第28話 知識の源
「ヒストリカの……その膨大な知識は、どこで手に入れたんだい?」
エリクの問いかけに、ヒストリカは目をぱちぱちと瞬かせる。
「膨大な知識、というと……具体的にどの部分を指しておりますでしょうか?」
「うーん……昨日と今日で僕に聞かせてくれた、様々な知識かな」
真面目な表情で、エリクは続ける
「僕も医学に詳しいわけじゃないけど、ほんの少しだけ齧っていた時期もあるから、多少は心得があるつもりだ。こんな身体だからね。その時に勉強した知識に照らし合わせると、ヒストリカが話してくれた事……交感神経とか、自律神経失調症とか、体内時計の概念や散歩の効果……あとどの筋肉を伸ばせば良いのかというストレッチの手法、どの食材にどんな効能があって、紅茶にはどんな効果があるのか……少なくとも、僕は聞いた事がない知識ばかりだった」
ティーカップを見ながら、エリクは言う。
「ヒストリカは自分のことを医者でもなんでもない、素人に毛が生えた程度と言っていたけどとんでもない。そこらの医者以上の知識を持っているように感じたし、なんならこのヒーデル王国においてまだ一般化されていない知識すら持っている。これは僕の完全な勘なんだけど……下手したらヒストリカの知識は、この国に医学分野に革命を起こしかねない。それくらい、凄いものなんだ」
真面目な表情でヒストリカを見つめて、エリクは尋ねる。
「君は一体、何者なんだい?」
エリクの問いかけに、ヒストリカは少し考える素振りを見せてから。
「別に、何者でもございませんよ」
紅茶を一口含んで、何も大した事はないという風に言った。
「私の家系は元々、ヒーデル王国の血筋では無いというのはご存知で?」
「ああ、それは把握している。確か高祖父の代に、エスパニア帝国から亡命してきたんだよね」
「その通りです」
ヒーデル王国は、隣国を三つ持つ国だ。
そのうちの一つが、エスパニア帝国である。
「エスパニア帝国は、『民の幸福に医療は不可欠』というを方針を掲げていて、医療分野へ多額の投資を行っている国です。医学や生体構造学、薬学など、あらゆる分野で周辺国に比べて抜きん出ています」
「確かに、エスパニア帝国の医学はかなり進んでいるイメージがあるね」
「そして、私の高祖父は医者でした。それも、エスパニア帝国の大学……ヒーデル王国で言う高等学院で、医学の研究をしていた研究医です。専門は精神医学でした」
「精神医学?」
「身体の怪我や病気ではなく、精神、いわば心の病気を取り扱う分野らしいです。外的要因が身体や心にどんな影響を及ぼすのかを研究する……例えば、人は寝ないと思考力が低下して気分が落ち込むとか、日光を浴びた方が体内時計がリセットされて健康に良いとか……今まで、私がエリク様にお伝えした事がまさにそれですね」
「な、なるほど……心の、病気……」
そもそもヒーデル王国では、心の病気という概念がそもそも無い。
なのでエリクからすると、ヒストリカの言葉は目から鱗だった。
「結構優秀な方だったらしいですよ。元々は伯爵だったらしいですが、様々な論文が認められ、帝国の医療の発展に貢献したという功績で陞爵(しょうしゃく)し、侯爵まで上り詰めたとか」
「それは、凄いお方だ……」
「記録でしか把握して無いですけどね」
平坦な調子で言うヒストリカに、エリクは言う。
「婚約前に一通りヒストリカの家系は調べたつもりだったけど、そこまでは知らなかったよ」
「その辺りの情報は表に出ないように隠蔽してますしね。今のエルランド家は、ヒーデル王国の上級貴族になる事に必死なので、なるべくエスパニア帝国の血を匂わせたく無いのでしょう」
どこか自嘲めいた様子でヒストリカは言う。
「私の知識の源は主に、高祖父が亡命の際にこの国に持ち込んだ大量の本や論文です。子供の頃から、両親に書庫の本を全て読むように言われて読んでいたのですが、その一角に並んでいたのです。一般的な病気や怪我に関するものもありましたが、大半は精神医学に関するもので、高祖父が書いた論文もたくさんありました」
「さらっと今、とんでもない事を言った?」
エリクが頬をひくつかせる。
「ようするに、ヒストリカの家の書庫には……エスパニア帝国の最先端の医療技術に関する資料が大量にある、と?」
「最先端、と言っても高祖父の代のですけどね。今はもっと進んでるんじゃ無いでしょうか。調べる術はありませんけど」
高祖父の代というと、およそ150年ほど前だ。
その時代にすでに、現在のヒーデル王国の医学を凌駕していたらしい。
エスパニア帝国とは長く冷戦が続いている上に、エスパニア帝国自体が鎖国状態となって久しい。
それも両国は高々と聳え立つ山脈によって分断されているため、お互いの国の情報がほぼ入ってこない状態だった。
なのでエリクも、なんとなくでしかエスパニア帝国の内情のことを知らなかったが、ヒストリカ曰く非常に高度な医療技術を持っている国らしい。
「なんにせよ、ヒーデル王国にはない医学の知識がたくさん記述されているのは確かみたいだね」
