな事を考えながら、私はチラッとお姉ちゃんの方を見る。そこにはお姉ちゃんが一人の男性と話している姿があった。


お姉ちゃんの表情は少し目を釣り上げ、何かを注意しているかのようだった。だけど、その表情は私を注意する時のものとはどこか違った。


そして、二人は同じ方向へ向かって歩いて行く。別に連れ添って歩いている訳じゃない。


上司と部下がどこかに行く……そんな雰囲気だった。


「ちぇっ……、ご飯くらい奢ってくれてもいいのに」

そんな二人を横目に、私はデスクに体を預ける。お腹は減っているものの、どこかに昼ご飯を買いに行く気力が湧かない。


「……あんなお姉ちゃん、初めて見た」

先程のやりとりを思い出し、私は独り言を呟く。


「水鏡音愛です。よろしくお願いします」

会社の説明を聞き終えた私が配属される部署で自己紹介をする。


それを聞いた部署の人たちが、パチパチと手を叩く。そんなに大きな会社じゃないから、人数も少ない。


……うまくやっていけるだろうか?

喪女のトリプル役満を自称する私が、心の中で呟いていると、隣に立っていたお姉ちゃん……いや、雪吹さんが言葉を続ける。


「という訳で、今年の新人はうちの部署に配属になりました。分からないところも多いと思うので、皆さんもフォローをしてあげてください」

まるで転校生を迎え入れる教師のような物言いについつい笑いそうになりながら、部署の人の顔を眺める。


話を聞いている人、仕事の準備をしている人、すでに業務に取り組んでいる人……。学校のように全員で「はい!!」などと言う事も、自己紹介タイムなんてあるはずもない。


ただ淡々とお姉ちゃんの話を聞き、それぞれの仕事に戻る。これが彼らにとっての日常なのだ。


そんな人を見ていると、とある人に視線が行く。どこかで見覚えがある人だった。


「片桐くん、ちょっといい?」

不意に横からお姉ちゃんの声が聞こえてくる。


その声に呼応するかのように、「はい」と言って、先程視線を向けていた男性が席から立ち上がり、こちらに近づいてくる。


「あっ……」

私はその偶然に目を丸くしながら、お姉ちゃんのそばに来た男性に視線が離れなかった。


「片桐くん、この前お願いしていたと思うけど、この子を貴方が教えて欲しいの」


「……はい」

お姉ちゃんの言葉に、彼は気だるげな反応を示すと、こちらを向く。


「片桐奏人(かたぎりかなと)です……」

彼が自己紹介と共にこちらに視線を向けると、私に気がついたのか、「あっ……」と、声を上げる。


それもそのはずだ。

ついさっきまで弁償だ、連絡先だと言う話をしていた相手が、目の前にいるのだ。


偶然と言うには恐ろしい……。


「み、水鏡音愛です!!今朝はすいませんでした」

今朝の一連の事を思い出した私は再度教育担当者、片桐奏人に謝罪する。


その謝罪に、彼は罰の悪そうなひょうを浮かべながら言葉を放つ。


「いや、さっきの事はカタがついてるから、気にしなくて大丈夫だよ」


「けど……」

片桐さんはそう言ってはくれるが、やはり気が気ではない。


あのまま別れられていれば、こっちとしても忘れられるのに、神様はなんて理不尽なのだろう。いるはずもない神様(作者)を恨めしく思っていると、彼は軽く頭を搔く。


「……まぁ、気にするな。それより、君の教育担当の片桐奏人です。よろしく」

そう言いながら、彼は右手を差し出してくる。


「あ、はい……水鏡音愛です。ご指導よろしくお願いします」

咄嗟に差し出された手を私も握り返し、握手をする。もちろん、男の人に触れた事の無い私にとってはこの行為自体よくできたものだと思うけど、この時の私は目の前にある状況に対応するのがやっとだった。


