第55話 rose red

イノベーションチームのフロアに入ると、ちょうど席から立ちあがったばかりの目的の人物を見つけた。


「失礼しまーす。あ、霙依さんちょっとよろしいでしょうか?」


結の呼びかけに柔らかく微笑んだ霙依の周りがキラキラと輝いて見えるのは多分気のせいではない。


メディカルセンターに勤める女子社員のハートを一気に鷲掴みにしてしまった品の良い美丈夫は、チーム冬属性の名前でさらに有名になった。


雪村、氷室、霙依、と寒そうな名字三つを揶揄して、イノベーションチームの誰かがそう呼び始めたらしい。


揃いもそろって見た目が良いこと、社内きってのエリート集団であること、全員が独身である事が、人気の理由なのだが、そのうちの一人を彼氏に持つ者としては、聞こえてくる噂話にひやひやすることも少なくない。


昔かっこよかった人ほど、歳を重ねると残念になっているのがセオリーではないのか?


期待通り素敵な大人の男になって、結を翻弄してくれる彼氏様の人気ぶりは相変わらずだ。


霙依が、結の方に身体ごと向き直る。


こういう丁寧な仕草に世の女性はキュンとするのである。


「はい。何でしょう?」


「実は来週の木曜日、開発チームのほうで社用車が2台必要になりまして、一台融通して頂けないかなと・・・午後からなんですが」


「ええ、構いませんよ。午前中にキーをお持ちしますね」


ノートパソコンのスケジュールを確認した彼が鷹揚に頷いてくれて、懸案事項が一つ減ってホッとする。


「助かります。あと、あの・・・・・・ガーネットの生チョコ、とっても美味しかったです。ありがとうございました」


声を潜めて付け加えたお礼は、本来なら氷室から言うべきものかもしれないが、霙依がわざわざ”彼女さんと一緒にどうぞ”と口添えしてくれたというので、顔を合わせたタイミングでお礼を伝えておきたかったのだ。


氷室は甘党ではないし、それを霙依も知っているので、恐らくこれは結へのプレゼントだと思うと言って差し出されたそれは、ココアパウダーがまぶされた王道の石畳チョコレート。


滑らかなミルクの風味たっぷりのそれは、初めてのお宅訪問に緊張する結の心をほどよくリラックスさせてくれた。


「喜んでいただけで何よりです。無理をして貰ったのは氷室くんなんですが、氷室くんを喜ばせるより、折原さんを喜ばせるほうが、彼も嬉しいでしょうから」


「ええ!?い、いえ、そんなことは・・・・・・たぶん・・・・・・・・・ない、かと」


言葉少なだった学生時代が嘘のように、氷室はしょっちゅう結と一緒に居られて嬉しいと口にするし、言葉や態度で好意を示してくれる。


それはもう、結が戸惑うほどに。


「氷室くんが煙草に立つのは、大抵人事総務の休憩時間なんですよ」


「あ・・・・・・そう、ですか」


決して暇ではない彼が、結の顔を見に来るのは、純粋に会いたいからだ。


結がハーフコートにいる時間帯を見計らって煙草を吸いに出て来ることも知っている。


そのくせ、結の前では絶対に煙草に火をつけることはしない。


それは氷室の部屋を結が尋ねたときも同じことだった。


勝手に頭の中に甦ってくる二人きりの時間の記憶に、頬が赤くなってくる。


「社内恋愛、いいですね」


微笑ましい様子で霙依が呟いて、あの時間を見られていたわけでもないのに、一気に羞恥心がMAXまで膨れ上がった。


「あ、ありがとうございます・・・っ、では、社用車の件、よろしくお願いします」


「はい。承知しました」


逃げるようにフロアを出て、両頬を手で押さえる。


まだキスしかしてないのに、こんなのでこの先大丈夫なんだろうか。


結婚したら、子供だって作るわけだし・・・・・・


一足飛びに出てきた未来予想図に、いや待って、それはまだ早いとバツ印をつける。


廊下を歩いていると、エントランスのほうからこちらに歩いてくる氷室と雪村の姿が見えた。


「結」


「あ、お疲れ様です」


「お疲れ様。先に戻るよ。ミーティング忘れないように」


今日もクールな雪村が、軽く結に視線を向けてから、氷室に声をかけて先にフロアへと戻っていく。


相変わらず隙の無い後ろ姿を見つめていると、氷室が頬を撫でてきた。


「なんかお前、顔赤くない?あ、前髪短くなってる」


可愛いじゃんと子供にするように頭を撫でられて頬が一気に熱くなった。


「・・・・・・っ!そこは気づかなくていい!」


夕べ目にかかるのが気になって自分で少しだけ前髪を切ったのだが、どうにも上手くいかずに横に流していたのだ。


「え、どっち?」


顔が赤いことも、前髪が短くなったこともそこは行儀よくスルーして欲しいところである。


「ど、どっちも・・・・・・まだうちの女の子しか誰も気づいてないのに」


恐らく昼休み、カフェテリアで赤松と菊池には指摘されるだろうが、部署の男性陣は些細な変化には全く気付いていなかった。


見られたくなくて、大急ぎで額を押さえれば、その手を捕まえて引き下ろされてしまう。


「俺が鈍感じゃない事、ちゃんと伝えとかないとな」


「そういうのはいいよ」


「なんでだよ。あ、そうだ。可愛い髪留め買ってやろっか?そしたら前髪あげてくれる?」


「・・・・・・イチゴの?」


相変わらず氷室から届くメッセージの文章は短いけれど、送られてくるスタンプの数は倍以上に増えた。


そしてそのどれもが、なぜがイチゴのキャラクターだ。


「うん、そう」


笑った氷室が、前髪をかき上げて額にそっと唇を触れさせる。


「・・・!?っここ、か、いしゃ」


「家の中みたいなことしてないだろ?」


「~~忘れたところなんだから、思い出させないでよ!」


ぶり返して来た頬の熱を押さえようと、俯いて両頬を包み込む。


氷室がなんだと、合点がいったようにのんきな声を上げた。


「ああ、思い出して赤くなってたのか」


「・・・・・・・・・わ、私、氷室くんには色々言いたいことがある」


油断したら一気に距離を詰めて来るところとか、不意打ちのキスとか。


彼の心を少しでも揺さぶりたくて、自分のことを見て欲しくて必死に足掻いていたあの頃。


氷室のなかに、こんな一面があったことを、結は全く知らなかった。


「クレームなら、告白の後に聞くけど?」


いくらでもどうぞと鷹揚に頷いた彼の余裕の表情が心底憎らしい。


いまは、氷室が結を追いかけているはずなのに、どうしてこんなに主導権を握れないのか。


やっぱり、最初に惚れたほうが負けだからだろうか。


それでも。


「~~わ、私のこと好きなら、もうちょっと色々慎んでっっ!し、仕事できなくなるからっ」


どれだけこの心がときめいて、動揺しまくって、次のデートへの期待を膨らませているのか伝えきれないことがもどかしい。


あの頃より臆病になった大人の恋心は、いろいろと加減が必要なのだ。


負けじと言い返した結を見下ろした氷室が、一瞬天井を見上げてから深々と溜息を吐いた。


それから、満面の笑みが返って来る。


「うん。分かった」


その直後、仕返しのような甘ったるいキスが降って来た。




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