第9話

「沙夜菜、ほら、ベッドついたよ?」

適当に部屋を選んで、何とかここまで辿り着いた私は右腕に絡みついて離れない沙夜菜に声をかけた。


「…ん」

全く動こうともしない沙夜菜は相変わらず眠そうで、反応する声もか細くて頼りない。


「ベッドだよ?座ろう?」

ゆっくりとベッドに腰掛けると、その動きにつられて沙夜菜もベッドに腰掛ける。沙夜菜は相変わらず右腕に絡みついたままで、一向にベッドに寝ようとしない。仕方がないのでそのまま後ろに倒れ込むとやっぱり沙夜菜も私につられて倒れ込んだ。


……ちょっとかわいい。、


「困った」

でもこれじゃ帰れない。帰れないのは別にいいんだけど、ちょっと今の状態は刺激が強すぎるのだ。顔を横に向けると綺麗なお人形さんが無防備にスースーと寝息を立てている。長いまつ毛に薄いくちびる。寝顔まで美術品のように綺麗で見てるだけでもドキドキする。


「さやな〜、ねた〜?」

横で寝息を立てているお人形さんに聞いてみる。

「……」

返ってくるのは規則正しい寝息だけ。寝転んでまだ数分と経ってないけど、やっぱりだいぶ眠かったんだろう。だけどこの寝付きの良さが今はありがたい。だってこの密着度で長くいると私の理性が耐えられないんだもん。早く寝てくれた方がいい。


正直まだ手を出していないだけでもだいぶ頑張ってる方じゃないかな??いや頑張ってる。私は頑張ってるよ。


……。


…そろそろ帰ろう。

沙夜菜の気分も悪くはなさそうだし、なにより沙夜菜を置いたらすぐに帰ると言ってここに連れてきてるんだから。約束を破るわけにはいかない。


「さやな、私もう帰るね。お金は置いとくからそれ使いな」

囁き声で話しかけて腕から抜けようとする。


……。


……っっ!


…………ふんっっ!!!


……ぬ、抜けない!!!


力を入れて腕を抜こうとすると、何故か沙夜菜の絡みついてる腕に力が入って私を離さない。


「ふぅ。、どうしよ。」

……こうなったら可哀想だけど沙夜菜をちょっと起こそう。



「沙夜菜、起きて…?」

「…」

「…沙夜菜これじゃ帰れないよ」

「…」

「さやなちゃん〜?」

お人形さんのほっぺたをしつこくつつく。


「さやなちゃん、起きないと悪戯しちゃうぞ〜」

なおもつつく。すると少しだけ柔らかいほっぺたに力が入ったような気がした。


…さてはこいつ、。起きてるな??


年上のお姉様を無視するとは生意気な奴め。

「さやなちゃん!!起きてよぉぉ!!!!!」

耳元でそう静かに叫ぶと切れ長の目がうっすらあいて私を睨みつけた。

「……らむぅ、うるさぁぃ。、」


やっぱり起きてる。


「狸寝入りさやなちゃん、らむはもうかえるよ?」

「…なんで」


さっきの甘い声から一転、低くなった不機嫌な声。


…あれ、、ちょっと怒ってる。


「沙夜菜具合悪くなさそうだし、最初にホテルに置いたら帰るって言ったじゃん」

「…なんで」


また不機嫌そうな声。なんでって沙夜菜ちゃんあなた。、


「……沙夜菜に、へ、変なことするかもよ??」

こうなったらと自傷覚悟で脅かしてみる。いくらガードが完全に0の今の沙夜菜でもこれなら少しは警戒して納得してくれるだろう。


「変なことって?」

返ってきたのは少し輪郭を取り戻した甘い声。

それを発する口元は少し微笑んでいて、切れ長の目が揶揄からかうように細められる。ホテルのネオンカラーが映る綺麗な瞳の奥で、見たこともないなにかが揺れた気がした。


「……よっ、夜這い、とか…?」

嘘でしょ何言ってんの私。キスとかもうちょっとかわいいものあったでしょ???沙夜菜になんてこといってるの。


「んふふ、。らむがぁ?わたしによばい〜??」

なかなか最低なことを言ったのに、沙夜菜は楽しそうに笑って繰り返した。さっきよりも眠気が少なくなったのか、その瞳はまっすぐに私を捉えている。なぜか、その瞳から目を離しちゃいけないと思った。


