第53話 poppy red-2

そろそろ結婚を考えてもいい年齢だし、西畑なんて既に一児の父親だ。


家庭を持つことに具体的なイメージは湧かないけれど、このまま結と付き合って終わりにはしたくなかった。


あの頃デート途中に通りかかった教会の結婚式を見て、うっとりと頬染めていた彼女だから、きっと憧れも沢山あるのだろうと踏んでいたのだが、返って来た反応は、歓喜でも感動でもなくて、純粋な驚き。


時間も気持ちも足りないものはすべて全力でこれから補っていくから。


いい加減な気持ちで告白したわけじゃないことを理解してほしくて、一縷の望みをかけて口にした言葉だった。


あの時の結の顔には、まったく想定外でしたとでかでかと書いてあった。


お前はどういうつもりで俺の告白に頷いたんだよ?ちょっとも期待してなかった?それともやっぱりあの後輩に惹かれてた?


訊きたいことは数あれど、尋ねても望む答えが返って来るか分からない。


これ以上結との距離を広げたくはない。


いまは、彼女が自分との交際に少しでも前向きになれるように働きかけていくよりほかにない。


こんなんでほんとにそのうち結婚できんのか。


過った不安を、いや、大丈夫だとねじ伏せて、結がくれた”好き”の言葉を思い出す。


彼女は簡単に嘘がつけるようなタイプではない。


氷室に流されたにせよ、気持ちが無い相手に好きだとは言わないはずだ。


だからたしかにいま、結の心は手のひらの中にある。


これを握りつぶさないように、慈しんで育てて花開かせるのが、いまの氷室の役目なのだ。


「時間、まだ大丈夫だよな?」


「あ、うん」


「ちょっと家寄らない?後でちゃんと送っていくし」


さきにきちんと帰すつもりがある事を伝えたのは、安心して欲しいから。


付き合っているのだし、お互い大人なんだから、こういうことに早い遅いは無いのかもしれないが、結の性格を考えるともう少し距離を縮めて、慣れてからでないと拒まれそうで怖い。


本音を言えばすぐにでもしたいし、身体を重ねてしまったほうが相互理解は深まる気さえもしている、が、それはあくまでこちらの主観だ。


「お邪魔していいの?」


「いいに決まってるだろ。会社近いし、いつ来てくれてもいいよ」


結さえその気なら、毎日のように泊ってくれてもかまわない。


それを言えるのはいつになるだろうとぼんやりと考える。


「メディカルセンターの人って結構徒歩圏内に住んでるよね?」


「設立の時にこっちに引っ張って来られた俺らみたいなのはほぼグループのマンション暮らしだし、この辺電車の便も良くないから、通勤考えると住むほうが楽なんだよな。結も乗り継ぎ面倒だろ?」


「西行きは本数少ないからね。でも慣れたけど」


「グループ間異動だし、部屋の申請すりゃよかったのに」


「うーん。いまの部屋間取りが気に入ってて、長く暮らしてるし引越しも手間だなって。当分このままでいいかも」


「気が変わったら教えて」


これは長丁場になりそうだと覚悟しながらそれでもやんわりとこちらの意向は述べておく。


一瞬目を丸くした結が、照れたように笑った。


「あ、うん。そうだ、お邪魔させてもらうなら、何か買って行こうか?」


「気ぃ使わなくていいよ。土地開発の霙依さんからお土産の生チョコ貰ったんだけど、一人じゃ消費しきれないからさ。食べてくれると助かる。要冷蔵だし、会社にも持って行きにくくて」


共同プロジェクトの立ち上げでメディカルセンターに出向してきた霙依辰己は、西園寺土地開発のエリート営業マンで、着任して早々に施設内の全セクションに手土産持参で挨拶回りをして顔を繋げたことで有名だ。


「霙依さんの根回しやばいよね。出向してきてほぼ一週間で全セクションにコネ作ったんでしょ?どうなってるのあの人」


「相当やり手だって聞いてたけど、ありゃ本物だよ。雪村さんも一目置いてる」


「へーえ・・・」


着任してひと月ちょっとの間にイノベーションチームの面々と完全に打ち解けて、交友関係まで把握してしまった彼が、先日代打で打ち合わせに参加した氷室にお礼と称して持ってきたのは、人気パティスリーガーネットの限定生チョコレートだった。


”賞味期限が長くないんで、お早めに、彼女さんとどうぞ”


これが普通の焼き菓子や日持ちするチョコレートだったならば、会社に持って来て結に届けることも出来るが、冷蔵保存必須の生チョコとなると勝手が違う。


どのタイミングで彼女を自宅に招こうかと迷っていた氷室にとってはまさに渡りに船だった。


「あの人来てから仕事がさらに捗るから、そのうち週2の定時退社も夢じゃなくなるかもな」


「え、ほんとに!?」


「嬉しい?」


「そりゃあ、嬉しいよ」


照れたように結が頷いてくれて、心底ほっとする。


彼女が笑ってくれるだけで言葉に出来ない充足感が溢れてくるのだ。


「仕事帰り行きたいところ、見つかった?」


「あ、それはまだ。色々ありすぎて」


「じゃあ、それも、一緒に探そう。鍵渡すから、先に部屋行ってて。502号な」


立体駐車場は裏手にあるので、さきにマンションのエントランス前に回って先に結を下ろす事にする。


キーホルダーを受け取った結が、502号室と復唱した。


「あと、オートロックの解除キーは0807な。覚えといて。って、忘れないか」


「え」


「お前の自転車のダイヤルキーとおんなじにしといた」


付き合っていた頃、自転車通学だった彼女は、ダイヤルキーのロック解除の番号を自分と氷室のユニフォームの番号にしていたのだ。


8番は氷室の、7番は結のユニフォームの番号だった。


嬉しそうに報告された時には、ドギマギして結の望む言葉を返してやることが出来なかった。


「・・・・・・・・・氷室くん、どんなけ私のこと好きなの」


俯いたままの結が、キーホルダーを握りしめる。


「結が思ってる倍以上好きだよ」


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