第50話 wine red-1


垣根で囲われた坪庭に面して作られている半露天風呂で、足湯を楽しみながら結は綺麗に晴れた空を見上げた。


自宅がある町も十分片田舎で空は綺麗だけれど、そこからさらに北に上がった山間にある西園寺グループの保養所周辺は、さらに空気が澄んでいる。


閉鎖されたゴルフ場の跡地に作られたという西園寺グループの保養所は、王道の和風旅館の他に、独立した離れがいくつもある。


氷室が押さえてくれた半露天風呂付の離れは、9.5畳の座敷と広縁がついていた。


足湯だけにしておくのがもったいないくらい素晴らしい半露天風呂である。


さすがに休日の予約が埋まっているらしく、平日どっかで休み取れない?と相談を持ち掛けられて、二つ返事で頷いて大急ぎでスケジュールを組みなおした。


人事総務の繁忙である月初を避けて誘って貰えたおかげで、無事に平日の木曜日に休暇を取ることが出来た。


むしろ氷室のほうが忙しいのでは、と不安になったが、パソコンさえ持って行っておけば緊急対応できるからと返されて、それならとそのまま甘えてしまう事にした。


付き合ってから二人で遠出するのは初めてのこと。


前回、グランピングに出かけた時の数倍緊張した。


当然洋服選びにも熱が入った。


”日帰り”と言われなかったら、新しい下着を買いに行っていたところである。


11時チェックインで、15時チェックアウト。


氷室から送られてきたメッセージにそう書いてあって、ホッとして、その後でちょっと残念だな、と思った。


けれどすぐにその考えを否定した。


いまでも十分翻弄されているのに、お泊まりはまだ無理だ。


したくないわけじゃないけれど、最後の一歩が踏み出せない。


これまで付き合ってきた元カレたちとは何もかもがもっとスムーズだった。


付き合ってひと月以内にキス以上の関係になったし、お互いの部屋を行き来するようになった。


けれど、氷室とは付き合ってからひと月以上経った今も清い関係のまま。


試すように氷室が距離を詰めて来るたび、最後のところで踏みとどまってしまう結のいくじなしのせいである。


初カレだというだけで、色んなことが二倍恥ずかしいのはなんでだろう?


氷室の言うことやること全部をあの頃と比較してしまって、右往左往してしまう。


昔なら確実に積極性は結のほうがあった。


だから一気にディフェンスに転じることになったこの恋愛関係に戸惑いを隠せない。


探るようなキスをされるたび、結がどこまで赦してくれるのか氷室が試しているということも分かっている。


そういうことは理解できるくらいの経験値はあるくせに、肝心の度胸がない。


再会したのが20代だったらよかったのにな、と今更なことさえ考えてしまう。


20代の頃だったらもうちょっと肌にハリもあったはず。


なんせ氷室は結が一番若くて元気で溌溂としていた女子高生時代を知っているのだ。


いまさらどう足掻いても、昔のほうがピチピチすべすべしているに決まっている。


青空をゆっくりと流れていく雲を目で追っていたら、だんだんと上体が後ろに傾いてきた。


仰のきすぎたかもしれない。


広縁に肘をついて身体を支えようとしたところで、隣から逞しい腕が伸びて来た。


「・・・っ危ないって」


そんな声と共にゆっくりと身体が広縁に下ろされる。


まさか抱きとめられるとは思ってもみなかった。


一気に暴れ出した心臓をそっと手で押さえる。


肩を抱く腕はそのままで氷室が顔を顰めた。


「ぼーっとしてただろ」


「ご、ごめん。足が温まると眠たくならない?」


つま先で滑らかなお湯を蹴る。


たしかこのお湯の効能は、冷え性、肩凝り、腰痛だったような。


跳ねたお湯が小さなしぶきになって膝頭を濡らした。


半露天風呂付離れなんて、物凄い贅沢である。


「なる・・・・・・・・・泊まってく?」


身体を捻ってこちらに向きなおった氷室が視線を合わせてきた。


「予約いっぱいって言ってなかった?」


どうにか平静を装えたのはここに来る途中の車の中で、氷室からそう説明を受けていたから。


宿泊予約は三か月先まで予約でいっぱいで、たまたま日帰りのデイプランのキャンセルが出ていて慌てて予約を取ってくれたらしい。


福利厚生が充実していることで知られている西園寺グループだが、この離れは老舗旅館顔負けの立派さである。


予約していたミニ懐石のランチは海の幸と山の幸がふんだんに盛り込まれていてとても美味しかったし、デザートに出されたフルーツ寒天は甘さ控えめでお代わりをお願いしたくなった。


ランチでこれなのだから、夕飯の懐石料理はさらに凄いのだろう。


社員たちに人気があるのも頷ける。


ちょっと惜しい気もするけれど、次にもし泊まる機会があるならその時はもっと氷室との距離が近くなってからにしたいと思う。


それなのに。


「ああ、それ、嘘だから」


彼の言葉に頭が真っ白になった。


しれっと言い返した氷室が結を抱き寄せる腕に力を込めた。


引き寄せられるように彼と向き合う恰好になる。


伸びて来た指が顎のラインをなぞって耳たぶを撫でられる。


触れられた場所が火を灯されたように熱くなった。


「え・・・?」



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