第24話 乱れ
「……っ」
ヒストリカは息を呑んだ。
エリクの顔が、目と鼻の先にある。
病的なまでに青白い肌に、落ち窪んだ目の周り。
頬は相変わらず痩けているが、昨日より幾分が血色の良いように思える。
とはいえお世辞にも貴公子の容貌とは言えないが、吸い込まれるような不思議な魅力があった。
舞い降りる静寂。
吐息まで聞こえてきそうな距離。
しばし二人は見つめ合う。
「ご、ごめんっ……」
上擦った声と共に、エリクが顔を逸らした。
「いえ……」
ヒストリカも顔を背ける。
それから何も起こってないかのように口を開いた。
「……原則としてストレッチは一回二十秒を三回繰り返すと良いと言われています、ハムストリングスを伸ばすストレッチも同様です、目安としては一時間から二時間に一回くらいで良いかと」
「そ、それくらいでいいんだ……労力に対して、得られるメリットが大きいね」
早口で言い切るヒストリカに、エリクは動揺を滲ませた声で返す。
「そうですね。お仕事中に良い姿勢を心がけるのも大事なのですが、どうしてもいろいろな体勢に取らざるをえないので、定期的なマッサージが効果的だと考えます。ところで……」
ヒストリカが立ち上がり、エリクに言う。
「もう一度前屈をしてみてもらってもいいですか?」
「わかった」
エリクと立ち上がり、先ほどと同じように前屈をした。
「おっ……」
「中指が床につきましたね」
「本当だ、さっきよりも伸びる!」
「まだ硬いですが、少しは解れたようです」
こくりと、ヒストリカは頷いた。
「なんだか太腿がぽかぽかしてて気持ちいいよ。よく足に寒気が走るんだけど、このストレッチをしていたら緩和出来そうだね」
「全身に対し、足の筋肉が締める割合は馬鹿にならないですからね。何はともあれ毎日続ける事が大事なので、意識付けをお願いいたします。お仕事が忙しいと抜けがちではあると思いますが、した方が仕事の効率が上がると思うので」
「わかった、頑張って心がけるよ」
「ありがとうございます。とりあえず、肩周りと太腿のストレッチはこんな感じです。お時間を取るといけないので、他の部分のストレッチは、また……」
そう言って、ヒストリカは背を向ける。
そしてそそくさと、ドアの方へ向かった。
「ありがとう、ヒストリカ!」
その背中にエリクが言葉を投げかけると、ヒストリカが立ち止まる。
「とても助かったよ」
ヒストリカは前を向いたまま、こくりと頷き。
「どういたしまして」
相変わらず早口気味で言ってから、部屋を後にするのであった。
◇◇◇
エリクの執務室を出て、ドアを閉めた後。
「……びっくり、しました」
扉に背をつけて、ヒストリカは呟いた。
先ほど、エリクと至近距離で見つめ合うというちょっとしたアクシデントがあってから、何かがおかしい。
思考が正常に機能していないというか。
理性ではなく、感情の部分が乱れた実感があった。
本当ならあと何個かストレッチを伝授する予定だったが、早々に切り上げてしまった。
あれ以上エリクのそばにいたら、余計に乱れがひどくなる気がしたからだ。
そっと、胸のあたりに手を添える。
掌を通じて、いつもより早く脈打ってる心音が伝わってきた。
心なしか、頬も仄かに熱を帯びている気がする。
ハリーと一緒にいた時は生じることの無い身体の反応だった。
(落ち着きなさい……)
冷静を欠くなんて、自分らしくない。
全ての状態を元に戻すべく、大きく息を吸い込んで、吐き出す。
頭に酸素を送り込んであげると、少しずつ落ち着いてきた。
やがて脈拍数も体温も元に戻ってからようやく、ヒストリカは安堵の息を漏らすのであった
──普段、感情を押し殺して生きているヒストリカ。
そんなヒストリカが、エリクに対して『ある感情』を抱きつつある事を、この時点での彼女は全く気づいていないのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます