第42話 carmine

社内便の手配や会議室、社用車の管理があるので、必ず誰かはフロアに在席しておかなければならないが、昔のように書類なしでは仕事が出来ないわけではない。


申請のほとんどはペーパーレス化されたので、パソコンさえ持って帰れば十分リモートワークでも対応できる。


太田と被らないように在宅の予定を組んで、久しぶりに丸一日リモートで仕事をしたら思いのほか捗った。


合間に家事をしながら好きな音楽をかけて、部屋着のスッピンで淡々と事務処理をこなす。


洋服選びの時間を髪を纏める時間も不要なので、朝はギリギリまで眠ることが出来たし、日中は布団も干せた。


ここ最近はずっと誰か(おもに氷室)の視線を意識て服装にもメイクにも気合が入っていたので、いい息抜きにもなった。


自分がどれくらい緊張感を持って出社していたのか思い知らされた一日だった。


うっかりリモートワークすることを氷室に伝えそびれてしまって、フロアに居なかったけど?とメッセージが来てちょっと慌てた以外は穏やかな平日だった。


氷室は付き合う前と変わらず、日に一度は用事あってもなくても人事総務のフロアに顔を出してくれる。


軽く立ち話をして戻って行くときもあれば、本当に一瞬だけ顔を見てすぐに出かけていくときもある。


大事にされていると思う。


いつでも結を気にしていると、言葉と態度で示すことを氷室は少しも躊躇わない。


それは、昔の結が、氷室にそうあって欲しいと願い続けたことだった。





リモートワークに入った太田と入れ替わりで出社した翌日は木曜日なのに気分はまるで月曜日だ。


丸一日働いた今も、それほど疲労感を感じていない。


間違いなく昨日自宅でリラックスできたおかげだ。


これまでは午前や午後、半日だけリモートワークを取っていたのだが、メディカルセンターにも慣れた事だし、これからはやっぱり終日リモートワークの日を作ろう。


平日に一日スッピンデーを作るだけで肌が一気に若返った気がする。


「失礼しまーす」


定時退社組が帰宅して、40分ほどが過ぎた頃、結はイノベーションチームのフロアを訪れていた。


昼間一度フロアを覗いたのだが、多忙な雪村は在席しておらず、夕方以降のほうが良いだろうと出直したのだ。


「あ、結」


彼女の声に気づいた氷室が自席から振り返って手を振って来る。


「お疲れ様。ねえ、氷室くん、雪村さんまだ外出?」


「いや、戻って一服中。昼間忙しくて煙草吸えなかったらって、ニコチン溜めてる」


「雪村さんってヘビースモーカーなんだ」


そういえば、何度かハーフコートに向かう途中で、駐車場に停められた車に凭れて煙草を吸っている雪村を見たことがあった。


スーツのイケメンが佇んでいるだけでも絵になるのに、咥え煙草で手元のスマホを睨みつけている横顔は作りものめいていて、思わず立ち止まって見惚れてしまったくらいだ。


雪村の席を窺う結に向かって手を広げた氷室が口を開いた。


「かなりね。残業?」


「今日太田ちゃんリモートだから、会議室の後片付け最後に回してて、この時間。もう上がるけど・・・・・・」


氷室の手前で行儀よく立ち止まったら、残りの隙間を埋めるように氷室が椅子ごと近づいてきた。


するりと腰の後ろに腕を回されて、二人の距離が一気に近づく。


定時過ぎているし、この時間からイノベーションチームに用事で来る人なんていないだろうけれど、それでも一目が気になって後ろ足を引いてしまう。


と、腰の後ろで組まれた手のひらに逃亡を阻止された。


「雪村さんに用事?」


「雪村さんが頼んでた名刺が届いたから。たぶん、霙依さんの、うちでの名刺も入ってると思うの。確認して貰いたくて」


土地開発から出向でメディカルセンターに着任した霙依の新しい名刺は一から作ったので、字体や役職名などきちんと見て貰いたかったのだ。


「俺から渡しとくよ」


結の手から名刺が入った紙袋を取り上げて、氷室が自分のデスクに置いた。


その隙に距離を取ろうとしたら今度は腰を掴まえて引き戻される。


「うん。助かる、んだけど・・・・・・氷室くん、手」


「一日ぶりだし、5分だけ」


「雪村さん戻ってくるでしょ・・・それに、霙依さんは?」


「雪村さんはまだ当分戻ってこないし、霙依さんは直帰。いまは二人きり」


問題ないよと笑った氷室が、背中を抱き寄せて来た。


「・・・ちょ」


慌てて目の前の肩にしがみつく。


宥めるように背中を撫でられて、怒るはずの言葉がどこかへ行ってしまった。


彼の手のひらの感触一つで、一気に仕事モードが抜けていってしまうのだから恋は恐ろしい。


「リモートワークする日は教えといて」


「うん・・・次に在宅する時はちゃんと言う」


「俺も、プロジェクトがもうちょっと落ち着いたら、リモートにしようかと思ってる。そしたら、うちで一緒に仕事しよ」


「え?氷室くんちで?・・・・・・」


氷室の家でリモートワークということは、必然的にスッピン部屋着は不可ということになる。


「なんか迷うことある?」


「し、仕事集中出来なさそう・・・」


他人様の家というだけで落ち着かないのに、それが彼氏の家となると緊張はさらに倍増することだろう。


何着て行くの?


会社に行くほどかちっとしてなくていいけど、リモートワークだからってゆるゆるな格好も気を抜いていると思われそうだし・・・


一人で百面相し始めた結の額を軽く弾いて氷室が楽しそうに笑う。


「忙しいときはちょっかいかけないようにするって」


二人きりだからとこういう触れ合いを連想したと思われたことが死ぬほど恥ずかしい。


「そういう心配じゃなくて!」


大慌てで否定したら、予想外の真顔が返って来た。


「・・・・・・そういう心配もしような?俺ら付き合ってるんだし。嫌がることはしないけどさ」


「・・・・・・うん・・・あ、でも、心配は、しません」


基本的に氷室への信頼は、あの頃から一ミリも目減りしていないのだ。


信用してます、という意味で微笑み返せば、噛みつくようなキスが返って来た。




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