第29話 エリクの判断 エリク視点
夕方、執務室。
カリ……と、羽ペンが走る音が止まる。
仕事がひと段落したタイミングで、エリクは呟いた。
「とんでもない妻を娶ってしまった」
昼食後のティータイムの際にヒストリカが明かした事に関して、エリクは結論を一言で纏めた。
ヒストリカの高祖父はエスパニア帝国の天才的な医者で、彼は医学に関する書物や論文の数々を祖国から持ち出した。
資料に記載されている内容は、現時点でのヒーデル王国の医学よりも進んでいるものだが、ヒストリカはそれを知らず知識欲の赴くままに資料を読み込んだ。
結果、自分の持つ知識の価値を正確に捉えられていない、とんでもない天才令嬢が誕生してしまった。
何かの冗談かと思った。
物語かの設定だと言われた方がまだ納得ができる。
正直なところ俄には信じ難い話で、未だに現実感がない。
少なくとも高祖父の子や孫たちはその資料の重要さを認識していたはずなのに、なぜ今まで資料が世に明るみに出なかったのか。
そもそもなぜ、ヒストリカの高祖父は祖国を捨てヒーデル王国に亡命をしてきたのか。
わからない点はまだ多い。
しかし、ヒストリカの性格的に嘘を言っているとも思えない。
現にエリクは、ヒストリカの助言の通りの事を行って身体の調子が回復している。
今までエリクは何人もの医者に掛かってきて、流行り病を患っているだの邪教の呪いに触れてしまっただの、最もらしい事はたくさん言われてきた。
しかしどんな薬を飲んでも、邪神を振り払う儀式とやらを受けても、いまひとつ回復に向かわなかった。
そうこうしているうちに、身体はみるみるうちボロボロになっていき、目も当てられない容貌になり、次第に自己嫌悪に陥って現実から逃避するよう仕事に打ち込んだ。
まさか現実逃避の手段であった仕事こそが自身の不調の原因だと、ヒストリカに言われるまで気づかなかった。
ヒストリカが言っていた精神医学の概念から推測するに、自分は単に不健康な生活を送り続けたために異常をきたしていたのだろう。
身体にも、精神でも。
精神医学の概念すらないヒーデル王国内の医者では、気づかないはずである。
その事実にヒストリカは即座に気づいた点こそ、彼女が持っている知識が確かなものだという何よりの証拠だった。
「どうしたものか……」
今の自分の立場と国益のことを考えるのであれば、資料の事を国に報告し然るべき機関に動いて貰うのが筋ではある。
だが絶対に面倒な事になるし、ヒストリカを含めエルランド家が望んでいない結果になるという懸念はあった。
もし万が一資料の内容がヒーデル王国内の医学界で認められ出回れば、エルランド家は長くその技術を隠蔽していたとして悪評が立つ可能性がある。
ヒーデル王国での陞爵を目指すべく、エスパニア帝国の血筋がある事をなるべく広めたくないエルランド家にとってな大きな痛手だ。
国内だけではなく、流出案件としてエスパニア帝国が認知し動く可能性だってゼロではない。
そうなると今は平静状態を保っている両国の間に熱が入って再び先の大戦のような悲劇の引き金に繋がらないとも限ら……。
そこまで考えて、エリクは頭を振った。
思考を無理やり中断させた。
ヒストリカと同じく頭が回るエリクは、もし今回の一件を国に報告した場合のあらゆる可能性が浮かんでしまう。
ただでさえ仕事で疲労した頭がピリピリと痛くなってきた。
「よし……」
エリクは、決断する。
「一回、聞かなかった事にしよう」
問題を先送りにする事にした。
わざわざ自分から大波を立てに行くほど、現時点のエリクに余裕はない。
ヒストリカから聞いた内容が原因で、今の時点で何かトラブルが起こっているわけではない。
むしろ、良い事しか起こっていない。
エリクに、ヒーデル王国に対する強い忠義があれば違う決断もあっただろう。
だがエリク自身、ヒーデル王国に対しする忠義は昔と比べて弱く、今請け負っている仕事以上の動きをしようという気にもなれなかった。
何よりもエリクがこの決断に至ったのは、ヒストリカ自身が国にこの事実を知られる事を望んでいないだろうという推測があったからである。
自身の保有する医学知識を使ってどうこうしたいという意思も無いようだし、どちらかというと平穏に暮らしたいという空気をエリクは感じ取っていた。
あれほどの逸材を自分のいち妻とするのは勿体ない気もするが、そこは本人の意思を尊重するべきだろうとエリクは考えていたし、何より……。
──私の持っている知識は、エリク様のお役に立てているようですし。今はそれで、十分です。
まだ結婚したばかりなのだ。
エリク自身も、今しばらくヒストリカと平穏に暮らしたいという気持ちがあった。
そこまで考えたタイミングで、ノックの音が部屋に響く。
「仕事中、失礼します」
使用人のコリンヌがやってきて言った。
「ヒストリカ様からの伝言です。夕食の準備が出来ましたので、程よいところで食堂にお越しください、とのことです」
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