第12話 ヒストリカに対する印象 エリク視点

「休む、とは言ったものの……」


 屋敷の主の寝処として充てがわれた、広い寝室。

 ソファに腰を下ろした寝巻き姿のエリクがぽつりと呟く。


 普通の人間ならとっくに夢の中にいる時間帯だが、エリクに眠気は訪れていない。

 とはいえ、就寝する準備は万端だった。


 ヒストリカに言われて入った久方ぶりの風呂は随分と気持ち良く、ここ数日間身に纏っていた重い緊張感が洗い流れるようだった。


 ……入浴後、そそくさと執務室へ行くもすぐに、ヒストリカお付きの使用人ソフィとやらがやってきて「いけませんよ〜? お嬢様にすぐ寝ろって言われましたよね〜?」と、ピシャリと言われてしまった。


 入浴後、こっそり仕事をしようとするだろうという自分の行動を見抜かれて派遣されたらしい。

 当屋敷の使用人ならまだしも、ヒストリカのお付きとなると強く言うことも出来ず、否応なく観念したエリクはすごすごと寝室へ向かったのであった。


「……少々お節介焼きが過ぎるとは、正直思う、けど……」


  ──身体、倒れるほどお辛いんでしょう? そんな状態のエリク様に仕事をさせるわけにはいけません。

 

 自分の身を真剣に案じてくれた。

 その事実は、エリクの胸を温かくする作用をもたらしている。


 誰かに心配された経験など思い出す事も出来ないエリクにとって、ヒストリカの優しさはとても強い印象として刻まれたのであった。


 ふと、先ほどの一幕を思い起こす。


 ──主がこんな状態だと言うのに何を悠長な事を言っているの!?

 ──もう、聞き分けのない子供じゃないんですから!


「あんな表情も、出来るんだな……」


 どこか嬉しそうに、エリクは頷く。

 婚約前、エリクは社交界でのヒストリカの評判や噂を収集した。


 『冰の令嬢』『笑みなき鉄仮面』『無愛想で面白みのない令嬢』


 出てくる評判はマイナスな印象のものばかり。


 中には『男を言い負かして悦に浸る加虐趣味者』だの『女のくせに出しゃばりたがり』だの、明らかに過剰に盛られたものもあった。


 確かにぱっと見、表情は変わらないし物言いは淡々としており冗談も言わないためとっつき難い印象はあるかもしれない。

 しかしいざ話してみたら、常識的な価値観を持つ聡明な令嬢だとすぐわかった。


 むしろ、自分の頭で考えしっかりと芯を持っている彼女が、エリクには魅力的に映っていた。


 少なくとも、ただ位の高い男に取り入ることしか考えていない脳みそ空っぽな令嬢たちに比べるとよっぽど良かった。


「婚約を持ちかけてみたのは、成功かもしれないな……」


 まだちゃんと話したのは少しだが、早くもエリクはそう思い始めていた。

 

 ……別の部屋で、ヒストリカが『エリク様はきっと私との婚約を後悔しているに違いない』などと考えているなんて、エリクは想像もしていなかった。


 しばらくエリクは、ソファでぼーっとしたあと。

 おもむろにきょろきょろと辺りを見回し、誰をいない事を確認して。


「確認作業くらいなら、少しだけ……」


 ソフィの目を盗んでこっそり執務室から持ってきた書類の一部──羊皮紙を何枚か鞄から取り出した。


 ゴワゴワとした羊皮紙の感触を指先から感じながら、エリクはほっと息を吐く。

 仕事をしていないと、心がゾワゾワして妙に落ち着かないのだ。


 早速、書類の一行目に目を通そうとしたその瞬間。


 ガチャリ、と部屋のドアが開いた。


「ノック無しで失礼します」


 そう言って入室してきたヒストリカと目が合う。


「あ」

「やっぱり」


 エリクの手にある書類と思しき羊皮紙を目にして、ヒストリカは自分の予想が正しかったとばかりに頷く。


「ヒ、ヒストリカ……!?」


 悪戯が見つかった子供のように狼狽するエリクに、ヒストリカはため息をついて言った。


「まったく、困った旦那様ですね」

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