「しないよ」

程なくして沙夜菜がそう口を開いた。

「らむはわたしのこと、だいすきだもん。そんなこと、しないよ」


静かにそう続けた沙夜菜の細い指が私の左手の指を絡めとって、半身を起こしてた私を自分の胸の上にいざなった。


「だから、このままねよ?らむ。朝まで傍にいて」

お願いというには少し命令口調の甘い言葉が私の鼓膜を刺激する。


「いや?」

そう短く問いかけて世界で一番可愛いお人形さんは私の髪を優しく撫でた。


――沙夜菜はずるい。


貴女にそんなことを言われたら、私が断れないってわかってる癖に。


言葉にするときっと色んな感情が溢れるから。もう止められなくなってしまうから。沙夜菜をきっと困らせてしまうから。


私は静かに首を横に振って、沙夜菜の胸に顔を埋めた。


「おやすみ、らむ」

沙夜菜の身体が震えて、優しい声が空気を揺らす。寒さが残るこの季節の夜も、貴女と2人でいれば寒くないのだと私は知っている。






「さやちゃん、忙しいのかなぁ……」

ホーム画面に数える程しかないアイコンを押して、メッセージアプリを開いては消してという単純な作業を何度も繰り返す。


「こっちから連絡しても嫌じゃないかなぁ……」

何度やり直しても、待ち人からのメッセージは届かない。その事実に不安と焦りがおりのように沈殿ちんでんして胃が重たく沈んだ。


1週間ほど前に変わったばっかりのこの携帯は前のものより少し重くて、片手で弄るこの右手にはこの重さがまだ馴染まない。でも、前の携帯より増えたこの携帯の数g程の重さはきっと『幸せ』の重さなんじゃないかと、ふとそんな風に思った。


新しい携帯を貰った時に、前のものは丸ごと捨てた。あの中に入ってる大事なものは学生時代の写真と、さやちゃんの連絡先くらいだったから。かつて大量のが居たこのメッセージアプリには、今はさやちゃんだけが登録されている。ちなみに電話番号に登録されているのもさやちゃんだけだ。


――この携帯を親友のさやちゃんから買って貰った前日。


私、東雲しののめ日南ひなみは、夕立ゆうだて沙夜菜さやなの『所有物』になった。


『所有物』とは、言い表した通り『物』だ。恋人になった訳ではない。

つまりは『貴女は私のもの』という様なセリフで示される『もの』ではなく『物』だ。ニュアンスが違う。


例えれば、私はさやちゃんの部屋に存在する、お洒落なアンティークのお人形さんや、ベッドとかお皿とかそういうものと同じ。


正しく『物』だ。


超お金持ちのさやちゃんが持ってる『物』の中で『東雲日南』という所有物が最も価値が高い。なんたって、私の値段は『700万円』だ。


こんな中古を欲しがるなんてやっぱりさやちゃんは優しい。優しくて優しくて、凄くかっこよくていっつも私を助けてくれる…。


優しいさやちゃんはお母さんが遺した借金とおんなじ額で私を買いとってくれた。借金で苦しんでる私を見かねて助けてくれた。とんでもないお金を、なんの躊躇いもなく私の為に使ってくれた。私にそんな価値なんて無いのに、当たり前のように救いの手を差し伸べてくれた。


こんなに汚れてしまった私をそれでも『欲しい』って言ってくれた。


嬉しかった。嫌いにならないでくれた事も、昔と同じように接してくれた事も、700万円なんて私が数百回身体を売らないと手に入らないお金をなんの躊躇いも無く出そうとしてくれたことも。もちろん嬉しかった。そんなの当たり前だ。


でも、それでも。


さやちゃんが『私』を求めてくれた。

『欲しい』って言ってくれた。


たったそれだけのことが一番嬉しかった。

さやちゃんにまだ求めてもらえるのが、何かを返せるかもしれないことが堪らなく嬉しかった。



だから私は私を売った。


余りにも図々ずうずうしいと思いながらも700万円という法外な値段で。



それから1週間で、わたしを苦しめた借金は消え去った。まるで、何かの間違いだったかのように、余りにも呆気なく。


あの借金さえなければ、好きな仕事をクビになることも、好きでもない人間に抱かれることも無かった。


……綺麗な私を、さやちゃんにあげれたのに。



「……そう、じゃ、ないか」

私が会社をクビにならなければ。クビになったことでお金がどんどん返せなくなって、身体を売り始めなければ。そもそも、借金がなければ。私は、あの日、あの時、あの場所にはいなかった。さやちゃんにもう一度会えなかった。


「皮肉だなぁ……」

あまりにも皮肉だ。借金のせいで私の人生はめちゃくちゃになったのに、その借金のおかげで私の人生はこれからの『幸せ』を約束された。


だってそうだ。

さやちゃんに買い取って貰えたならそれは世界一幸せなことだ。だって、さやちゃんは高校の頃から物を大切に扱う。しかもお金持ちなのに、物持ちが良くて気に入ったものは長く愛用してくれるんだ。


つまり、私もさやちゃんに気に入って貰えれば長く使って貰えるんだ。そんなのは幸せに決まってる。



だからこそ私は焦っている。


……1週間前に携帯を貰ったきり、さやちゃんからの連絡が来ないのだ。、


さやちゃんに気に入って貰わないと。使ってもらわないといけないのに。所有物になってから1度も呼び出しがかかってない。、


なんでもいいから使って欲しい。さやちゃんに必要とされたい。料理、掃除、洗濯、裁縫、性欲処理。なんでもいい…。

でも、こちらから連絡するともしかしたら嫌われてしまうかもしれない。鬱陶しいと思われるかもしれない。そんなのは耐えられない。


だから結局今は待つしかない。


わかってる。わかってるけど……。



「さやちゃん……」


数秒後。


そう呟いた声に反応するように右手に持っていた携帯が短く震えた。画面上部に通知されているメッセージには短く完結に。


『ひな、たすけて』

と書いてあった。

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