第54話 poppy red-3
「じゃあ、おやすみ」
「送ってくれてありがとう。おやすみ」
運転席の窓を開けて結に手を振った彼が、ゆっくりと車を発進させる。
一人になった途端、夜風が急に冷たく感じられて、結は大急ぎでマンションのエントランスへ駆け込んだ。
ポストを確認して、ほぼDMだらけの郵便物を手にエレベーターに乗り込む。
吐く息が未だに熱い。
そっと頬に手を当てれば、まるで湯上りのように熱を宿したままだった。
・・・・・・・
帰宅した後も氷室は煙草を取り出す事はなくて、気を遣った結が、吸っていいよ?と促しても彼は首を縦に振ろうとはしなかった。
以前、いつ抜き打ちでチェックしに来ても構わないと言ったのは嘘じゃないらしい。
朝起きてベランダで一服する以外は、会社でしか吸わないと言った氷室の言葉はどうやら本当のようで、通されたリビングには煙草の匂いはしなかった。
優しく塞がされて、ゆっくりと重ねては離れることを何度も繰り返して、結の呼吸が落ち着いてからキスが深くなった。
滑らかに舌先を絡ませて舌裏を擽って、乞うような強請るようなキスだった。
ユニフォームの番号の事で頭と胸がいっぱいになっている結を抱き寄せて、高校時代の自分を記憶を上書きするようなキスを仕掛けてくる氷室は、優しいけれどちょっと意地悪だ。
あの頃だったら絶対に出来なかったようなキスで結の全部を翻弄してくる。
そのくせ時々甘やかすようにじれったいキスに切り替えては結の反応を窺ってくるのだ。
どんなキスが好きで、どんなキスだと結が困るのか、彼は慎重に探って来た。
リビングに響く艶っぽいリップ音がどうにも恥ずかしくて、半ば無理やりキスを解いたら、笑った氷室はそんな結も受け入れてくれた。
余韻を引きずらずにはいられない口づけ。
自宅だからか、いつもよりずっとリラックスした雰囲気の氷室を前に一人狼狽えている自分が悔しくて、わざと彼から距離を取ってから尋ねた。
『煙草ないと、口寂しくなるんじゃないの?』
やせ我慢しなくていいのに。
目の前で紫煙を吐き出されるのは正直困るけれど、ここは氷室の家だし、ベランダで一服するなら結には何の影響もない。
ちょっと心臓を落ち着かせたい気持ちもあって、遠慮なくどうぞと言う気持ちで尋ねたのに。
『寂しくなったらこっち吸うからいいや』
伸ばした人差し指で唇を軽く押さえて、真顔になった。
心底驚いた顔を向けた結に小さく笑った氷室は、そのまま軽く唇を合わせて来て、二人の間に漂う空気はますます甘ったるいものになった。
霙依から貰ったという生チョコはなめらかな舌触りと濃厚なココアの風味がとても美味しかったけれど、一つチョコを摘まむたび氷室の唇が追いかけて来て、正直チョコレートをちゃんと味わう余裕はなかった。
優しいだけじゃない大人のキスは、ただただ甘ったるいばかりで、狼狽えて息を詰めた結の背中を撫でる手のひらが無かったら、早々にギブアップしていたかもしれない。
いつも別れ際に車の中で交わすキスとも、会社の片隅で交わすキスとも、ハーフコートで交わすキスとも違う、恋人同士の関係をさらにその先に推し進めるようなキスだった。
唇の端に残ったチョコを舐めとる仕草が色っぽくて、本当に彼は大人になったんだと時の流れを実感した。
『ほら、こういうこと出来ないだろ?俺が煙草吸ってたら』
キスの余韻でぽやんとしたままの結を抱き寄せた彼が、唇をこめかみに押し付けてから囁いた。
『・・・・・・?』
煙草とキスの因果関係が理解できずに眉根を寄せた結を見下ろす氷室の眼差しは砂糖菓子のように甘ったるくて、見てるだけで数分前のキスを思い出して心臓が騒がしくなった。
『煙草、苦いし。嫌われたら困る』
それはその昔結が何百回、何千回と思ったことだ。
そして、今も、それを恐れている。
いつかこの夢みたいな時間が終わって、彼が背中を向けてしまったらどうしようと、そればかり思っている。
結婚前提、と言われたにも拘わらずだ。
一瞬幸せボケに浸ったかと思えば、すぐに現実を見て!と意地悪な自分が顔を出してくる。
昔の別れがよほど尾を引いているらしい。
あの時の自分を抱きしめるような気持ちで、氷室の背中に腕を回した。
こんな風に自分から彼に抱き着くのは当然初めての事だ。
背中を撫でていた手のひらが一瞬止まって、きつく抱きしめられた。
『嫌わないよ』
『ふーん・・・・・・言ったな。もう文句言うなよ』
言い含めるように呟いた彼が、頬を覆う横髪を耳の後ろへ梳きやって、今日も髪下ろしてるんだ、と目を細めた。
氷室くんが、好きだって言ったから、とはさすがに言えなくて目を伏せたら、閉じた瞼の上にキスが落ちて、そのまま、また唇が重なった。
優しく口内を探られて舌の付け根を扱かれて、歯列を辿って舌裏を撫でた氷室の吐息はどんどん熱くなっていた。
それは結も同じだ。
一瞬このまましちゃうのかな、と考えた途端、身体に緊張が走った。
今日の下着、肌のコンディション、その他諸々の懸念事項が一気に押し寄せて来て、躊躇した。
そんな結の反応に気づいたんだろう。
氷室の手のひらが腰のラインを何度か辿って、そこで停まった。
『・・・・・・明日から忙しいんだっけ?』
研修レポートの提出期限が過ぎたところで、集計を纏めなくてはならなくて、月曜と火曜は残業が確定だと最初に伝えてあったのだ。
『う、うん』
この後どうするべきか迷う結の頬にキスを落として、首筋に頬を寄せた氷室が静かに息を吐く。
彼の背中を抱きしめて流されるべきか迷っていると、氷室がゆっくりと身体を離した。
『・・・・・・・・・ん、分かった』
『え・・・・・・?』
『送るよ』
残念なような、ホッとしたような、何とも複雑な気持ちで氷室を見つめ返せば、次はそのつもりでウチ来て、と返された。
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