Track-3.part B 群青

「あの……、片桐さん」

私が声を上げると、彼の足が止まる。


……やっぱり、片桐さんだ。

確証が当たっていた事と、知っている人間であった事に胸を撫でる。


だがそんな私とは裏腹に、こちらを向いた彼は戸惑いの表情を見せる。


その顔はまるで初対面の人を見ているかのようだった。


「どうしたんです?そんな顔をして……」

そう言うと、彼は戸惑いを隠せない様子で、「ど、どちら様でしたっけ……」と呟くように話す。


私はその言葉に口をぽっかりと開ける。

だが、その理由はすぐに分かった。


普段は地味なメイクに結んだ髪、そして黒縁の眼鏡という、まさに隠キャ女子そのものだ。


だけど、今は違う……。

初めての路上ライブをするにあたり、優華と一緒にメイクの猛勉強、猛特訓をしたのだ。


その甲斐もあり、知り合いが私の顔を見て私が水鏡音愛であると言う事に気がつかないと言う事は、付け焼き刃でも……練習してよかった。


私は心の中で優華に感謝をしながら、足元に置いてあるカバンからメガネを取り出して、付けながら、一言を告げる。


「片桐さん、本気で言ってます?それ……」

コンタクトとメガネの併用で悪くなった視界に気分悪くなりながら私がいうと、彼は鳩が豆鉄砲食ったような顔になりながら、「水鏡……さん?」と言う。


「はい、水鏡音愛です」

片桐さんの驚きように、少し気をよくした私は得意げに自分の名前を口にする……。


「……酷いです、後輩の名前を忘れるなんて」


「いや……、まさか君だとは思わなかったよ」

私がわざとらしくそう言うと、片桐さんは慌てた様子を見せる。


会社での気だるげな表情や私を教える真剣な表情とは違う顔が新鮮で、なんとなく揶揄いたくなった。


「会社ではそんな姿を見た事ないから、最初は分からなかったよ。やっぱ、女の子ってメイクをしたら変わるもんだなぁ……」


「私が普段メイクをしていないようないい方。酷いです……」

彼の発言に泣き真似をしながら言うと、彼はますます慌てふためく様子に私は今までにない感覚を覚える。


別に女を出して、彼の気を引きたい訳じゃない。ただ、褒められる事に慣れていない私が少し調子に乗っただけだ。


「す、すまん!!申し訳ない……。あ、これってセクハラに当たるんじゃ……」

片桐さんはそう言うと、ぶつぶつと何かを呟いている。


「心配するところってそこですか?」


「そりゃ、先輩が後輩の外見にとやかく言うってセクハラに該当しそうじゃないか?」


「まぁ……」

近年、上司、先輩がセクハラ案件で訴えられることの増えたご時世だ。彼の発言を不快に思う人もいるだろう。


だけど、私は気にしていない。そんな事で訴えていたら、世の男性と話すことなんて出来なくなるじゃないか!!


まぁ、元々男性が苦手な私が話す相手と言うと、お父さんか片桐さんしかいないのだけど。


……自分で言ってて悲しくなる。


「そんなに気にしなくても、大丈夫ですよ。訴えませんから……」


「そうか……」

私が言うと、片桐さんはあからさまに安堵の表情を浮かべる。だが、安堵させた後に落とすのも楽しいもので、私は悪い笑顔を浮かべ、「まぁ、頂けるものを頂ければ……、ですけど」と、親指と人差し指で円を描く。


