第15話 抱擁 エリク視点

「失礼します」


 ぎゅ……と、ヒストリカがエリクの背中に両腕を回してきた。


「なっ……なななっ……なっ!?」


 突然ヒストリカに抱き締められて、エリクの頭が真っ白になる。

 

 お腹と胸の辺りを包み込むじんわりと温かい感覚。

 脳がクラクラしそうなほど甘い匂い。

 繊細な髪先が鼻先を撫でてくすぐったい。


 体格の差で、ヒストリカはすっぽりとエリクの胸に収まっていた。

 

「ヒ、ヒストリカッ……? 急に何を……」

「治療行為です」


 見方によっては恋人の甘い時間のはずなのに、ヒストリカの声の温度は相変わらず低い。

 

「副交感神経を活発化させるには、温かい飲み物を飲む、ストレッチをする、入浴をして身体を温めるなどがございます。しかし入浴を済ませても眠気が来ないあたり、ちょっとやそっとじゃ活発にならないようなので、現状すぐに出来るものとして抱擁を選択致しました」

「こ、これで副交感神経を活発化できるのか?」

「人の温もりを感じる事も該当するらしいです。そもそも抱擁は物凄い健康効果を発揮するんですよ。癒しや安らぎを得られて、ストレスのほとんどが消え去ってしまうという研究もございます」

「君のその知識は一体どこから……」

「細かい事は後で話しましょう。とりあえず今は、目を閉じて、力を抜いて、私に身を預けてください」

「わ、わかった……」


 言われた通り、エリクは瞼を下ろし、全身から力を抜いた。


 訪れる、静寂。


 衣擦れの音、自分以外の吐息。

 熱、鼓動、それから、柔らかい感触。


 目を閉じた事によってくっきりと感じられるそれらの感覚は、エリクの心に平穏をもたらした。


「……いかがですか?」

「なんだか、落ち着く……」


 言葉の通りだった。

 

 とく、とく……と誰のものかわからない鼓動が心地よい。

 頭の中がふわふわして、そのまま空へと昇ってしまいそうだ。


 胸をじんわりと溶かすように広がっていく多幸感。

 何故だが、瞼の奥が熱くなる。


 ヒストリカの言う通り、ここ最近ずっと緊張状態だった精神に安らぎが訪れていた。


(……人の体温は、久しぶりだな)


 そんな事を思いつつ、まるで子猫が温かい場所を求めるように、エリクもヒストリカの背中に腕を回す。


「……んっ」


 びくりと、ヒストリカの身体が撥ねた。


「すっ、すまない……嫌だったか?」


 ハッと目を開けて、慌てて手を離す。


「……いえ、お気になさらず。少し驚いだだけです」


 ヒストリカの表情は見えない。

 だが声は平坦で、動揺は伺えなかった。


「そうした方が、より温もりを感じられると思うので、遠慮はいりません」

「そ、そうか……じゃあ……」


 再び、エリクはヒストリカの背中に腕を伸ばす。

 そのまま、ヒストリカの身体を抱き締める。

 今度は静かに受け入れられた。


 女性の平均よりも身長は高く、どこか頼り甲斐を感じたヒストリカの体躯は思った以上に細くて、力を込めたら折れてしまうんじゃないかという脆さを感じた。


 微睡を感じたのはその直後だった。

 意識が朧げになって、視界がぼんやり遠くなっていく。


 ──とん、とん。

 ヒストリカが、背中を優しく叩いてくれた。


 まるで、母親が幼子をあやすように。


「子供、扱い……しないでくれ……」

「してませんよ、あくまでも治療です」


 相変わらず淡々と言うヒストリカの声がどこか遠くに聞こえる。

 もはやエリクは、何か言葉を口にする思考力さえ失っていた。


 背中にヒストリカの掌の温かさを感じながら、エリクは意識を深闇の底に手放した。

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