第41話 raspberry-2
「髪下ろしてるんだ。珍しいな」
「え!?あ、うん。邪魔だから結ぶことのほうが多いんだけどね」
「昔の結は、ずっとポニーテールのイメージだった」
「なんか、やる気が起きるから」
練習中はいつも髪を結んでいたし、試合の日は必ずポニーテールだった。
イチゴの髪留めとポニーテールが学生時代の結の定番だったのだ。
髪を結ばずにストレートアイロンを手に取ったのは、たぶんそういう気分じゃないから。
この選択で良かったんだろうかと、彼の一言で迷ってしまったから。
ボールを片手でバウンドさせながら、氷室がおいでおいでと手招きしてくる。
この仕草は、昔から変わらない。
伺うようにこちらを見てから、小さく指を折り曲げてて結を呼ぶ氷室のもとに何度駆け寄ったことだろう。
「ボール拾うから、シュート打ちなよ。7号ってやっぱりちょっと扱いづらいし」
学生時代使っていたのは一回り小さい6号サイズ。
ちょっとの違いだが、これでシュートを打つとなると結構な負荷が増える。
目の前にやって来た結を見下ろして、氷室が手にしていたボールを握らせて来た。
「・・・・・・俺の事も扱いづらい?」
しまった、思い切り顔に出ていただろうか。
氷室と改めてお付き合いを始めてから、あの頃とは逆に完全に主導権を握られてしまっている結は、戸惑う事のほうが多い。
ときめいて、惹かれて、このままで大丈夫だろうかと不安がよぎる。
「・・・・・・・・・そ、んなことは・・・」
「あるんだな」
無理に笑おうとした結の顔を覗き込んで氷室がそう断言した瞬間、慌てて身体を捻っていた。
背中を向けて息を吐いて、違うとすぐに否定しなきゃと唇を開きかけて。
「重たい?」
そんな問いかけと共に、背後から回された腕の中に閉じ込められた。
肩にかかった重みと熱にぎゅっと目を閉じると、首筋に頬ずりされて咄嗟にボールを離してしまう。
地面に跳ねたボールがころころと転がっていく。
蛇行運転をしている様は、まるでいまの結の心模様のようだ。
拾わなきゃ、と反射的に屈みこもうとした結の身体をさらにきつく抱きしめて、下ろし髪の隙間を縫うように唇が動いて耳殻をなぞられた。
「っひゃ・・・・・・」
「なぁ、俺のなにが足りないの?」
それは今の結への問いかけなのか、それとも、学生時代の結への問いかけなのか。
あの頃の結には、彼氏にしてもらいたいことが山のようにあった。
毎日電話をして欲しいし、メッセージの返信はすぐに貰いたいし、些細なことでも共有し合って、もっともっと自分のことわかって欲しい。
そのどれもが一方通行で、氷室との電話はいつだって結が話し役、氷室が聞き役で、彼の日常は結が尋ねない限りはほとんど分からなかったし、メッセージの返信は届いても、うん、良かったな。の単調なものばかり。
嫌われているわけではなくて、それが彼のデフォルトなんだと気づいてからは、より一層結は空白や沈黙を埋めるように自分から話題を振るようになって、ますます氷室は聞き役に回るようになった。
あの頃足りないと思っていた全部が、一気に埋め尽くされて、ただでさえ溢れかえっているのに、そのうえいきなり将来のことまでほのめかされて、あの頃の結も、大人になった結も、この急展開についていけない。
「た、足りてる!むしろ余ってる!」
じたばた腕の中でもがく結を見下ろして、氷室がつむじにキスを落とした。
それからまた肩に甘えて来られて、行き場を無くした両手を握りこまれた瞬間に、あ、色々考えても絶対無理だと悟った。
包み込まれた指先が一気に熱を帯び始める。
「・・・・・・余ってんのかよ」
耳元から聞こえて来た声は、途方に暮れていた。
どうしたら、氷室の気を引けるだろう、どうしたら、もっと彼に好きになって貰えるだろう。
右往左往してから回って独りよがりを続けていたあの頃の自分と、今の彼がなんとなくダブって見えた。
「お前が余ってるとこはもう要らないって言っても、押し付けるつもりなんだけど」
「え!?そこは引き取るんじゃないの!?」
「俺が結にあげたいだけだから、面倒でも、受け取って貰わないと困る」
「・・・・・・・・・それ、同じこと思ってたよ。受け取って欲しくて、届いて欲しくて、そればっかり思ってた」
「昔の俺の分も謝るから」
「え、それが嫌っていうんじゃなくて、ああ、ひたむきに氷室くんのこと好きだったなぁって思っただけだから」
十数年ぶりの謝罪が欲しいわけでは無かった。
だって恋は二人でするものだから、一方通行になってしまったのは、結にだって十分責任がある。
「・・・・・・過去形なの?」
「え?」
「いやもう、お前が俺に押されて頷いたのも分かってるんだけど・・・・・・それでいきなり結婚前提とか言われて戸惑ってるのも分かってるんだけど」
こんな弱りきった彼の声は初めて聞いた。
手探りで必死に結に向かって手を伸ばす氷室の気持ちは、昔の結と同じように真っ直ぐで一途だ。
不安があっても彼に向かう気持ちが確かなことだけは伝えなくてはならない。
「あの、わ、私も好きなので」
だから彼の告白に頷いた。
そこに嘘はなかった。
結の言葉を聞いた氷室が、斜め上から両目を覗き込んで来る。
「・・・・・・いまも?」
「い、いまも」
「うん・・・・・・ならいい」
頷いた彼が、肩で揺れる髪を掬ってから離れた。
「俺、下ろし髪の結好きだよ」
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