第23話 ストレッチ

「すとれっち?」

「はい、ストレッチです」


 鸚鵡(おうむ)返しをするエリクに、ヒストリカはこくりと頷く。

 脇には何か、大きな風呂敷のようなものを抱えていた。


 机に座るエリクの姿を見て、ヒストリカは眉を顰める。

 

「やはり、身体が丸まっていますね」


 言いながらエリクのそばにやってくるヒストリカ。


「エリク様、少し失礼します」

「え、なん……うおっ!?」


 エリクが変な声を上げる。

 ヒストリカが、エリクの肩を親指でググッと押したからだ。


「……岩かと思いました」


 ヒストリカが顔を顰めて言う。


「聞くまでもないと思いますが、首や肩周りが疲れている感じがしませんか?」

「……あるね。ずっと座り仕事をしていると、いつの間にかガチガチに固まって動かなくなる」

「頭痛は吐き気は?」

「……ある。一日中ぶっ続けて仕事していると、耐えられないくらいには」

「やはり」


 小さく、ヒストリカは嘆息した。


「典型的な首、肩、背中の凝り症状ですね。仕事中でも定期的に動かさないと、疲労感はどんどん溜まっていきますよ」

「動かすと、逆に疲れるんじゃ?」

「いいえ、動かさないと疲れるんです」


 まるで教師が生徒に教えるみたいに、ぴんと人差し指を立てて説明するヒストリカ。


「座り仕事の場合、基本的にほとんど身体を動かしません。そうなると、筋肉を使わないため全身の様々な箇所で血の巡りが悪くなり、どんどん固くなっていきます。それが疲労感に繋がっているのです」

「なるほど、わかりやすい……ストレッチをする事で、筋肉を使って血の巡りを良くすればいい、という事?」

「そういう事です。実際に、やってみた方が早いでしょう」


 ヒストリカが話を続ける。


「手始めに、僧帽筋を伸ばしましょうか」

「ソウボウキン?」

「首から肩、そして背中に繋がってる大きな筋肉です」

「この辺りか」


 エリクが自分の肩に手を当てる。


「そうです。座ったままで大丈夫ですので、まず、頭の後ろで手を繋いでください」

「こうか?」

「はい。ではそのままゆっくり、上半身を前に倒していってください」

「上半身を前に……あいででででっ……」


 エリクの表情が苦悶に歪む。


「い、痛いんだけど、これ大丈夫?」

「心配ありません。硬くなった筋肉を動かしているので、最初は痛みがあるだけです。すぐに収まります」


 ヒストリカの言葉の通り、エリクの表情が徐々に緩んでいった。


「筋肉が伸びている感じ、しますか?」

「する、凄いする……じわーっと、熱い感じだ……」

「血が行き渡っている証拠ですね。もう大丈夫です。いったん体勢を元に戻して、楽にしてください」


 元の体勢に戻って、エリクはホッと息をついた。

 間髪入れずにヒストリカは言う。


「ではもう一度、先ほどの動きをお願いします。二十秒経ったら、楽にして構いません」

「わかった」


 言われた通り、先ほどと同じく頭の後ろで手を組んで、上半身を前に倒す。


「いいですね。では、最後に一回だけお願いします」


 再びエリクは、同じ動きを二十秒繰り返した。


「いかがでしょう?」

「肩が軽くなった……まるで、羽が生えたみたいだ」


 驚きを露わにした表情でエリクが言う。


「凄い……!! 先ほどの動作だけで、こんなにも変わるか!」


 肩をぐるぐる回し、興奮した様子のエリクにヒストリカは淡々と言う。


「個人差はあると思いますけどね。エリク様はおそらく尋常じゃないほど固まっていたので、実感が強いのだと思います」

「血の巡りが完全に止まっていたんだね……」

「そういう事です。というより、酷過ぎました。よく死ななかったですね」

「ヒストリカが言うと冗談に聞こえないな」

「割と冗談じゃ済みませんよ。筋肉が凝り固まると血の巡りが悪くなって、老廃物が溜まっていき、様々な病気を引き起こしやすくなりますから」

「こ、こわ……知らず知らずのうちに、寿命を削ってたんだね」

「このタイミングで気づいて良かったです。では次に、ハムストリングスを伸ばしましょうか」

「ハム……なんだって?」

「ハムストリングス……太腿周りの筋肉ですね。座り仕事では使い事がないので、硬くなりやすいんです。ちょっと申し訳ございませんが、一回、立ち上がって頂けますか?」

「わかった」


 言われるがままエリクは立ち上がる。


「ありがとうございます。それでは、私を真似して前屈をしてください」

「こうか?」


 ヒストリカの真似をして、エリクはたったまま腰を曲げていって前屈をする。


「指が床につく気配が全然しませんね」

「そう言うヒストリカは、掌がぴったり床についてるね」

「私は定期的にストレッチをしているので。エリク様の場合、指一本すら床につかない所を見るに、太ももの裏の筋肉が固まっていますね。典型的な猫背の症状です」

「猫背……」

「座っている時の猫みたいな背中からついた名前らしいです。書類を読むときなど、無意識に背中が丸まっていると思いますが、その状態をイメージするとわかりやすいでしょう」

「確かに言われてみると、ずっと前屈みで書類を読んでいた気がする」

「そうです。そしておそらく、この猫背が不眠の原因の一つですね。猫背になると筋肉が常に緊張状態になって交感神経が優位になるので」

「い、色々と繋がっていくね……これも、ストレッチでほぐれると?」

「そういう事です。布の敷物を持ってきましたので、その上でやりましょう」

「何を持ってきたのかと思ったら、そういう事か」


 ヒストリカが床に敷物を広げる。

 その上に、エリクは腰を下ろした。


 敷物はちょっとした広さがあって、エリクの隣にヒストリカも座る。


「口で説明するよりも実演した方が早いと思うので、まず私がやりますね」

「助かるよ」

「最初に足を開いて、片方の足を内側に折り上げます」

「足を開いて……片方を内側に……」


 ヒストリカの動きを、エリクも真似をする。


「その後、伸ばしている足に沿って、身体を前に倒していってください」

「伸ばした足に沿って、身体を前に……あいだだたたたたたっ……!!」


 エリクが悲鳴にも似た声をあげる。


「ぜ、全然動かない……」

「太腿に木の棒でも入ってるんですか」


 ぜーはーと冷や汗をかくエリクに、ヒストリカが嘆息する。


「少し、補助しますね」


 ヒストリカはエリクの後ろに回って、膝立ちの体勢で言った。


「私が後ろから、ゆっくりと押します。痺れや、耐えられない痛みがある場合は行ってください」

「わ、わかった……」

「ではいきます、よいしょ……」

「いっ……あいだだたたたたたっ……」

「大丈夫ですか?」

「なん、とか。さっきよりはいける……」

「何よりです」

「くうぅっ……これも、二十秒……?」


 確認を取るために、エリクがヒストリカの方を向く。


 瞬間、エリクは息を呑んだ。

 

 ヒストリカは押す力を強めるために、エリクの背中に自分の身体を寄せていた。

 しかも先ほど大丈夫かと尋ねた際、エリクの耳に顔を近づけている。


 そのためエリクが振り向くと、必然的にヒストリカの目の前に彼の顔が現れる事になり──。


「あっ……」

「……っ」


 エリクの抜けたような声と、ヒストリカが息を呑む音が部屋に溢れた。

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