第40話 raspberry-1
人生で初めての彼氏、且つ自分から告白して付き合った昔の交際相手に、改めて結婚前提の交際を申し込まれた。
嬉しいよりも、先に湧き上がって来たのは、うそでしょ!?だった。
乙女の端くれとして、どこか欠陥があるのかもしれない。
結婚てつまり、一生一人の人と添い遂げることで、人生を重ねていく事で、お互いを理解し合って支え合っていくことで。
正直、まだそんな大それたところまで考えられる余裕がない。
結婚前提ってなんだ。
いずれはってこと?それは期限はあるの?駄目だったら終わるの?終わったら私はまた別の誰かを探すの?
ウェディングドレスに憧れまくった二十代を通り過ぎてしまった今、恋愛ですらついこの間まで遠い日の花火だったのだ。
たしかに、西園寺不動産の頃の上司だった朝長の結婚式に参列した時には、いいなーやっぱり結婚て素敵だなぁとも思ったし、朝長夫妻が高校の同級生だったことを聞かされた時には、自分と氷室のことを思い出して、あのまま付き合ってたらもしかして、なんて少女漫画めいた妄想に耽ったりもした、が、あくまで妄想である。
あの時は大人になった氷室と再会する予定なんてなかったし、ましてや付き合ったり、結婚するだなんて、想像すらしていなかった。
会えたらそれだけで嬉しくて、彼がぎこちない手つきで自分の指先を握りしめてくれることが最高の幸せだと信じて疑わなかった。
「はーあ・・・・・・・・・」
ランチの後、日当たりの良いハーフコートに向かったのは一人になりたかったから。
今日は太田がリモートワークで、午後一で入室制限ゾーンのゲートの定期点検が入っている赤松と菊池は、お昼を食べた後早々にフロアに戻ってしまったのでちょうどよかった。
リングのポールにネットに入れて引っ掛けてある馴染みのオレンジ色のそれ。
久しぶりに触ったら、皮の感触がやけにごつごつして感じてあんなに手のひらに馴染んでいたのが嘘のようだ。
バッシュの底がすり減るまでコートを駆け回っていた日々が懐かしい。
がむしゃらだったし、ひたむきだったし、立ち止まることなんて考えていなかった。
前見て走れと教えられて来たし、だからこそ、あの時氷室に告白できた。
傷ついた後の事なんて、考える余裕がなかった。
でも、あれからずいぶん時間が経って、経験が増えて、自分の守り方を覚えた。
傷が癒えるまでにかかる時間は年々嵩んでいって、正直もう傷つきたくない。
なんで傷つく前提で付き合ってるんだろう。
まだ始まったばかりなのに。
何にも決まってないのに。
好きだ嫌いだで浮かれていられた自分は、いったい何処に行っちゃったんだろう。
”氷室くんが私の彼氏”
それだけで満足して胸を張っていられたあの頃が、ひたすらに眩しい。
ちっとも馴染んでくれないボールの感触にイライラしながら軽くドリブルをして、しっかりリングを見た。
いつでもシュートを意識して、飛び込む瞬間は躊躇わない。
迷ったら負け、止まったら負け。
単純明快な答えしか、ここにはなかった。
伸びてきたもう一つの影にボールを取られると同時に、声が聞こえた。
「重たい溜息は俺のせい?」
このボールは氷室が持ってきてハーフコートに置いてくれているものだ。
だから、彼の手に馴染んでいるのは当然なのに、自分が感じた違和感がひどくもどかしい。
氷室はあの日所信表明してからも、とくに態度に変化はない。
驚くほど自然で穏やかだ。
相変わらず距離の詰め方が大胆で、結をドキドキさせるけれどそれ以外はいたって普通。
彼にとっては誠意の示し方の一つとして、ああいう言葉を選んだのかもしれない。
お互い30代で付き合うのに、結婚を意識しないほうが不自然だ。
「あ・・・・・・お疲れ様。今戻って来たの?」
まさか、そうだと頷くわけにもいかずに別の質問を返す。
「うん。駐車場に車停めたとこ。昼からは土地開発とリモート会議」
彼がフリースローラインの手前でシュート体勢に入ったので、ボールを拾うべくゴール下へ向かった。
もう習い性のようなものだ。
スーツのせいで少し窮屈そうではあるものの、それでもあの頃と変わらない綺麗なフォームで彼がボールを投げた。
ワンハンドの指先がボールから離れるところをこんな間近で見るのは久しぶりだった。
あ、入るな、と思ったら予想通りボールがネットに吸い込まれて落ちてきた。
「忙しいねぇ」
昔から雑なところが少しもない綺麗なシュートフォームだった。
言葉数が少なくてあまり目を合わせてくれなくても、彼の丁寧な仕草のそこかしこに魅力を感じた。
その全部も零さず拾い上げることが出来ていた。
ワンバウンドでボールを投げ返した結をじっと見つめて、氷室が二回瞬きをしてから微笑んだ。
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