その様子に彼はショックを受けたのか、自分のポケットを弄り、財布を取り出す。その姿に、さすがの私もあわてて止めに入る。


「じょ、冗談ですよ、冗談!!まさか、本気にしないでくださいよ!!」


「いや、そう言いながら後から爆発するパターンもあるじゃないか!!幾らだ、幾ら欲しいんだ?」

まさか、片桐さんがこんなに冗談が通じない人だとは思わなかった。


「いらないですって!!あー、もう、めんどくさいなぁ……」


「ほんとに?」

私の言葉に半信半疑な彼は、涙目になりながら、まるで子犬のような目でこちらを見つめてくる。


……一体、彼にどんな過去があったのかをこちらが疑いたくなるほどのビビり様に、慌てるを通り越して呆れてしまう。


「ほんとですって。だから早く財布をしまってください。そんな濡れたお金なんていらないですよ」


「そ、そうか……」

そう言いながら、彼はチラチラとこちらを見ながら財布をしまう。


「それより片桐さん……、今帰りですか?」


「ん?あぁ」

財布をしまい終えた彼がようやくまともに会話を返してくる。


「遅くまで、お疲れ様です」


「ん、ありがとう……」


「すいません、手伝いができなくて」


「あぁ、気にするなって言ったろ?」


「……はい」

職場の先輩モードになった彼が、優しい口調で私を諭す。


さっきもこの話をしたばかりなのだ。これ以上はこちらも何も言わない。けど、気になることがいくつもある。それを聞くチャンス到来だ。


「けど、なんで傘を差さないんですか?雨なのに……」


「いや、雨が最近よく降るじゃん?そんな日に限って、傘を持ってないんだよ」

あはは……と、片桐さんは乾いた笑いを浮かべる。


まぁ、確かにそうだ。

私もこの雨に悩まされてはいる。


だけど長年の雨女が身についたせいか、いつでも折り畳み傘は常備している。ましてや今なんて、来るまでは雨が降っていないにも関わらず、大きめの傘をキーボードを入れる袋に忍ばせているのだ。


雨女、ここに極まれり……だ。

だけど、一般人にとっては迷惑この上ないだろう。私が悪い訳じゃないけど、なんとなく申し訳なくなる。


「なんか、すいません」


「……?何が?」

ついつい溢れる謝罪に彼は首を捻る。


「いえ、何でもないです。それより、なんで傘を買わないんですか?」


「いやー、毎回傘を買ってたら勿体ないじゃん?あれも募るとバカにならないし、傘で家が一杯になるよ」


「確かに……」

私は彼のその言葉に納得する……が、腑に落ちる説明ではない。


「じゃあ、何で走らないんですか?」


「…………」

彼はしばらく無言のまま、何かを考えている。が、返ってきた言葉は、「さぁ……」の一言だった。


「……さぁって」

返ってきた彼の答えに、私は呆れてものが言えなくなる。


それでなくても雨で服が濡れるのに、スーツが濡れたらシミになるかもしれない。


確か、この前路上ライブをした時は違うスーツだった気がするから、雨に濡れる度にクリーニングに行かないといけない事を考えると、傘を買う以上の出費と手間がかかるはずだ。


だけど、彼は敢えてそれをしていないように思えてしまう。


「傘は……、嫌いなんだよ」

そう言って、彼はどこか悲しげな表情を浮かべる。そんな人も世の中にはいるかもしれない。


だけど、ならばなぜそんな顔をするのだろう?

私は彼の思いが分からず、「そうですか」と言う他に言葉は見つからなかった。


「けど、雨が降ったおかげで君の歌に出会えた」


「えっ?」

その言葉に、私の胸が脈打つ。


「雨のおかげで、偶然君の歌っているところに遭遇できたんだ。……この前も」


「じゃ、じゃあ、この前もやっぱり片桐さんだったんですか?」


「ん?あぁ、そうだけど……」


「ほんとですか?じゃあ、この前の歌は……どうでした?」

初めての路上ライブで足を止めてくれた人が、再度私の歌を聞きに来てくれた。そのことが嬉しくなり、早口で感想を尋ねる。


だが、彼はしばらく何も言わず、雨と車の走る音だけが響き渡る。


「……緊張していたね」

彼の口から放たれたのはその一言だけだった。

その答えに、私は肩を落とす。


「やっぱり……、そうですか」


「緊張するのは仕方ないよ。ただ、もう少し肩の力を抜けばいいのにとは思った……、かな」


「仕方ないじゃないですか。初めての路上ライブで初めてのお客さんなんですよ?必死でしたもん……」


『行かないで……、私の歌を聴いて……』

あの時込み上げてきた思いがフラッシュバックする。


そんな落ち込んでいる私を、彼は驚いた顔で見ながら、「初めて……?あれが?」と呟く。その言葉に、私はうなずく。


「じゃ、じゃあ、次の曲はどうでした?次の曲はよく歌えたと思うんですよー」

私の言葉に、彼は何も言わず、体をこわばらせる。だけど、そんな様子に気づく事なく、私は胸に溜まり続けた言葉を続ける。


「あの曲が歌いたくて、路上ライブを始めたんですよ?これが最初で最後だーって気持ちで」

だが彼はその説明を聞いてもなおも無言だ。


「……う〜、やっぱり歌いたくなってきた」


「えっ?」

募る思いに堪りかねた私が立ち上がり、思いを吐く姿に、ようやく彼は反応した。


「この前最後に歌った歌ですよー。あの曲が好きなんで!!」


そう言うと、私は再びキーボードの前に立ち、歌う準備をする。そして、自分の中のその歌のイメージで鍵盤を叩きながら、イントロに移行する。


そして、初めてたった一人のために歌を歌った。私の一番好きな歌を、心のままに歌った。


それが、その曲を作った本人とは知らずに……。

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