第41話 タンジョウビ

『今度、お屋敷で私のお誕生日会があるのだけれど、来てくれないかしら?』

『お誕生日会!? いくいくー!』

『ぜひ参加させてくださいまし!』


 ヒストリカが初めて『誕生日』という単語を認識したのは五歳の頃。


 両親がとあるパーティに参加した際、子供の遊び場でひとり絵本を読んでいる時に、同世代の令嬢たちが話をしていたのがきっかけだ。


『たんじょう、び……?』


 聞き慣れない単語に、彼女たちの話に耳を傾ける。

 どうやら誕生日には、自分が生まれた日を家族や友人たちと盛大に祝う、何やらキラキラして楽しい会が催されるらしい。


 それまでのヒストリカにとって、誕生日というものは『自分が生まれた日を周囲が伝えてくれるだけの日』という認識だった。

 

 友人もいないし、家族からも特別な扱いを受けたこともない。

 使用人と擦れ違った際に『誕生日おめでとうございます』と声をかけられるくらいだ。


 何がおめでたいのか、ヒストリカにはわからなかった。


 とはいえ、物心がついたばかりのヒストリカは、誕生日会というキラキラしてて楽しい催しに興味が湧いた。

 早速屋敷に帰った後、父ベネットに申し出てみた。


『お父様、私も誕生日会をしてみたいです』

『誕生日? ああ、確かもうそんな時期か……』


 ベネットは面倒臭そうに頭を掻いた後、睨むような目線をヒストリカに向けて言う。


『それよりも、この前与えた課題は出来たのか?』

『いえ、まだ……』

『まだ終わってないだと!?』


 ベネットの叱責に、ヒストリカはびくりと震える。


『やるべき事もやっていないのに、誕生日がどうこう言うんじゃない!』


 声を荒げられて、ヒストリカの中にあった誕生日会への期待はどこかへ霧散してしまった。


『申し訳ございません、お父様……』


 深々と、ベネットに頭を下げるヒストリカ。


 後に残ったのは、父を怒らせてしまった事に対する後悔、恐れ。


『いいか、ヒストリカ。誕生日会などというものは時間の無駄だ。それよりも、お前にはもっとやるべき頃がある。常々言ってるから、わかるだろう?』

『はい……わかります。もっと勉強を、頑張ります……』

『それでいい』


 満足げに、ベネットは頷いた。


 以来、ヒストリカは両親に誕生日の話題を出す事を止めた。


『誕生日の事を親に話すと怒られるんだ』『誕生日会というものは時間の無駄なんだ』という認識が、ヒストリカの中で生まれた。


 それ以降も、両親はヒストリカの誕生日について触れる事はなかった。


 使用人からの『誕生日おめでとうございます』だけが唯一、自分の誕生日を思い出すきっかけとなった。

 使用人たちも社交辞令で言ってるだけ、特に意味はない。


 そういうものだと思っていながら、時が過ぎていった。


『ねえねえ! 今度、お屋敷で私のお誕生日会があるの! 来てくれないかしら!?』

『まあ! アンナ様のお誕生日会!? 是非行きたいわ!』

『アンナ様もついに十五歳ね! きっと素敵な誕生日会になるわ!』


 貴族学校時代。

 教室で、クラスメイトの女学生らがそんな会話に花を咲かせている。


(誕生日……)


 帰り支度をしていたヒストリカの手が止まる。

 しかしそれは一瞬の事で。


(私には、関係のない話ね)


 鞄を手に、ヒストリカは教室を出た。

 ガヤガヤと騒がしい学校の廊下を、ひとり歩く。


 ひと匙のスプーンほどしかない誕生日への興味は、すぐに今日のテストの結果へと変わっていた。


 父に言いつけの通り、今回のテストも学年一位。

 これなら叩かれる事は多分ない。


 しかし満点を逃してしまったので、長時間の罵声は免れないだろう。


(そういえば……)


 ふと、思い出す。

 自分の誕生日が、明日だった事に。


 だからと言って何があるわけでもない。

 誕生日会の予定もなければ、親が特別祝ってくれるわけでもない。


 学校のある、ただの平日である。

 毎年の事なので、今更何か感慨があるわけではない。


 別に誕生日会を開いてほしいとも、祝ってほしいとも、もはや思わない。


 それがヒストリカにとっての、当たり前だから。


(……でも、何故でしょう)


 ぴたりと立ち止まって、廊下から見える景色を瞳に映す。


 どんよりとした曇天。

 豪華な造りだが、どこか色褪せた校舎。

 

 眺めていると、胸の中で、もの悲しくて冷たい風が吹き抜けてる感覚がした。




 ──しん。




 急に、周りの音が消失した。


 先ほどまで鼓膜を震わせていた放課後の喧騒はどこへやら、水を打ったような静寂が舞い降りる。


 辺りを見回す。


 誰もいない。


 自分以外、誰一人としていない。


 ヒストリカだけが、妙に広い廊下でひとり、佇んでいる。


 歩く。


 教室にも、昇降口にも、放課後は賑わっているはずの裏庭にも、誰もいない。


 誰もいなかった。


 ヒストリカは、ひとりだった。

 

 急に全身を襲う悪寒。

 胸を裂かれるような孤独感。


 この世界から、自分という存在が誰からも認識されていないような、絶望。


 遠い昔に蓋をして、感じないようにしていた感情が溢れ出す。


 溢れ出した感情は、ヒストリカに残酷な問いを投げかけた。






 ──私はずっと、ひとり?







 深い闇から意識が浮上する。


 全身に纏わりつく鉛のような倦怠感を引き剥がすように、ヒストリカは上半身を起こした。


「…………嫌な夢」


 ベッドの上で、ぽつりと呟く。


 身体が熱い、息が浅い。

 背中からじっとりと嫌な汗が滲み出ていた。


 周りを見回すと、そこは見慣れたエリクの寝室。


 カーテンの隙間から、明るい光が差し込んできている。

 もう、朝のようだ。


 ようやく、ヒストリカの気分は落ち着きを取り戻してきた。


(なんで今日に限って、あんな夢……)


 考えたところで、思い出す。


「ああ、そっか……」


 どこか他人事な声で、呟く。


「誕生日、今日だったわね」


 実際、自分の誕生日に対する興味は皆無であった。


 区切りの良い二十歳の誕生日だからと言って、何か特別な事があるわけではない。

 エリクには誕生日のことを伝えていないし、何か催されるという話も聞いていない。


 せいぜい、ソフィから「誕生日おめでとうございます」の一言があるくらいだろう。


「んん……おはよう、ヒストリカ……」


 隣で毛布を被ったままのエリクが、ふあ……と大きな欠伸をする。

 むにゃむにゃと、悪夢で飛び起きたヒストリカと比べてとても幸せそうだ。


 いつもどおりの朝である。


 思考を切り替えて、ヒストリカは口を開いた。


「おはようございます、エリク様」


 二十歳になった初めの日。

 今日もいつもと変わらない日が始まる。

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