第16話 coral pink-2
そのまま衆人環視のカフェテリアを抜けた氷室は、廊下を奥へと進んだ。
歩みを緩めることも、表情を和らげることもない彼の態度に、混乱は増すばかりだ。
すでに定時を過ぎており、退社している社員も多いため廊下はかなり静かだった。
イノベーションチームがあるフロアの手前で立ち止まった氷室は、すぐ横の給湯室に入ると、ようやく結の手を離してくれた。
ほっとしたにも束の間、こんな場所に連れ出されてしまったのだろう、と疑問が一気に湧いてくる。
カフェテリアで立ち話は無理にしても、廊下の端っことかで良かったのではないか。
しかも、どこか切羽詰まった表情の氷室が、こちらを振り向いて距離を詰めてくる。
え、この距離は友人の距離だろうか。
付き合っていた頃ですら、本当にごくたまにしかこんな至近距離でくっつくことはなかったのに。
そんなことをぼんやり考える結を見下ろして、氷室が引き結んでいた唇を開いた。
「もう一度俺と付き合って欲しい」
聞こえて来た言葉の意味を理解するのに数十秒を要した。
彼から告白される可能性について、一度も考えたことがなかった。
「は?え、なななななに言ってんの!?どうしちゃったのよ氷室くん!」
いきなり何を言いだすのかと彼を見つめ返せば、真っすぐな眼差しが返って来て彼がどこまでも本気なのだと瞬時に理解した。
いやでもなんで、どうして、今更?
過去は無事に清算したし、遺恨も残っていない。
だとしたら、いまの結を彼が好きになってくれたということになる、がそれはあまりにも夢見すぎじゃないだろか。
驚きと混乱をそのまま表情に乗せて彼を見つめ返せば。
「どうしたって・・・・・・再会してから結構アピールしてたつもりなんだけどな・・・・・・気づいてなかった?」
同じくらい困惑顔の氷室がそんなことを口にしてくる。
え、それじゃあ、これまでのあれもこれも、全部・・・私の気を引くため?
ちょっと待ってほんとに?
「き、気付くわけないでしょ・・・だって私たちもうとっくに」
ちゃんと終わって、ごめんなさいも言い合って、良好な友人関係になったばかりなのに。
「もう一回折原に会って、今の折原のこと見て、やっぱり好きだなって実感した。だから、やり直したい」
遮るように告げられた言葉は、ちゃんと彼が今の結を見て惹かれたのだと伝えてくるけれど、どうしたって衝撃のほうが大きすぎる。
「いや、でも」
「もうちょっとタイミング考えるべきかとも思ったけど、懇親会で誰かに唾つけられたら困るから」
不機嫌顔で告げられた一言に、初めて少しだけ笑うことが出来た。
懇親会は、若手の出会いの場なのだ。
「何言ってんの、無いよそんなこと」
「そう思ってんの、たぶんお前だけだよ」
きっぱり言い返されて、今度は愛想笑いすら返せなくなる。
こんな真っ直ぐ氷室から気持ちをぶつけられるのは初めてのことだった。
いつも結の気持ちを受け止める側だった彼が必死に結に手を伸ばしてくれている現実が、どうにも信じられない。
「迷うのも、不安なのも分かるよ。折原は、昔のことがあるから前向きになれないんだろうけど・・・今度は絶対傷つけないし、ちゃんと気持ちは言葉と態度で伝える。二度と後悔させないから」
信じられないくらい強気な発言に、よろめかなかったと言ったらウソになる。
心臓は、痛いくらい跳ねた。
けれど、それと同じ位恐怖心が沸き起こった。
「・・・・・・・・・私・・・もう空回りしたくないんだよね・・・氷室くん、あの頃と全然違うし・・・もっと自信がないっていうか・・・」
「いい加減な付き合いするつもりはないよ」
「・・・・・・でも」
「折原、俺のこともう嫌いになった?」
「あの時だって嫌いで別れたわけじゃないよ・・・上手く行かないって分かったから別れようって言ったの」
色んなボタンを掛け違えていたことに気づいて、でももう修復できそうにないから別れを選んだ。
だけど。
「ちゃんと好きだったし、いまも好きだよ」
あの時一番欲しかった言葉が、10数年ぶりに耳元に響いて、じわりと涙が浮かんだ。
「・・・・・・え・・・っと・・・ありがとう・・・」
しどろもどろに頷いた結の指先をそっと撫でて、氷室が静かに微笑んだ。
「昔傷付けたお詫びとか、罪滅ぼしじゃなくて、いまの折原を見て本気で好きになったから、俺のこと嫌いじゃないなら考えて」
あの頃の彼はこんなに雄弁に結を口説いたりはしなかった。
どれだけ望んでも、してくれなかったのに。
「・・・・・ほんとに・・・変わったね・・・・・・氷室くん」
「10年経ったんだから、変わってなきゃ困るだろ。頼むから、今の俺の事ちゃんと見て答え出してよ」
目を合わせて念を押されて、分かったと頷けば、一瞬だけ指先を強く握った後で氷室が手を離した。
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