第8話

「はぁ!?!?親友を買った!?!?」


びっくりしすぎて大きくなった声は、バーの空気を一瞬だけ凍らせたあと、すぐに他の客の話し声に押し流される。


私に向いた視線がすぐに興味を失ったかのように定位置に戻っていくなか、私は決まりの悪そうな少し嬉しそうな、まぁなんとも言えない表情をした沙夜菜の顔をまじまじと見つめた。


「……うん、、」

目を逸らしながら答える沙夜菜に深くため息をついた。


「なにが。どうなれば。親友を買うことになるのよ??そもそも買うって何?売春とかそういう事??」


思い出すのは一週間ほど前に見た、沙夜菜の想い人である日南という子の姿。


あの日、沙夜菜を送っていったはずの私は夜のホテル街に放ったらかしにされた挙句、沙夜菜からの連絡も返ってこず、この時間帯なら居るだろうと訪れたいつものバーで、いつもの席にいた沙夜菜にその後を聞いた結果がこれだ。ため息をついてしまうのも仕方がないと思う。


「いや!!ち、ちがっ!!!!いや、違わないけどっ!違う!!!!」

変に焦った声の沙夜菜は相変わらず人形のように綺麗な顔を赤くしながら、首をぶんぶんと横に振る。


「どっちなの。」

「違うけど。、ち、ちがわない、です…?」

…全然答えになってない。

それにしても、久しぶりに会った初恋の人の身体を買うってあまりにも発想がぶっとんでる。普段のクールな沙夜菜からは絶対に出て来なさそうな突拍子もない発想だ。お金持ちのお嬢様はやっぱりどこかズレてるのか…?と失礼なことがちょっと頭に浮かんだ。


「それで、どうだったの??はじめて。あげたんでしょ。」

自分でもわかるくらいに、口から出た言葉は不機嫌という感情で綺麗に梱包されている。

好きな人の身体を、5年間も放ったらかしにしてたような女に突然奪われたのだ、しかも相手は一度沙夜菜を振ってるときた。気分はよくない。とっっってもよくない。


「あ、あげてないもん、。」

沙夜菜の顔が少しへなっとして、その様子にちょっときゅんとしてしまう。まだ、沙夜菜の貞操は無事らしい事にほっと胸を撫で下ろした。


「なに、身体買ったのにさせて貰えなかったの?それとも勇気が出なかったのかな沙夜菜ちゃん??」

絶対に後者だろうなと思いながらも一応聞いてみる。


目の前にいる夕立沙夜菜ゆうだてさやなという女の子は、基本的に無表情を貼り付けている人形のように綺麗な顔立ちと抜群のスタイルを持ち、有名政治家の娘でお金持ちのお嬢様、しかも多才で天才。普段は物静かで思慮深く、面倒見も性格もいい。ついでに甘えたなところもかわいい。


まさに完璧…。に見えるが、その実はお酒と恋愛事にとことん弱い。特に恋愛事。いつも漂わせている美人ゆえの威圧感は、日南という子の事になると霧散しただの女の子になる。いや、『ただの』ではなく『ヘタレた』女の子だな。



「ち、ちがっ…」

「何が違うのよ。どうせ何も出来なかったんでしょ?」

「き、キスはしたよ!!」

「……へぇ。キスはできたんだよかったじゃん。」


よくない。全然よくない。相手はビアンじゃないって話してなかった???


「でしょ!!」

無邪気に笑う沙夜菜の顔はすごく嬉しそうで、胸の内に湧き上がった嫉妬心をなだめられてしまう。そんな顔で笑われると何もかも許しそうになるからずるいなんて思いながら、お気に入りのお酒を口に含んだ。





ピーク時から時間のたった店内の喧騒は落ち着きを取り戻し、今やマスターと私と目の前でどろどろになってる沙夜菜だけになった。


そしてマスターが「そろそろ閉めるから沙夜菜ちゃん起こしてて」と催促してきたのがもう10分前だ。ずっと声をかけているがどろどろの沙夜菜は声に呻き声で反応するだけのスライムになってしまった。


「さやなぁ…。起きてよ〜。、もう帰ろー?」

横で私の腕を抱いてる沙夜菜の顔を覗き込むと虚ろな目がやっと私を捉えた。よほど初恋相手に会えたのが嬉しかったのか、初恋相手を買えたのが嬉しかったのかわからないけど、飲みすぎたようで普段から考えられないほど甘えん坊になった沙夜菜はベッタリと私にくっついている。