「それは、どうなんでしょうか……」
ヒストリカの反応に、エリクは(もしかして……)と、一つの可能性が浮かんで尋ねる。
「今更だけど、こんな大事な話を僕にして大丈夫だったのかい?」
「と、言いますと?」
「話を聞く限り、ヒストリカが読んだ資料は間違いなくリーデル王国の医療技術に無いものが多々ある。僕がこの事実を公にしたら、間違いなくヒストリカの家の資料は全て押収されると思うけど……」
医療大国エスパニアの知識が詰まった資料たちだ。
国の権力者が欲しがらないわけがない。
ヒストリカは息を呑む。
エリクの言葉が予想外だったらしい。
「……そこまでのものとは、思っていませんでした」
「やはり……」
エリクが思いついた可能性──ヒストリカが、自分の知識に対する価値を正確に認識していないというのは、正しかったようだった。
無理もない。
誕生から今に至るまでヒストリカは、ヒーデル王国の医学の常識に触れる機会なんて無かった。
当然だ。
貴族令嬢という、医学という立場から最も遠い立場にいたのだから。
学ばされたのは主に、礼儀作法や読み書き、貴族令嬢で習う科目など、高明な貴族に嫁ぐために必要な分野ばかり。
書庫の本を読む事は、ヒストリカにとっては己の知識欲を満たす気分転換に過ぎない。
まさか自分の読んでいる本たちが、ヒーデル王国にとって宝の山だとはヒストリカは露知らなかった。
いうなれば、完全な無自覚だったのである。
「……まあ、この話は一旦置いておこうか」
今考えても仕方がないと、エリクは別の質問を口にする。
「ヒストリカのご両親は、書庫の本についてはなんと?」
「ご先祖様が持ってきた古汚い本、くらいにしか思ってないのではないでしょうか。そもそも両親はエスパニア語が出来ないので、本に何が書いてあるのかわかってないと思います」
「ちょっと待って、ちょっと待て。ヒストリカは、エスパニア語が読めるのかい?」
「はい。基本的な文法は読んでいるうちに法則を見つけていって、わからない単語は幸いエスパニア語の辞書で引いて、読めるようになりました」
「またとんでもない事を言う……」
どこの社交界に、他言語を独学で習得して医学を学ぶ令嬢がいるのだろうか。
何事もなかったように紅茶で喉を湿らせるヒストリカに、エリクは言う。
「とりあえず、ヒストリカが優秀な高祖父の血を受け継いでいることは、よく分かった」
「ありがとう、ございます?」
エリクの言葉にあまりピンときていないとでも言うように、ヒストリカが首を傾げる。
両親に無能だと言われ続けてきた上に、様々な本を読み込んで上には上がいるという認識を持っているヒストリカは、自分が世間一般と比べると優秀であるという認識がすっぽり欠けていた。
「ちょっと情報量が多くてまだ飲み込めていないけど……とにかく、ヒストリカの知識の源は把握したよ」
「それは、何よりでございます」
「というより、そもそもの話になるんだけど……」
少し言いづらそうにしてから、エリクは口を開く。
「僕に嫁いできてよかったのかい?」
「……と、言うと?」
「ヒストリカの頭脳と知識、そして本があれば、医学の第一線で活躍する事だって……」
「無理でしょう」
冷たい瞳でヒストリカは首を振る。
「この手の知識は『何を』言ったのかではなく、『誰が』言ったのかの方が重要です。私がヒーデル王国の名のある医者の子だったらまだしも、この国における私の立場は、一介の子爵令嬢でしかありません。そもそも男尊女卑が強いこの国で、男の領分である医学界に私が首を突っ込んでも、相手にもされないでしょう」
「確かに、それは否定出来ない、と思う……」
淡々と、ヒストリカは続ける。
「あと、ヒーデル王国は既得権益層の力が強過ぎます。敵国であるエスパニア帝国からもたらされた何段階も進んだ知識が広まると、現時点での自分の食い扶持が脅かされる恐れる権益層が多いので、圧力で握り潰される事は目に見えています。この国の医学の発展に従事したいと思える程の情熱も意欲も私にはありませんので、わざわざ修羅の道に行く理由はないかと」
新しい技術や知識はいつだって、古い考えを持つ層からの反発が起こる。
なんの根回しもなく新しいものを広めてしまうと、下手したら身に危険が及ぶ可能性だってある。
エスパニア帝国から亡命してきた高祖父が、持ち込んだ資料の数々を公開せずに書庫に隠したのは、それが理由なのではないかとヒストリカは予想していた。
「何はともあれ私は、この選択で正しかったと思っています」
残りの紅茶を啜って、ヒストリカは言う。
「私の持っている知識は、エリク様のお役に立てているようですし。今はそれで、十分です」
ヒストリカの言葉に、エリクは押し黙る。
自分の想像を超えた多くの情報が頭の中をぐるぐるしている上に、嬉しいのやら、勿体無いのやら、様々な感情が混ざって。
「そっか……」
この時のエリクは、そう返すことができなかった。
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