だがその行為はとある人物の琴線に触れたのか、どこからともなく黒いオーラ……もとい、殺気が放たれている事に気づく。


「こほん」

小さな咳払いをしたお姉ちゃんが、とてもにこやかな笑顔で私たちの様子を見ていた。


「はい。どうやら相性が良さそうなのでなので安心しましたが……、今は仕事しましょうか?」

そう言うと、広がっていた黒いオーラは私から一人に絞られる。


もちろん、私の教育担当者に……だ。

そのオーラに圧倒されたのか、片桐さんはさっきまで掴んでいた私の手を慌てて離し、それを見たお姉ちゃんも自分のデスクへと踵を返す。


だけどその去り際にお姉ちゃんは片桐さんを睨みながら、「……あと、片桐くんは昼休憩に私のところまで来なさい!!」と言う。


その態度に彼も姿勢を正し、まるで『サー、イエッサー』と言わん勢いで、「はい!!」と答える。


その様子を確認したお姉ちゃんが、自分のデスクに戻ると、片桐さんは不思議そうに頭を捻りながら、自分のデスクに戻る。


その後ろ追いながら、私は『あっ……』と何かに気がつく。もちろん確証がある訳じゃ無い。


ただ、そう感じてしまうのはきっと気のせいでは無いだろう。


「あ、ここが君のデスクね……」

いまだにお姉ちゃんの態度に納得のいかない彼は何かに気がついたように、私の席を告げる。


「は、はい……」

彼に案内されるまま、自分に与えられたデスクに座ると、彼もまた隣の自分席に着く。


「あの……、よろしくお願いします」

お姉ちゃんに気づかれないよう、私は片桐さんに再度、挨拶をする。


それに気づいた片桐さんもこちらを向くと、「あぁ、よろしく」と笑って答えてくれた。


……いい人なのかもしれない。

今朝の様子といい、今の様子といい、そう感じてしまう。だけど、どこか……それだけじゃ無いような気がする。


ふと、お姉ちゃんとのさっきの会話や昨日の電話を思い出す。


『大丈夫……。いい人だから。心配ない、心配ないよ』


『大丈夫だって。私がお願いした人だし、あなたも……』

自分にいい聞かせる言葉や言い淀んでしまった言葉の続きの意味がまだ分からない。


ただ、この人なら安心して仕事ができそうな気がしていた。


その後お姉ちゃんから、私語を慎むよう注意されたのは言うまでもなかった。


「終わった〜!!」

入社して1週間、私は片桐さんの教えを受け、お姉ちゃんの鋭い眼光を受けながら仕事を少しずつ覚えていった。


そして金曜日を迎えた私はストレスに禿げそうになっていた。もちろん、実際に禿げる訳じゃ無い。


だけど、環境の変化は少しずつストレスを蓄積させる。


「はぁ……、歌いたい」

ぼそりと、私は呟く。


今なら優華の気持ちが分かるような気がする。


「お疲れ様……」

そんな私の態度を見てか、片桐さんが私に声を掛けてくる。


「お疲れ様です」


「1週間、よく頑張ったね。今日は早く帰って週末はゆっくりしたらいいさ」


「はい」

基本的に、新入社員は定時帰宅ができるようだ。もちろん、まだ仕事の中身がわからないのに、残業させたところで力になれる訳がない。


だが、彼はいまだに書類をデスクに置き、パソコンを弄っている。


「……残業ですか?」


「ん?ああ……、どんなに仕事が増えた所で、自分の仕事はしなきゃいけないからね」


……仕事、私と言う新人のお守りをしながら、彼は自分の仕事もしている。その事を私は、失念していた。


「……す、すいません」


「ん?」


「いや、私が足を引っ張っているから……」

私がそう言うと、彼はキョトンとした顔をし、そして声を上げて笑い出した。


「な、なんですか?」

その笑い声に、私は不快感を示す。たとえ事実でとしても笑うなんてあんまりだ。


私が不貞腐れていると、彼は笑うのをやめ、私の顔をみる。


「最初から君抜きで仕事の順番は考えているよ。それでもできないのは自分の力量不足さ。君が心配する事じゃない。それに……」


彼はそう言うとゆっくりと私から視線を逸らし、別の方へと向ける。私が彼のその視線を追うように見ると、暗がりの中、お姉ちゃんが真剣な表情で仕事をしていた。


「これでも雪吹さんに助けられている方さ」


「えっ?」


「あの人が仕事を調整してくれるから、僕は君や自分の仕事に専念できる……」

お姉ちゃんを見る彼の表情が苦々しいものへと変わる。


「僕があの人に仕事を教わってだ時は君みたいな感想は出なかったよ」


「えっ?」


「ただ厳しいだけで、なんのフォローもない。君も聞いた事があるだろう?彼女の噂……」


「はい……」

私は彼からお姉ちゃんの会社での姿を聞く事になる……。









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