そのせいで私の心臓はきゅんきゅんと嬉しい悲鳴をあげっぱなしだ。



「らむぅ……?」

私を見つめた沙夜菜がふいに私を呼ぶ。蜂蜜のように甘い声が鼓膜を揺らして、お酒のせいで赤くなった顔ととろんと溶けた切れ長の目が私の自制心を刺激する。


「…なに、どうしたの」

あまりに可愛すぎて、にやにや上がる口元を頑張って引き締める。


「もうかえろぉ〜?」

さっき私が言った言葉を沙夜菜がもう一度口にした。その様子があまりにもかわいくて、我慢できずに頭を撫でると沙夜菜は嬉しそうに目を細めた。


さらさらの黒髪をくとぐりぐりと頭を胸に押し付けてくる。


「さやな、かわいい…」

子供みたい。、


「…はいはい。帰ろうね。私はお会計あるからここでちょっとまっててね」

「やだ」

「えぇ?帰れないよ?」

「…やだ。」

「んんっ…。、ね、沙夜菜。すぐ戻ってくるからお願い。いい子にしてて?」


普段の様子からは考えられないほど甘えん坊に進化(退化)した沙夜菜は、わたしの言葉にむすっとしてしぶしぶ拘束をゆるめてくれた。


普段の態度がちょっと冷めてる分、こんな風に甘えられるとあまりの落差でやられてしまう。


『ごめんね』と頭を撫でて会計へと向かう。



「…っっ!!!マスターッ!!やばいよあれ!ちょ〜〜かわいいっ!」


このかわいさを誰かに共感して欲しくて、たまらず困り顔のマスターに吐き出す。泥酔した沙夜菜は1人では抱えきれないほどかわいくてえっちだ。


「ちゃんと送ってやんなよラム。沙夜菜ちゃん、今ならだれでもお持ち帰りできるぞ」

マスターは少し笑いながら顎でくいっと沙夜菜の方を示した。


「うん。分かってる!」

今の沙夜菜をひとりでホテル街に放り出すなんて危なくてできるわけが無い。きっと今の沙夜菜を見たら、餌に群がる鯉のように男共が寄ってくるに違いない。男だけならまだしも今の沙夜菜の色香なら普通の女の子だって誘き寄せてしまいそうだ。


私は会計を済ませてから、いい子で待っていた沙夜菜の手を引いてバーを後にする。



沙夜菜は相当眠たいらしく、バーから出たあとこくりこくりと頭を揺らしながらも私に手を引かれて何とか歩いている。


「沙夜菜、大丈夫?もう眠い?」

「…ねむ、い」

「ごめんね沙夜菜、もう少しだけ頑張ろう?」

「…むり、、」

沙夜菜の目はほとんどもう閉じていて今にも眠ってしまいそうだ。手を引かれることで何とか前に進んでいた足も次第に動きが悪くなり始め、ついには完全に動かなくなってしまった。


「…おやすみぃ。、」

「え、ちょっ……」

沙夜菜がふいに近づいてきて私の胸に顔を埋めながら呟いた。ホテル街の真ん中で完全に寝る体勢に入ってしまったようだ。沙夜菜のマンションまであと半分はある。


男ならこんな時沙夜菜を抱っこしてお家に連れて行ってあげられるのになぁ…。


胸に埋まる沙夜菜の頭を撫でながらそんなことを思った。


でも生憎私は女だし、沙夜菜よりも背が小さい。おんぶをしても沙夜菜の長い足を地面に引きずることになる気がする。沙夜菜は限界っぽいし…。


となると……もう。ラブホ、しかない…よね…?


いや、でも。、さすがにっ、普通の友達ならいいけど、私も沙夜菜もビアンだし、。

うーーん。、


「…さ、さやな、も、もしね?もしよかったらなんだけど、ラブホ、いく?」

「……らむのえっちぃ。」

胸の中から這い出てきた沙夜菜にジトッとした視線を向けられた。


「違うよ!?!?へ、へんなことはしないし!沙夜菜を置いたらすぐ出てくからさ!!沙夜菜もう限界そうだしっ。…すこしだけ、休まない?」

「……いいよ」

「……えぇ!?いいのっ!?」

どうやら沙夜菜は相当おねむみたいだ。普段の沙夜菜なら、何を言おうともホテルに連れ込まれるなんてことはまず絶対にありえない。


…今日ばかりは日南さんに感謝だ。こんな可愛いで沙夜菜を見られて、べったり甘えられて、おまけにホテルにまでついてきてくれる。、まさに天国。


「な、ならいこっか…?おててつなご?」

「…ん。」

そう言って手を伸ばせば、沙夜菜はなんの躊躇いもなく私の手を握ってくれる。お酒を飲んで酔っている沙夜菜の体温は温かい。


ど、どうしよ!さやな、ほんとにかわいすぎるっっ!!


人混みを避けるようにして、道の端っこを歩く。沙夜菜の歩くペースは未だに遅く、それでも確かに私達はホテルへと向かっていた。


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